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「つばき、今日は1日執務室でおとなしく、ですからね?」
「はーい」
もう何度目になるか分からないやり取り。
彼が執務室と各騎士団や事務方を行き来するたびに、言い含められている。
今日は朝からこればっかりだ。
王宮では、すっかり私がジェイドさんの逆鱗なのだという噂が定着しつつある。
・・・私とすれ違う人が息を飲んだり、小さく声を上げたりしていて、時折ひそひそと囁き合う声がいやに大きく耳に届いてきて、実感してしまった。
しかも今は捻った足を徹底的にジェイドさんが庇ってくれているから、移動のほとんどが横抱きにされたままなわけで・・・。
視線が痛いとか恥ずかしいとか、そういうことをジェイドさんにぶつけていたら、「これでつばきを傷つけようとする人はいなくなりますからね」なんて、甘い笑顔でさらりと言われた。
・・・その笑顔、大好きなんだけど噂を煽るんだよね・・・。
そして私も私で、ホルンの街で買った赤い花の髪留めをしなければいいのに、これを外したら何かに負ける気がして外すことが出来ずにいる。
・・・意外と私、肝が据わってるみたいだ。
それに、お屋敷で大人しくしているという選択肢を私に選ばせなかったのは、ジェイドさんが一刻も早く私の存在を周知させようと思っているから、なのかも知れない。
本当のところは確かめてはいないけど、彼は私に害のあることはしないだろう。
きっと守ってくれている、と感じることが出来るようになったのだ。
そういうわけで、私は彼に言われた通りに執務室でおとなしく本を読んでいた。
足元に置いたクッションの上に、靴を脱いだ足を乗せて・・・。
ページをめくって、この世界の各地にあるという壁画や遺跡が描かれている挿絵を眺める。
時間はたっぷりあるから、それほど厚さのない本に最初から挑んでいた。
「・・・うーん・・・」
唸りながら本を睨んでも、ほとんどの遺跡と壁画は私には理解出来ないようなビジュアルをしていて、ため息が漏れる。
どれくらい前の時代のものなのかは分からないけど、芸術センスは私の方が断然あるような気がしてならない。
そんな中、目を引くのはやっぱり昨日偶然見つけたあのページだ。
時間をおいてもう一度見るその絵は、どこからどう見ても、ちょっと絵の上手い小学生が写生大会に出展するために描いたかのような、風景画にしか見えない。
「ビルと、列車・・・にしか見えないよね・・・」
本を持ち上げて回して見たり、いろいろ角度を変えたりしても見え方は同じ。
ということは、私が抱いた感想は、きっと外れてはいないと思えた。
そして、この絵を描いたのは、私と同じ世界からやって来た渡り人なんじゃないかと思い始めていた・・・その時だ。
突然ドアがノックされて、驚いて声の出ない私が返事をする前に開いた。
「・・・つばき?」
本を開いたまま固まっていた私を見て、小脇に書類をたくさん抱えたジェイドさんが、一瞬戸惑ったような表情を浮かべて固まっていた。
私は彼の言葉にはっとして、慌てて口を開く。
「おかえりなさいっ」
ぱたん、と本を閉じて靴を履こうとするより早く、足早にやって来た彼がソファに腰を下ろす。
どうやら急ぎすぎて、ノックの返事も待てずにドアを開けたんだろう。
「足の具合はどう・・・?」
おとなしく、のくだりと同じくらいの回数聞いた台詞に、思わず苦笑してしまう。
本当に、心配性なんだから。
「なんともないですよ。
じーっとしてるから、動かしたくてうずうずします」
「分かってますよね?
おとなしく、ですからね」
「・・・ふぁい」
正直な気持ちを打ち明けたら、頬を両手で挟んで顔を上げさせられる。
何も悪いことはしてないはずなのに、空色の瞳がまっすぐに見下ろしてくる様子に、視線をぶつけるのを躊躇してしまう。
躾を受けるペットの気持ちが、なんとなく分かるような気がする、なんて頭のどこかで考えながらも、私は彼の持ってきた書類の膨大さが気になってしまった。
すると頬から手を離した彼は、書類を持ったまま立ち上がる。
「それ、全部今日中に目を通す書類ですか?」
体を捻って、視線で彼の背を追う私に、声だけが返ってきた。
なんだか忙しそうだ。
「東の町に持って行く書類です。
本当は明日中に済ませる書類なんですけど・・・視察が入ってしまいました」
そう言いながら、彼の手はどこからか持ち出した大きなカバンに書類をしまいこんでいた。
視察の準備をしているんだろうか。
忙しそうな彼になんとなく声を掛けづらくて、私はしばらく黙って彼の背中を見つめる。
シャツの上に黒いセーターを着こんだ彼の背中は、お酒を片手に暖炉を見つめている時のそれとは、なんだか違う気がした。
頑張っている姿を間近で見てきたからか、こうして意識して背中だけを見つめる機会なんてなかったように思う。
私のよりも大きくて頑丈な背中は、どんなに忙しくて寝不足でも、しっかり補佐官の顔をしているのを私は知っている。
ふいに彼が手を止めて、私の方を振り返った。
私は急に彼と目が合ったことに驚いてしまって、どんなカオをしたらいいのか分からなくなってしまって。
内心で動揺している私に向かって、彼が言った。
「・・・まだ歩けませんよね」
「え、あ・・・はい」
尋ねられたことに答えて頷くと、彼が残念そうに肩を落とす。
「私はお屋敷で待ってます・・・ね?」
いつものジェイドさんを真似て小首を傾げれば、彼が大またで歩いてきて隣に座った。
勢いが良すぎて、その反動で私の体がわずかに跳ねる。
その揺れをやり過ごしたところで、ぎゅむ、と横から抱きつかれて身動きが取れなくなった。
彼の頭はちょうど私の背に回ってしまって、その表情は全く見えない。
ただ、その腕にこめられた力の強さに、私は心底驚いていた。
力任せなわけでもなく、きゅうっと心まで締め付けられるような、そんな強さだ。
なんとも表現出来ない、少し苦しいけど凄く嬉しい気持ちになって戸惑っていると、くぐもった声が背中越しに伝わってくる。
「夢見が悪くなりそうです」
「え?」
視察となんら関係ない台詞に、私は間抜けな声を出してしまった。
「枕が変わると眠れないタイプですか?」
他に何と返せばいいのか分からない私は、咄嗟にそんなことを尋ねる。
でも彼は、その質問を小さく笑ってかわすと、そっと息を吐いた。
「行きたくないなぁ・・・」
ぼやいた彼が、首の後ろにキスを落とす。
わざと音を立てられて、恥ずかしさとこみ上げてくるむず痒さみたいな感覚に、私は思わず息を飲んでやり過ごした。
音を立てるのは恥ずかしいから止めて欲しい。まだ一度も言えた試しがないけど。
「ジェイドさん、仕事中・・・っ」
身を捩ろうとするけど、こういう時は男の人全開になるからか、彼の腕はびくともしないのだ。
分かっているけど、一応抵抗しないと大変なことになりそうだった。
私は言葉を絞り出しながら、必死に彼の唇から逃げようとする。
「わかってます」
「わかって、な・・・っ」
飄々とした声と、次々に降ってくる熱に言葉が途切れそうになる。
一緒に寝てもこんなことしないのに、どうして今、こんなふうに触れてくるんだろう。
理解できない男の人の部分に、私は困ってしまっていた。
そして、ぎゅむ、と抱きついていた腕が緩んで、手のひらが腰から上に這い上がってくるのを感じた私は、鼓動の音が強すぎて口から出るんじゃないかと錯覚してしまう。
いろんなところを触られたら、悲鳴みたいな声が出てしまうだろう。
そんな自分を想像して、恥ずかしさに耐えられなくなった私は、やめて、と言おうと口を開いた。
その、ほんの一瞬手前。
コンコンコン、と場違いなほどに規則正しく、ドアがノックされた。
ジェイドさんの手と唇がほんの少しだけ宙に浮く。
私は巻き取られそうになっていた意識を取り戻して、ひそかにドアの向こうの人物に向かって全身で感謝していた。
ノックに返事の代わりに一瞥をくれたジェイドさんは、すぐに私の腰を抱き寄せる。
頬に添えられた手が熱くて、体がぴくん、と反応してしまう。
そんな私を彼は口元だけで笑った。
「ジェイドさん、」
「ん・・・?」
ドアの向こうに誰かがいるのかと思うと、囁きほどの小声しか出せない。
彼も小さな声で、私に返事をする。
かち合った空色の瞳に燻るのは、何なんだろう。
知りたい気持ちもあるけど、今はそんなことを考えてる場合ではないのだ。
「鉄子さん、困ってる・・・」
言葉が空色の瞳に吸い込まれるような感じに、不思議な気持ちを抱いた私の唇を、彼の親指がなぞっていく。
その指をぱくっと咥えたら、彼の目が大きく見開かれた。
そんなに驚くとは思わなかった私の方が驚いてしまって、慌ててすぐに離したのに、彼は少しの間呆けていて。
でもすぐに我に返ったのか、次の瞬間には熱を帯びた瞳を私に向けていた。
・・・何かを間違えた。
そう気づいてももう遅い。
「悪いコですね、つばきは・・・」
言いながら顔が近づいてきて、避けようなんて思う間もなく、かぶりつくようにしてキスをされてしまった。
いつかと同じ、貪るような行為に翻弄される裏側で、彼の様子はまるで食事をする獣みたいだ、なんて考えてしまう。
いや、よく考えたら、本当に獣の子孫なんだった。
だんだんと息が上がってきて、まともに物を考えられなくなってくる。
私はほわほわと浮かび上がったままの意識の中、もう一度、さっきよりも強くドアがノックされるのを聞いていた・・・。
「ほんとにさ、よくやるよね」
目の前で憤慨しているのは、おととい王立病院でお世話になったリュケル先生だ。
そういえば、私も憤慨してもいいんだろうか。
ジェイドさんが獣になったところで、もう一度ドアを叩いた鉄子さんが止めるのを振り切ったらしいリュケル先生は、思い切りドアを開け放って入ってきたのだ。
そこで目撃した光景に憤慨して、今に至る。
ちなみに、お茶を持ってきてくれた鉄子さんも、なんだか冷たい視線をジェイドさんに思い切りぶつけて去って行った。
・・・あの視線、たぶん普通の事務官だったら怪我してると思う。
ともかく、ジェイドさんはリュケル先生の登場で少し冷静になったようで、私の隣で飄々とお茶を啜っていた。
でも私は忘れない。
リュケル先生が第一声で「どんだけ待たせる気?!」と言って入ってきた時に、至近距離で舌打ちが聞こえてきたことを・・・。
きっと、冷静になるのと同時に、すごく癪だったに違いない。
私はカップを両手で包んで暖を取りながら、目の前に座った先生の顔色を伺っていた。
すると、彼は私と目が合った瞬間に言ったのだ。
「リアさ、その足、ちょっと針治療してみない?」
また針・・・?!
取り落としそうになったカップは、瞬時に動いたジェイドさんの手で支えられていた。




