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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

 私は雨が嫌いだ。


 窓の外の雨を眺めながら思う。






 ---






「水瀬さん、これから一緒にカラオケに行かない?」


 学校の教室でカバンに教科書を詰めて帰り支度をしているとクラスメイトの木下さんからそう声をかけられた。


「ごめんなさい。今日は家で夕飯の支度をしなくちゃいけなくて。」


「あー、水瀬さんって家で料理する人なんだ。すごいね。」


「うん、お母さんと2人暮らしだから、お母さんの帰りが遅くなるときは私がやってるの。ごめんね。」


「いいよ、いいよ。また今度誘うから、その時はよろしくね。」


 木下さんはそう言うと教室の入り口のところで待っていた井上さんたちの方へ駆けていった。

 木下さんはクラスのムードメーカーのような女の子だ。高校2年生になって今日で2週間。クラス替えのあったクラスに周りのみんなは慣れ始めているみたいだ。

 それに対して私は少し、というかかなり浮いて見えるのだろう。休み時間は机で本を読んでいることが多いし、昼休みも1人でお弁当を食べている。それで木下さんから声をかけられたんだと思う。


 私、水瀬優梨子は特に目立つことのない女の子だと思っている。特別可愛いと言われるような容姿でもなければ、からかわれるようなブサイクというわけでもない。小学生のころから続けている黒髪のポニーテールが目印の普通の女の子だ。


 教室の入り口から木下さんが手を振ってくるのを見ながら私も手を振りかえす。彼女たちがいなくなったのを確認して、私も帰り支度の続きに戻る。

 今日はスーパーで野菜が安かったはずだ。なくなっていることはないと思うができれば良い野菜を選びたい。私は急いで帰り支度を済ませると学校を出てスーパーへと向かった。


 

 家の近くのスーパーに入ると私は買い物かごを手に売り場を歩く。夕方時ということもあり、売り場には近所のおばさんたちがたくさんいる。

 目当ての野菜売り場を歩き、安いものがないか探す。どうやら今日は白菜が安いようだ。少し季節はずれな気がするけれど、今日は涼しいし夕飯はお鍋にしようか。確か、冷蔵庫に大根が1/4ほど残っていたはずだし。

 夕飯のメニューを決めると私は白菜をかごに入れ、他の足りない食材を探しに行く。にんじん、まいたけ、豚肉と鍋に入れる食材を次々とかごに追加する。


 そういえば、お母さんから明日の朝食にするパンを買うように言われているんだった。売り場を回り、パン売り場に来たところで頼まれ事を思い出した私は食パンと菓子パンをかごに入れる。

 ついでになくなりそうだった牛乳も買っておこう。

 そう思い、飲み物の売り場に移動しようとしたときに周りのおばさんの会話が聞こえてきた。


「一昨日もまた女の子が殺されたんですってねー。怖いわねー。」


「本当にねー。2人目でしょ。他にも近所で野良猫がたくさん殺されてるって言うじゃない。本当に警察は何をしているのかしら。」


 学校でも聞いた話だった。今日のホームルームの時に担任から連絡事項として登下校の際は注意するようにと言われたばかりだ。

 テレビのニュースによると10日前に隣の市に住む大学生の女性が殺害され、一昨日には学校のある市と同じ市に住む別の高校に通う高校3年生の女の子が殺害されたそうだ。さらに、周辺では野良猫などの小動物の虐待や殺害が頻繁に発生しているらしい。

 警察では女性2名が殺害された事件と小動物の虐待を行っているのが同一犯だとして捜査していると報道されていた。


 私は高校と同じ町に住んでいる。つまり、2人目に殺害された女子高生と同じ市内に住んでいるということだ。

 売り場の牛乳パックを取りながら、私は売り場から来る冷気とは違う種類の冷たさを感じた。


 

 スーパーから出ると空が暗くなり始めていた。空を見上げると遠くに夕焼けが見える。

 下がった気温に肌寒さを感じた私は制服の前を合わせ、道を急いだ。


 今日はお母さんが遅くなると言っていたから、夕飯の支度はゆっくりで構わない。先に食べておいてもいいよと言っていたがやっぱり夕飯はお母さんと一緒に食べたい。

 鍋であれば食材だけ用意して火にかければいいというところまでやっておけばいいだろう。そこまで用意したら読みかけの小説を読んでしまおう。


 そんな風に家に帰ってからの予定を考えていると、後ろに人の気配を感じた。後ろから誰かが来たのだろう、そう思って道を譲るつもりで歩道の端に移動しつつ後ろを振り返る。

 しかし、後ろには誰もいなかった。

 気のせいかと思い、また道を歩き出す。家まではあと5分ほどだ。


 しばらく歩くとまた後ろに人の気配を感じる。

 けれど、後ろを振り返っても誰もいない。

 歩いては後ろを振り返るということを何度も繰り返しているうちに私は走り出していた。

 きっとスーパーであんな話を聞いたせいだ。頭ではそうわかっているが、怖いものは怖い。

 私はスーパーの袋を揺らしながら全力で走った。


 住んでいるアパートの近くまで来ると街灯が道路を明るく照らし出していた。その光に安心して足を緩める。途中ですれ違ったサラリーマン風の人には変な奴だと思われたかもしれない。


 

「はあはあ。」


 私は家に入ると荒く呼吸を繰り返した。ドアに鍵をかけて荷物を床に下ろし、そのまま玄関に座り込む。

 普段運動をしていないせいで、数分の全力疾走でもう息が上がって立つことができない。

 私はそのまま数分間座り込んでいた。


 家に帰ってから数分経って復活した私は服を着替えて夕飯の支度を始めていた。

 台所に立って白菜を刻む。5センチ幅に切った白菜を皿に並べ、次は大根を刻み始める。大根を短冊切りにし、続いてにんじんも同じように短冊切りにして皿に並べる。

 野菜の準備はこれで終わりだ。まいたけと豚肉は鍋を食べ始める時にパックから開ければいいので特に準備は必要ない。後はお鍋にダシの用意をすれば夕飯の支度は完了だ。

 私は刻んだ野菜が盛られたお皿にラップをかけ、ダシの準備に移る。


 そのタイミングでインターホンが鳴った。

 コンロの火を消してインターホンのモニタを確認しに移動する。時計を見ると18時50分だった。

 居間のモニタを確認したがモニタには誰も映っていなかった。

 帰り道のことを思い出し、不安になりつつも玄関へ移動しドアスコープを覗く。

 だが、やはりドアスコープの小さな視界からも人影は見つからなかった。


「イタズラだったのかしら?」


 私は不安から声に出して確認する。正直、帰り道のことといい、怖くてしかたない。でもお母さんが帰ってくるまでこの家には私だけだ。


「よしっ、ちゃっちゃと夕飯の準備を終わらしてしまおう。」


 不安を紛らわせるため、元気よく声を出す。

 台所に戻った私は不安を感じつつも夕飯の準備を終わらせ、その後は自分の部屋に戻って読みかけの小説に没頭していった。


 

「イヤー!」


 自分の部屋で本を読んでいると玄関の方からお母さんの悲鳴が聞こえた。

 私は本を放り出すと急いで玄関へと移動する。


「お母さん、どうしたの!」


 ドアを開けてお母さんに問いかける。見るとお母さんは玄関の前にしりもちをついていた。


「ああ、優梨子。それが玄関の横に猫の死体が置かれてあって、驚いて腰を抜かしちゃったのよ。」


 お母さんは青い顔をしながらそう言った。私は言われてドアの陰になっていたところを確認する。

 そこには首を切られ身体をズタズタに切り裂かれた猫の死体があった。


「ヒッ。」


 恐怖のあまり、短く悲鳴を上げる。もしかして、これは連続殺人の犯人がやったものなんじゃないだろうか。イヤな考えが頭をよぎる。


「……お母さん、これって連続殺人の奴なんじゃ。」


 お母さんは私の言葉を聞いてハッとしたような表情を浮かべる。


「……そうね。もしかしたら違うかもしれないけど、そうかもしれないわ。……警察に連絡しましょう。」


 そう言うとお母さんは立ち上がり、携帯電話を取り出して警察へと連絡を始める。私は1人で部屋の中に戻る気にもなれず、お母さんの隣で警察との電話が終わるのをただ静かに待っていた。


「近くの交番からお巡りさんが来てくれるんですって。10分ほどかかるでしょうし、家の中で待ってましょ。」


 電話を終えたお母さんが言う。家の外で見張っていなくてもいいのだろうかとも思ったが、正直近くにいたくなかったので素直に従うことにする。


「晩御飯はどうするの?」


「そうねぇ。……優梨子はもう食べたの?」


 お母さんからの質問に首を振って答える。


「そう。今から食べ始めてもたぶん途中で警察の人が来るでしょうし、悪いけど終わるまで待ってくれる?」


「わかった。」


 私は頷くとお母さんと一緒に居間へと移動した。


 

 10分後、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえはじめ、家の前まで来て止まった。パトカーが来るほど大事になったのかとお母さんと顔を見合わせていると家のインターホンが鳴った。

 モニタ越しに応対すると「警察の者です」と名乗りがあり、よくテレビであるように警察手帳を見せられた。警察手帳を見せられなくても後ろにパトカーが映っていたので疑いようもないのだけれど。


 外に出てみるとパトカーと別の大きな車の2台の車が止まっていた。

 私たちの対応は年配のスーツを着た刑事さんがしてくれるようだ。後ろでは鑑識の人だろうか、カメラを持って猫の死体やその周囲を入念に撮影していた。


 事情聴取では最初にお母さんが猫の死体を発見したときの状況が聞かれていた。でも、お母さんは普通に帰ってきて猫の死体を見つけただけだ。普段より少し帰りが遅かったことくらいしか変わったところはなかった。


「では、お嬢さんの方で何か気付いたことはありませんでしたか?」


 お母さんへの質問が終わると刑事さんは私にそう尋ねてきた。そこでふと私は夕飯の準備の時にインターホンが鳴らされたことを思い出した。


「そういえば、夕飯の準備をしているときにインターホンが鳴りました。」


 私が思い出したことを告げると刑事さんとお母さんは驚いたような顔をした。


「ち、ちょっと、優梨子、それは本当なの?」


 特にお母さんは驚きが大きかったらしく、慌てたように聞き返してきた。


「う、うん。インターホンに誰も映っていなかったし、ドアスコープからも誰も見当たらなかったからイタズラだと思っていたんだけど。」


「インターホンが鳴ったのが何時ごろだったか覚えていますか?」


 私がお母さんに答えると横から刑事さんが落ち着いた声で質問してきた。


「確か、18時50分ごろだったと思います。インターホンが鳴った時に時計を見ましたので。」


「そうですか、ところでそれ以降でインターホンが鳴ったことはありますか?我々が来た以外で。」


「いいえ、刑事さんたち以外には使われていないです。」


 質問に答えると刑事さんは真面目な顔になってインターホンの方を示す。よく見ると赤黒い血痕のようなものが付いているのが見えた。


「ご覧のようにインターホンには血痕が付着しています。おそらく、猫の死体を遺棄した何者かがインターホンを鳴らしたのだと思われます。」


 その言葉を聞いて私は血の気が引くような感覚を覚えた。隣のお母さんを見ると青い顔をしている。おそらく私も同じような顔になっているだろう。


「インターホンが鳴った時に外に出なかったのは良い判断だったと思います。このこと以外で何か気付いたことはありませんか?些細なことでも構いませんので。」


 その言葉に私はスーパーからの帰りに人につけられているような気がしたことを話した。それを聞くとお母さんはさらに顔を青くする。


「でも、後ろを見ても誰もいなかったのでこれは気のせいかもしれないです。スーパーで事件のことを聞いて敏感になっていたというのもありますし。」


 私は自信がなかったのでそう付け加える。


「そうですか。どちらにしても水瀬さんのお宅にこのようなイタズラがされている以上、お嬢さんも注意した方が良いでしょう。できれば夜道などでは1人にならない方が良い。」


 刑事さんは私にそう注意を促すと他の刑事さんたちと一緒に帰っていった。


 

「帰り道に誰かにつけられていたかもしれないっていうのは本当なの?」


 刑事さんたちが帰った後、遅くなった夕食を食べながらお母さんが質問してくる。


「わからないよ。後ろには誰もいなかったし、事件の話を聞いたから不安になっていただけかもしれないし。」


「そう。でも気をつけなさいよ。刑事さんも言っていたけど帰り道には注意するのよ。そうだ、防犯ブザーを持っていた方が良いんじゃない?」


「大丈夫だよ。さすがに小学生じゃあるまいし。」


「駄目よ。防犯ブザーは小学生のためだけの物じゃないでしょう?女性の防犯にも使えるはずよ。」


 その後も私はお母さんに反論してみたが、結局、防犯ブザーを明日の帰りに買ってくることを約束させられてしまった。


 

「はあ。なんでこんなことに……。」


 お風呂に浸かりながら愚痴をこぼす。

 そもそも自分の周りでこんな事件が起きるなんで私のキャラじゃない。そういうのはもっと木下さんとかのように物語の主人公になれるような人の周りで起きるべきだ。


「結局、防犯ブザーも買いにいかないといけないし。」


 そもそも防犯ブザーはどこに売っているのだろうか?コンビニ?いやコンビニではさすがに見たことがないような気がする。であれば家電量販店かホームセンターあたりだろうか?

 私は憂鬱になりながらも学校からの帰り道の地図を思い出す。だが、いつもの帰り道にはどちらもなさそうだ。どうやら明日は遠回りして帰らないといけないらしい。


 その後、私はお母さんから防犯ブザーの購入資金を回収し、眠りについた。


 

 次の日の朝は曇り空だった。朝食を食べながら見ていたテレビの天気予報によると午後から雨が降るらしい。

 今日は遠回りして帰らないといけないというのに面倒なことだ。

 私は朝食のトーストを食べ終わるとお母さんよりも一足先に学校へと出発した。


 学校には昨日の事件のことは伝わっていないようだった。いや、学校には連絡が入っているのかもしれないが、私の周りにはその情報は流れていないようだ。

 午前の授業が終わり、昼休みが終わってもう午後の授業が始まろうという時間にもかかわらず、私に昨日の事件を聞きに来る人は誰もいない。

 昨日は質問攻めにされたらどうしようかと思っていたけれど、心配のしすぎだったみたいだ。そもそも聞かれたところで知っていること以上のことは話せないのだし、気にしすぎだったのだろう。


 予鈴が鳴り、教室の中が慌ただしくなる。

 私も教科書とノートを机の上に出し、窓の外を眺める。

 空には分厚い雲が広がっている。今にも雨が降り出しそうだ。

 そう思っていたら窓に雨粒が当たった。そのまま眺めていると見る見るうちに雨足が強まり、窓には水を流したような流れができていった。

 買い物に行くのをやめようかな。

 窓の外の景色を見ているとふとそんなことを考えてしまう。けれど、防犯ブザーを買って帰らないとお母さんが心配するだろう。それにすでにお金ももらっている。

 そんなことを考えていると本鈴が鳴り、先生が教室に入ってきた。


 

「うわぁ、土砂降りだ。」


 校舎をから出ようと外を見てつぶやく。

 どうやら午後から降り出した雨は弱まることなく、むしろ強くなっているようだ。

 心の中でため息をつきながら傘を広げる。これから家電量販店へ行かないといけないのに。

 ケータイを取り出し、事前に調べていた地図を確認して校舎を出る。家電量販店までは学校から歩いて20分ほどだ。


 家電量販店の中に入ると天気のせいか人が少なかった。

 入り口のフロアガイドを確認して目的の売り場を探す。セキュリティコーナーは1階のレジ近くにあるようだ。

 売り場に移動して商品を眺める。

 単純な円形や楕円形のものにキャラクターをかたどったもの、色も赤や青、黄色など実に様々な商品が並んでいる。

 値段は1000円から3000円程度のようだ。やはりキャラクターをかたどったものが高い。

 私はピンクのハート形をしたキーホルダー状の防犯ブザーを選んだ。

 少し可愛すぎるかもと思ったが、自分の気に入ったものを選ぼうとそのままレジまで持っていった。


 会計を済ませ、店の入り口で防犯ブザーをカバンに取り付ける。

 家に帰ってからでもとも思ったが、せっかくだしすぐに付けることにした。

 カバンに揺れるハートが可愛い。

 なんとなくうれしい気分になって私は店を出た。


 

 降りしきる雨の中、家路を急ぐ。

 店を出たときは少し雨足が弱まっていたが、また強くなってきたようだ。

 風も出てきたようで濡れた制服が肌に張り付いて気持ち悪い。

 早く家に帰って暖かいお風呂に入りたい。


 曲がり角を曲がり、細い路地に入る。

 まだ18時になったばかりだというのに、この天気のせいか路地はとても暗い。

 街灯のない路地にポツンと置かれた自動販売機が弱々しい明かりを放っている。

 早く通り過ぎよう。

 カバンを握る左手をギュっと握りしめ私は足を速めた。



「ッ!」

 

 自動販売機を通り過ぎたときに左肩に焼けるような痛みを感じた。

 驚いて肩を見ると濡れた制服に血がにじむのが見える。

 同時に自動販売機の陰に隠れた細い横道に黒い影が見えた。


 恐る恐る振り返るとそこにはずぶ濡れになった黒いコートの男が立っていた。


「ヒッ。」


 恐怖から思わず声が漏れる。

 男はどこか虚空を見つめ、よく見ると右手にはナイフのようなものが握られていた。

 左肩の痛みはあれのせいか。

 痛みに耐えつつ男から距離をとるように後ずさる。


 男はブツブツとよく聞き取れない声で何かをつぶやいている。

 尚も慎重に後ろに下がりつつ、カバンに取り付けた防犯ブザーを見る。

 鳴らすべきか、鳴らさないべきか。

 正直、今の男の様子を見るに余計な刺激を与えるような行動はとらない方が良いように思える。


 ゆっくりと後ろに下がり、男との距離が3メートルほどに離れたところで男と目が合ってしまった。

 虚ろで光を放たなない何も見ていない目。

 その目が、私と目があった瞬間に何かを捉えた。


 私はたまらず右手に持っていた傘を男に投げつけた。

 急いで身体の向きを変え、男とは反対へ駆け出す。

 走りながら防犯ブザーを引っ張って音を鳴らす。

 だが、雨に濡れたブザーはくぐもった音しか発せず打ち付ける雨音にかき消されていた。


「もうっ、使えないっ!」


 走りながら役に立たない防犯ブザーに文句をつける。

 肩越しに後ろを振り返ると男もこちらに向かって駆け出しているのが見えた。


「……さぉり……。……なんで……。」


 後ろから男が何かをつぶやいているのが聞こえてくる。

 私は“サオリ”じゃない。関係ないんだから放っておいて。

 そんな私の心の声が聞こえるはずもなく、男は距離を詰めてくる。


 雨に濡れた前髪が顔に張り付き、ただでさえ悪い視界がさらに悪くなる。

 左肩も雨に濡れて痛みがひどくなるばかりだ。

 大通りまでの数10メートルがやけに遠く感じる。

 こんなことであれば本ばかり読まないでもっと体を鍛えておけばよかった。


「キャッ。」


 余計なことを考えていたせいだろうか、私はつまずいて転んでしまった。

 路地の水たまりに身体ごと突っ込んでしまい、制服はもはやドロドロの状態だ。

 すぐに起き上がろうと地面に両手をつく。

 不意に身体に当たる雨粒がなくなった。


 恐る恐る顔を上げる。

 そこには、私に覆いかぶさるように両手を振り上げた男がいた。


 両腕を顔の前に出して頭を守る。

 直後、右腕に鋭い痛みが走った。


「いった……い。」


 痛みのあまり泣きそうになる。けれど今はそんなことよりも逃げださないと。

 痛みをこらえて抱えていたカバンで男を殴りつける。

 男がひるんだ隙に立ち上がり、男の顔を目がけてカバンを投げつける。

 私はカバンが男に当たるのを確認する間もなく駆け出した。


 痛みを堪え、後ろを振り返ることなく走る。

 今度はつまずかないよう足元をちゃんと確認して走っている。

 視界の隅を電柱が何本も通り過ぎていく。

 もう少しで大通りだ。


 大通りに出た私は急いで通りを確認した。

 けれど左右どちらにも人はおろか車すら走っていない。

 慌てて後ろを振り返る。

 男はまだあきらめることなく私を追いかけてきていた。


「くっ。」


 私は一瞬の逡巡の後、大通りを右に向かって走り出した。

 こちらに進んでいけば、すぐに駅前の大通りと行き当たるはずだ。

 そこまで行けば、人はともかくきっと車には出会える。


 歩道の水たまりの水を跳ね上げながら必死に走る。

 もうすでに足を動かすのも辛くなっている。

 10メートルほど走ったところで期待を込めて後ろを振り返る。

 けれど、男はこちらに向かって走って来ていた。


「もう、いやっ。」


 私はそう叫びつつも足を緩めることなく走る。

 ここで止まってしまったらどうなるかわからない。

 もし私が殺されるようなことになるとお母さんを1人にしてしまう。

 それだけはダメだ。


 私は必死に自分を勇気づけながら足を動かし続ける。

 向かい風になったことでさきほどから雨粒が顔に当たり、目にも容赦なく入ってきている。

 けれど、さらに悪くなった視界に大通りが見えた。

 耳にも雨音に混じって車の走る音が聞こえてくる。

 もう少しだ。

 私は交差点を一気に駆け抜ける。


 直後、車のクラクションが鳴り響き、急ブレーキの音が聞こえた。


 私は後ろを振り返る。

 そこには大型トラックに吹き飛ばされる男の姿があった。


 飛んでいく男の虚ろな目が私を捉える。

 瞬間、男は顔を歪めて笑い、イヤな音を立てて潰れた。






 ---






 未だに脳裏に焼き付いて離れないあの男の顔を振り払い、私は窓から視線を外す。

 けれど耳には雨音が届いてくる。


 私は雨が嫌いだ。


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