32
頭がぼーっとする・・・。
もう熱はないというのに、考えが上手く纏まらない。
霞がかかったような、手をばたばたさせて、追い払いたくなる何かが居座ってるのだ。
「・・・うー・・・」
横になったまま、ため息なのかうめき声なのか分からない声が出た。
今日はぜっったいに、ベッドで、安静に、だそうだ。
元気なのに、と文句を言ったら、困ったように微笑まれてしまったのは今朝のこと。
熱が下がったのに、まだベッドの上に寝かされている理由は、昨日にある。
彼は、昨日の出来事なんかなかったかのように部屋をノックした。
返事をしたら、すぐに入ってきて、やっぱり何もなかったかのように挨拶をして、私の髪を櫛で丁寧に梳いてくれた。
それはありがたかったけど、同時にすごくがっかりもした。
あの時、もう少しで触れそうだった唇を避けたのは私だ。
だから仕方ない。解ってる。
本当は触れて欲しいのに、今はやめて欲しいと思う自分にどうしようもなく嫌悪を感じてしまう。
・・・朝イチでこんなに気持ちが落ち込むのも、何年ぶりだろ・・・。
昨日からぐるぐる同じようなことばかり考えて、きっと頭が麻痺してるんだろう。
そんなことを思って、ため息を吐いた時だ。
彼がそっと、おでこに触れてきた。
ひんやりした感触に、一瞬体がびっくりする。
こんな反応したら彼に失礼なのに・・・なんて、思っていたら、浮遊感に襲われた。
自分が倒れたのかと錯覚するくらい、ぐるん、と視界がまわって目をきつく閉じる。
手で目を覆えば、彼が「ちょっと我慢して」と囁いたのが聞こえた。
そして、背中に柔らかいものが触れて、それがベッドだと気づいた私は目を開けた。
目の前には、私に毛布を掛けながら眉間にしわを寄せた彼がいて。
・・・それ、シュウさんみたい。
場違いで空気を読まない感想を抱いた刹那。
「まったく・・・昨日あんなところで寝るからですよ」
ため息と一緒にお小言が降ってきた。
肩口まで毛布を掛けて、ぽふぽふした彼が「ちょっと待ってて」と言い残して、部屋を出て行く。
ふらふらくらくらする感覚に、私はそっと目を閉じた。
どれくらい経ったのか、彼が戻ってきた音がして、少し重くなった瞼を開ける。
「つばき?」
「はい・・・」
言葉を発したいのに、どこか膜が張ったみたいにぼんやりする。
「・・・ちょっと、失礼しますよ・・・?」
硬い声音で囁いた彼が、ベッドに腰掛けた。
そのまま私の背を支えて体を起こす。
頭が浮上する感覚に視界が揺れて、目を開けていられなくなる。
「・・・ジェイドさん・・・?」
おかしいな、なんか、声が掠れて喋りにくい。
彼の名を呼ぶと、耳元で返事が聞こえた。
背中に触れてる温かいものは、彼なのかも知れないと思い至って、動悸が激しくなる。
なんでこんなに密着してるの・・・?
戸惑いながら息を整えていると、彼が、私の胸元に手を差し込んできた。
「や・・・っ」
反射的に身を捩って、その手から逃れようとすると、彼の怒気を孕んだ声が飛んできた。
同時にふらついた体を、がしっ、と捕まえられる。
「熱を測るだけです、じっとして」
「・・・え・・・?」
「たぶん熱がありますよ。
ソファに座っていても、上半身がぐらついてましたし・・・。
ちょっとだけ、大人しくしてなさい。すぐ終わるから」
私はその言葉と声音から、彼の真剣さを感じ取って素直に大人しくすることにした。
じっとしていると、彼の手が服の中に入ってきて、体温計をわきの下に挟んで出て行く。
彼の手がひやりとして、体がびくついてしまったのは、もうどうしようもないと思う。
もしかして、熱のせいで彼の手を冷たく感じるのかも知れない。
しばらくして、彼が「体温計、取りますよ」とひと言告げて、もう一度服の中に手を入れた。
今度も冷たくて、体が反応してしまった。
彼は全く気にした様子もなく、少しの間沈黙してから、大きなため息をつく。
「今日中に熱が下がらなかったら、明日は病院に行きますよ」
そのひと言に、やっぱり熱があったんだと理解した。
うっすら目を開けると、視界のぐらつきは少し治まったみたいで、ほっと息を吐く。
「・・・熱、高かった・・・?」
小さな声で問うと、彼も同じように小さな声で返してくれた。
「ええ、私が心配するくらいにはね」
そんな答えじゃ、何℃なのか分からないのに。
そう思いつつも、私は目を開けて自覚してしまった彼との距離に、戸惑ってしまう。
上半身がぐらつくと言っていたくらいだから、私が自力で座っていられると思わなかったんだろう。
彼は自分の胸に私の背を預けるようにして、熱を測る間ずっと密着していたらしい。
熱が上がったの、この体勢のせいじゃないのか。
そう思いつつも、私は昨日からずっと心の中心に居座る問題を無視して、彼に体重を預けてしまっていた。
これは重症だ。その自覚もある。
「今日・・・」
「薬を飲んで、1日寝てなさい。
それで熱が下がらなかったら、明日は病院です」
さっきと同じことを、言い聞かせるようにして話す彼。
耳元で聞こえる彼の声に、私は目を閉じて頷いた。
「・・・ほんとにもう・・・」
ぱさりと無造作に解いたままだった髪を、彼が呟きながら手でゆっくり梳いていく。
それがまた心地良くて、私はうっとりと息をついた。
するとふいに、首筋が寒くなる。
どうやら彼が、私の髪を片側に寄せたらしかった。
頭がふらふらぐらぐらする感覚がだいぶ和らいだ私は、少し冷静になった頭で考える。
もしかして、この人、ここで和んでる場合じゃないんじゃないのか、と。
「ジェイドさん・・・?」
そっと彼を呼ぶと、耳元で返事があった。
返事と一緒に、吐息が首筋にかかる。
「・・・仕事、行きたくなくなりました」
「えぇ・・・?」
学校を休みたがる子どものような彼に、私は思わず声を上げた。
そして次に彼が言ったことに、ぱちん、と目が覚める。
「つばきが一緒じゃないと、駄目そうです・・・」
「・・・んん・・・っ」
首に熱を感じて、思わず身を捩った。
「なにして・・・っ」
「行きたくないなぁ・・・」
何してるのかと思ったら、彼は私の首筋に口をつけたまま言葉を紡いだ。
熱と振動が一緒に襲ってきて、私はもう変な声しか出なかった。
やめて、のひと言が言葉にならない。
「つばき・・・」
彼の声が、私の体を突き抜けようとする。
「ジェイドさん・・・っ」
神経がむき出しになったみたいに、体中がぞわぞわして堪らなかった。
逃げ出したいのに、彼の腕がそれを許してくれない。
それが、嬉しいと思えてしまう。
解ってる。重症だ。
「ああでも・・・」
声と共に、ふっ、と彼の唇が離れていった。
戻ってきた肌寒さに、かすかに身震いした私を見ていたのか、彼は髪をもとに戻してくれる。
そしてもう一度手で梳くと、ため息をついた。
「行かなきゃいけないんですよね、仕事・・・」
そう言って、ぎゅっと腕に力を込めて抱きしめてくれる。
温かくて、大きくて、この世界に落ちてきた私を安心させてくれた腕だ。
「行ってきて下さい」
そっと囁くと、彼は更に腕に力を込める。
しがみつく子どもみたいだ、なんて思ったら、ちょっと可笑しくて。
「・・・ちゃんと待ってて下さいね」
呟いた言葉に、彼の何かが見えた気がした。
同時に、昨日の夕方、彼が部屋に入ってきて寝ていた私に言った独り言を思い出す。
それは瞬時に温かい気持ちを消し去ろうと、嵐になって私をかき乱した。
そして、落ち着こうと思う自分が、荒れた自分に負けた時だ。
「・・・私がお姉ちゃんと同じようにならないか、心配・・・?」
心のままに、言葉を紡いでしまっていた。
「ミナのように・・・?
まさか、何か前兆があったんですか・・・?!」
彼の焦りを滲ませた声が、後頭部に響く。
力を込めた腕は、私を振り向かせようとして肩を掴んでいた。
でも私は、彼の声も、動作も、どうでもよくなっていて。
ただ、毛布をぎゅっと握り締める。
「そっか、ジェイドさん・・・お姉ちゃんのこと、ミナって呼ぶんですよね・・・」
自分でも意外なくらい、静かな声が出た。
こういう時、私はかえって冷静になるタイプだったんだな、なんて頭の隅で思う。
「・・・つばき?
体が透けたとか、消滅の前兆があったんじゃないんですか・・・?」
めずらしく、彼が戸惑いを隠さずに尋ねてきた。
そうじゃない、と私は首を振る。
頭がくらくらするけど、そんなのは大した問題じゃなかった。
「・・・お仕事、行って下さい・・・」
力なく言うと、彼が息を詰めた気配がした。
そして、いつもより低い声で、私に言う。
「何かありましたね?
・・・昨日・・・執務室を出てから・・・」
そこでやっと、私は我に返った。
何を口走ったのか自覚して、血の気が引くのを感じる。
彼はそんな私の顔を覗き込むようにして、体の向きを変えた。
横から彼の視線を感じて、私はもう俯くしかない。
こんな、これから仕事だという時間に口にしていい台詞じゃなかった。
「つばき・・・?」
言ってごらん、とでも言うように、彼の口調がいくらか和らぐ。
「何があったんです・・・?
ミナが、どうかしたんですか・・・?」
その名前が彼の口から出て、私は顔が歪むのを抑えられなかった。
そこにどんな気持ちがあるのかとか、そういうことじゃなくて。
ただ、受け取る私の気持ちが、それに対応しきれなかっただけだと思うのに、沸き起こった気持ちが目から溢れそうになる。
泣いたらいけない、と思えば思うほど、ぐちゃぐちゃの心が反発して涙に変わった。
激しく首を振って、何がなんだか分からない感情を振り払おうとするけど、ただ眩暈を誘うだけだ。
こういう時、私もお姉ちゃんみたいに、言葉で上手く気持ちを表現出来たらいいのに。
「何かあったのは分かりました。
今日は早く帰ってきますから、そうしたら、話を聞かせてくれますか?」
泣きじゃくる私を抱きこんで、頭を撫でながら宥める彼は、すでに落ち着き払っていた。
そして、指の腹で涙を拭き取るように、眦をなぞる。
甘やかされてるのを自覚しても、心の落ち着きどころが見つからないまま、私は身を任せていた。
ちゃんと話をすれば、私は傷つかないんだろうか。
そんな不安がカオに出ていたのか、返事も頷きもしなかった私を見て、彼が息を吐いた。
「なんとなくですけど・・・つばきの考えていること、想像つきます。
・・・ゆっくり、時間をかけて話しましょう。
いや・・・、私の話を、聞いていただけますか・・・?」
ずいぶん他人行儀な言い方をするな、なんて頭の隅で考える。
首が固まったかのように動かせなくて、私はかろうじて彼の方へと向き直った。
「想像、つくの・・・?」
囁きにもならない小ささで呟いた私に、彼は頷く。
今、私のことを考えてるんだ、なんて思ったら、どうしたらいいか分からないくらい嬉しい。
私の頬に触れて、真剣な目で見つめてくる。
「ええ」
静かに響いた声のあとに、彼の指が、もう一度私の目じりをなぞる。
それは何度も何度も繰り返された。
そして、それに気を取られて、彼の顔がだんだんと近づいてきていたことに気づくのが遅くなる。
昨日の再現だと気づいた時には、もう、彼との距離は限りなくゼロに近くなっていた。
薄皮一枚隔てたところで、唇が動く。
「感染してくれませんか・・・?」
「え・・・?」
視線を上げると、彼の瞳がまっすぐ私を貫こうとしていた。
捕まって、逃げられなくなった私の視線はそのままに、彼は瞼を閉じる。
くる、と思った時には彼の熱を感じて、私も目を閉じた。
不思議な気持ちでそれを受け入れていると、一瞬唇が離れる。
寂しい、と思った刹那には、今度は啄ばむようにしてキスされた。
頬に触れた手のひらが、とても温かくて。
その瞬間に、何かが花開いていくようにして、嬉しさが沸いてくる。
次に離れた時に目を開ければ、彼がかすかに微笑んだ。
空色の瞳に映りこんだ自分を確認して、私も微笑みを浮かべる。
そして、何度か同じことを繰り返しているうちに、もっとこうしていたい、と思ってしまって。
結局、彼は今日いつもよりかなり遅く、お屋敷を出て行った。
帰ってきたら、どんな話をされるんだろう。
良い話だけじゃないだろうなと、なんとなく想像がつく。
何を聞くのか不安はあるけど、彼の気持ちを想像しては押しつぶされそうになった昨日の自分とは、何かが違うという自覚がある。
そう思うと、なんだか体が軽くなったから不思議なものだ。
もしかして、もうちょっと頑張って風邪が感染ったら、明日は一緒にいられるんだろうか。




