迎え(2)
何事もなく自宅に戻ることができて、紫姫はホッとし、銃の安全弁をつけ鞄に入れ直した。
「じゃあ、ここで。ありがとう」
マンションが見えてきた辺りで、紫姫は翼に礼を述べて手を振る。
だけど翼はまだ送るつもりらしい。
「マンションの前まで送るって」
「いいのに」
「ちゃんとマンションの中に入るの確認しないと、心配だろう?」
そう言うと突然、紫姫の手を握ると先を歩いていく。
「ちょっ……!」
ギュッと握られ、紫姫は何も言えなくなって黙って手を引かれた。
――こうして手を握るの、いつくらいぶりだろう?
(……翼の手、大きくて……温かい)
覚えている手の感触じゃない。
小さくて、柔らかな子供の手じゃなくなって。
トクントクン、と紫姫の胸が軽やかに奏で始める。
(やだ……っ! 翼相手に! ただの幼馴染みじゃない!)
「そう言えば、マンションの地下シェルターってどうなってるんだ?」
突如翼に尋ねられ、紫姫はどきまぎしながら答える。
今の日本には一家に地下シェルターがついている。
区によっては、家同士地下が繋がっている所もあるようだ。
「うちのマンションで共用の地下シェルターがあるの」
「共用ならかなり広いんだろうな……」
急に翼が止まり、紫姫の足がもつれた。
「急に止まらないでよ」
「いや、あれ……」
翼が、マンションの前を指差す。
見ると、マンション前に黒の高級車が数台駐車してある。
テレビで見たことがある。
「あれって、対攻撃用にあつらえた装甲車だよな。官僚とかお偉い様が利用するようなタイプ」
「こんな普通のマンションに、偉い人が住んでいたかな……?」
紫姫は翼の言葉に首を傾げる。
「紫姫の父さん、お偉いさんじゃん」
「偉くないよ。研究者よ、しかも古代の伝承や民俗を研究してるしがない貧乏研究者」
「ふーん、でも前、テレビに出てたぜ?『竜を現代に甦らせる』とかなんとかって」
「それで、異世界生物を倒そうって力説してるんでしょ?夢物語だよ」
あの番組を見て恥ずかしくなり、テレビの電源を消した紫姫だ。
父は昔から『竜を現代に甦らせ、異世界生物に対抗する生物兵器として活躍させる』と熱く語っていた。
それは母が異世界生物に殺されてから加速し、滅多に家に帰らなくなった。
(しかも、いつの間に再婚して……)
口紅ババァと翼が呼んだ義母は、父の研究所にいた受付の女性だったと。
どうやって父に取り入ったのか、紫姫は知らない。
ただ、父がいてもいなくても我が物顔でマンションにいついて、
「もっと資産持ちだと思っていたのに……お金持っているとふんで結婚したのに」
とぶつくさ言っている。
「……とにかく、ありがとう。翼も早く家に帰って」
「あ、ああ」
「……手」
「えっ?」
「手、放してくれないと」
「あっ、ごめん」
自分のしたことに翼はようやく気付いたのか、パッと手を放す。
顔を真っ赤にしている彼を見て、紫姫も頬を赤らめる。
こんなこと、小さい頃は度々あることだったのに、今やるとこんなに恥ずかしいことなんて。
おかしな気分に胸がくすぐったくなる。
翼と視線が合い、クスリと小さく笑い合う。
すると――
「紫姫!」
と荒げた声が後ろから聞こえて、それが誰なのか分かり驚いて紫姫は声の主に振り向いた。
「お父さん! 帰ってきてたの?」
くたびれたスーツ姿の中年の男は、血相を抱え紫姫に近づくと突然翼の肩をどついた。
「紫姫に近づかないでもらおう!」
「お父さん! 何するの! その人翼だよ? 覚えてないの? お母さんと仲の良かった市橋さんの……」
「紫姫! まさかもうこの男と性経験を済ませているのか……!?」
「――はぁ!?」
父の思考の飛躍に、紫姫だけでなく翼も唖然と口を開ける。
「ちょっ……! おじさん! 久しぶりに会ったのに突然何? その疑惑?」
「聞いてるんだ! 答えろ!」
「ないわよ! 一体なによ! 人を淫乱扱い!?」
激高した紫姫に父は冷静さを取り戻したのか、「すまん」と謝りながら眼鏡を正す。
「登下校はなるべく数人と一緒にって言われてるんですよ。だから送ってきたんです――じゃあ、俺はこれで」
と、ムッとしたまま翼はお辞儀をすると踵を返し、旧来た道を早足で帰って行った。
「ごめん、市橋! また明日ね!」
紫姫は申し訳なさも含んで声を大にして、去って行く翼に声をかける。
翼はおざなりに手をあげて「了解」と意思表示をした。
「お父さん」
「紫姫」
声を発したのは同時だった。
「二週間ぶりに帰ってきたと思ったら、あの台詞? 何?」
「お前、本当に経験ないんだな?」
「……それを聞くために帰ってきたの?」
呆れた、と紫姫はこめかみを擦る。
「教えなさい!」
あまりの父親の憤怒に紫姫は
「ないわよ、そんなに気になるなら検査でもしようか?」
と溜め息をつきつつ提案する。
「本当なんだな?」
「本当だよ!!」
視線に気付き紫姫は周囲を巡らす。
滅多に外出しなくなった世間で、外で大声をだせば驚いて窓から顔をだして様子を見るのは当たり前になっていた。
目の前は自分宅のマンション――そこから幾つかの窓が開いていて、こちらを覗いている。
気まずそうに顔を逸らし、ソロソロと窓を閉める人もいる。
(まずった……こんな恥ずかしいことを公衆の面前で……)
耳まで真っ赤になって俯いてしまった紫姫と、今だ厳しい表情を崩さない父親に数人のスーツの男達が近寄ってきた。
「龍ヶ花さん。時間がおしています、早く」
「ああ……そうだったな。紫姫、お前が遅いから迎えにいこうとしていたところだったんだ」
父親の機嫌が直ったようだ、が紫姫の機嫌は直らない。
「これでも急いで帰ってきたんだけど?」
仏頂面で父親にそう答えたが、男達の姿に紫姫は怪訝な顔をしつつ緊張する。
スーツの上からでも分かる、屈強そうな身体つき。
そんな男達が数人いるのだ。
「……お父さんの職場の人?」
「まあ、そんなもんだ」
素っ気なく父親は答えると「さあ、車に乗りなさい」とマンションの前に停めてあった高級車に紫姫を乗せる。
「……あの女は? 一緒に行くの?」
念のために聞いてみる。
一緒に行くなら同じ車に乗りたくない。
「あの女? ああ、いまりのことか? 留守番だ。金を渡したからしばらく大人しくしてるだろう」
「ああ……そう……」
父親のいつもの素っ気なさに「ざまあ」と思うも、少なくても身内になっている相手にもこういう態度はどうなんだろう?
と思う紫姫だ。
(……お母さんがいたときには、そう、もっと人らしくて、私にも……『お父さん』って感じだったのに)
そう考えれば、先程の「経験あるのか!?」と問い詰められたときは、久しぶりに父としての顔を見たような気がした紫姫だ。
いつの間にか車は発進している。
途中、別れた翼とすれ違う。
彼の方も分かったのか、見えなくなるまで見送ってくれた。
(明日、ちゃんと謝ろう)
そう紫姫は思いながら、明日の登校には間に合うんだろうか? と不安になる。
(まあ、学校でなくても近所なんだから寄ればいいか)
そう楽観的に考えた。
生まれてから既にこうした世界だった紫姫は、明日も明後日も、そのまた次の日も
異世界生物に怯えながらも、麻痺した精神の中で毎日を送るんだろうな、と安直に考えていた。
――なのに
突然やって来た黒服の男達と
とち狂った研究者達によって、思いもよらない道へ強制的に進まされてしまうなんて
誰が思うだろう……?