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まぶたの向こうに、柔らかい光を感じる。
もう少しまどろんでいたい。
寒い冬の朝は、ベッドから出るのに相当の努力が要る。
今日のバイトは何時からだっけ・・・。
まだ寝てられるかな。
携帯のアラーム、鳴らないもんね。
卒論が終わったから、あとはバイトに明け暮れて、卒業までには海外旅行に行くの。
パパ、元気かな。
早く会いたいよ・・・・。
鼻の奥が、つん、として、目を擦る。
すると、その手が掴まれた。
「・・・ん・・・ママ・・・?」
鼻にかかる声が、かろうじて言葉になって抜けていく。
「あらあら・・・寝ぼすけさんねぇ・・・」
それに応えるように、優しい声がふわりと降りてきた。
瞬時に脳が覚醒する。
何今の声。誰。
まどろみを誘っていた霧が晴れて、私は目をぱちっと開けた。
がばっ、と身を起こす。
目に入ったのは、真っ白なふかふかの毛布。
私の部屋のベッドじゃない。
そして、小鳥のさえずりが耳に入ってくる。
柔らかい温もりが手を包んでいる感覚に、視線を巡らせた。
私の手を、誰かが握っている。
この手も、知らない。
慌てて手を引き抜くと、母親よりも少し年かさの女性が寂しそうに微笑む。
その表情を目の当たりにして、ちょっと傷つけちゃったかも、なんて思う。
でも、そんなの気にしてられない。
今がいつなのか分からないけど、目が覚める前はだいぶ取り乱したのを覚えてる。
目の前がぐるぐるして、吐き気がした。
地面に縫い付けられたみたいに、重力が邪魔をして、立ち上がることも出来なくて。
沈んでいく意識の中、私は自分が置かれた状況を察したことを思い出した。
はっきり理解すると、また眩暈と吐き気が襲ってくる。
目を閉じて、ゆっくり深呼吸した。
こんなことで誤魔化せるほど、生易しい状況でもないけど。
・・・怖い。
震えを誘うこの感情を自覚したら、変な汗が出てきた。
意味もなく、大声で叫んでしまえば楽になるのか。
・・・帰りたい。
パパに滅多に会えなくても、ママが煩く小言を浴びせてきても。
課題を追加されても、今から卒論やり直せって言われても耐えられる。こなしてみせる。
・・・だから、あの場所に帰りたい。
ここは怖い。
皆のところに帰りたい。
怖い。
どれくらい経っただろう、黙っていると恐怖がどんどん大きくなる気がしてきて、目を開ける。
そして、口を開いた。
そうでもしないと、感情が暴走して発狂してしまいそうで。
すぐ横にはまだ、目覚めた時に手を繋いでいた女性が佇んでいる。
恐怖に蓋をした私を、じっと見つめていたようだった。
「・・・・・私は、」
女性が、微笑みながら私の言葉に耳を傾けていた。
「・・・どうやってここに来たんでしょうか・・・」
たったひと言、呟くように言っただけで、これが現実なのだと実感する。
決して、夢の中ではないのだと。
女性が「そうねぇ・・・」と小首を傾げた。
なんだろう、場違いな程にキュート。
一瞬呆気に取られた私に、彼女は言った。
「その前に、ひとつ聞いてもいいかしら」
尋ねられたはずなのに、頷くしかない問いかけ。
「ずいぶん落ち着いているみたいだけれど・・・この状況に混乱は?」
微笑みは絶やさずに、彼女が言った。
私はお腹のところで両手を組んで、手のひらが汗ばむのを誤魔化す。
混乱?
してるに決まってる。
だからこそ冷静さが必要なのに。
必死に保っているこの壁を崩されたら、間違いなく発狂できる。
発狂したら最後、私はきっと、もとの世界には帰れない。
そんな予感がするから、必死に平静さを保って、自分の置かれた状況を把握しようと。
渦巻いた感情を押し殺して、私は首を横に振った。
「大丈夫です」
「そう・・・」
思った通りの答えが返ってこなかったのか、彼女は表情を曇らせる。
「なら、なんとなくでも、ここがあなたの居た世界と違うと理解してるのね」
沈んだ声に、やっぱり、というニュアンスを感じ取って、私は内心首を捻る。
彼女は、いくらか真剣な目をして続けた。
「それなら、先に伝えておいた方がいいかも知れないわね」
ベッドに身を起こしたままの私も、ちょっと間抜けだけど真剣に頷いた。
「この世界では、女性は髪を結い上げて生活するの」
・・・え?
突拍子もなく髪型の話になって、目が点になる。
私が驚いているのが伝わったのか、彼女は「ふふ」と忍び笑いを漏らした。
「あなたにしてみたら、不思議で突拍子もないことなんでしょうね。
でも、私にとっては当然のことだから、疑問に感じたことなんてないのよねぇ」
「・・・はぁ・・・」
「とにかく、特に男性の前で髪を下ろしてしまうと、身に危険が迫ると思ってね。
自分の身を守るために、男性に勘違いをさせないために、髪は結い上げておくこと」
「・・・はぁ・・・」
よく分からない理屈だけど、従うしかなさそうだ。
郷に入りては何とやら、ってやつか。
私は曖昧に頷いて、自分の髪を触る。
薄い茶色をした髪は、校則の厳しい高校の先生達から、格好の標的になったっけ。
「そういうわけで、私があなたが目覚めるまで側にいたというわけ。
起き抜けに発狂して、外に出てしまったら、痴女扱いされちゃうものね」
「・・・あぁ・・・」
そこまで聞いて、ようやく飲み込めた。
髪を下ろしたら、体を許すっていう意思表示みたいなものになるのか、と。
友人達の中でも奔放なタイプの私だけど、さすがにそこまで開放的ではない。
誰の配慮かは分からないけど、教えてもらって助かったかも。
私が感嘆の声を出したのを聞いて、彼女は頷いた。
「分かってもらえたみたいで助かるわ。
それじゃ、お互い話をした方がいいと思うから、準備をしましょうね」
準備?と内心で首を捻った私だったけど、言われるままに準備をした。
まずは、シャワーを浴びて、しっかりメイクを落として。
さすがに時間が経ちすぎていたのか、油が浮いてたし、目の下にマスカラがボロボロと落ちて付いてしまってた。
その悲惨さは、鏡を見て絶句した私から察して欲しいところだ。
ともかく、体がすっきりしたところで、なんとか頭の中も物を考えられるようになってきた。
いろいろ考えていた方が、現実を直視して発狂しないで済む。
私は、まだ平静さを保っていられる自分を励まして、脱衣所に用意されていた服を広げた。
着ていたはずの服は、誰かが回収したのか見当たらない。
ボタンも何もない、ストン、としたワンピース。
自分の物ではない服を着ようとしたら、ここが異世界だってことを思い知った。
でも、ここで心が折れたらいけないのだ。
大丈夫、私は強い。
鏡の中の自分に暗示をかけて、改めて服を着た。
・・・良く見たら、ところどころ刺繍がしてある。
あんまり綺麗な刺繍じゃないのが気になるところだけど、既製品じゃないのかな。
服の横に、ベルトのような紐が置いてあったけど、使い方が分からないから、とりあえずそのまま放置しておくことにして。
一度大きく深呼吸して、私は彼女の待つ部屋に戻った。
手招きされるまま、鏡の前に用意された椅子に腰掛けると、今度は、彼女が髪を結い上げてくれる。
毎日やってると、こうも器用に出来るのか、なんて感心してしまったりして。
そして、最後にはワンピースと一緒に置かれていた紐を持ってきて、胸のしたでベルトを止めるようにして結んでくれた。
この世界で一般的な、女性の衣装なのだそうだ。
国によっては伝統衣装が残ってる地域もあるみたいだけど、基本的にこの形の服が着られれば、どこで生活しても困ることはない、という。
・・・この世界で安住の地を見つけようなんて、これっぽっちも思わないけど。
そうこうしているうちに、「準備」とやらは終わったらしい。
彼女のお喋りを聞いているうちに、いつの間にか私は、応接セットのソファに誘導されていた。
ソファからは、庭が見える。
その庭が、広い。
一面真っ白で、今は冬なのだと知った。
私の好きな花は、この世界にもあるのかな・・・なんて。
少しぼーっとしていると、ふいに、ノックの音が響く。
無意識に体が強張って、私は思わず音のした方を勢い良く振り返った。
髪を結い上げたせいか、少し頭が重い。
彼女が返事をして、ドアを開ける。
すると、滑り込むように入ってきたのは、私が気を失う前に会った人だった。
金髪で、青い綺麗な瞳をした・・・。
見入ってしまっていたのか、彼がこちらを見て、目が合って我に返る。
慌てて目を逸らした。
じっと見たら不躾だ。
男女の会話する声が聞こえてくる。
きっと、彼と彼女が私について話をしてるんだろう。
何を言われているのか気になって、つい聞き耳を立ててしまった。
なんとなくだけど、彼女と彼は、私に害を為そうとしてるようには思えない。
この狭い部屋と2人しか見てはいないけど、異世界から誰かを拉致して何かをさせようとか、生贄にしてやろうとか、そんな思惑は今のところ感じられないし。
もし邪魔だったら、見つけてすぐに路上にでも放り出せばいい話だ。
根性と知恵のあるやつは、運が良ければそれなりに生きることは出来るから。
だから、保護して身なりを整えさせてもらったことに、まずは感謝するべきだ。
私はゆっくりと深呼吸をして、立ち上がった。
そして、話が終わったのか、ソファの目の前にやってきた2人に、深々と頭を下げる。
「あの、ベッドとシャワー、あと服も、ありがとうございました」
珍しく言葉がたどたどしくなった。
無意識に緊張してるのかな。
私は煩く騒ぐ胸元を押さえて、呆気に取られて足を止めていた二人を見つめた。
先に立ち直ったのは、彼女の方。
ふふ、と笑って言った。
「私はちょっとお話して、髪を結っただけ。
あなたを保護して、私を呼んだのは、この人なの」
笑いを堪えながら、彼女が私の隣に座る。
そしてやんわりと私の手を取ると、絶妙な力加減で私をソファに沈ませた。
「保護だなんて大げさな・・・私は落ちていたのを拾っただけですよ」
苦笑しながら言った金髪の彼は、私の向かいのソファに腰を下ろす。
なんか、犬猫を拾ったみたいな言い方。やだな。
すると私の視線に気づいたのか、彼が苦笑した。
空色の瞳が細められてキラキラする。
綺麗だな、と思っていたら、目の下にクマが出来てることに気づいた。
「話をする前に、お互い自己紹介をしましょうか」
柔らかい口調に肩の力を抜いて、私は頷いた。
その様子を見て、彼もひとつ頷くと教えてくれる。
「私は、ジェイドと言います」
「・・・・・・」
あっさり名前を言い渡されて、言葉が耳を通り抜けてしまった。
一瞬遅れて、彼の名前を理解する。
そうしたら、ああ、とか、はい、とか、よく分からない言葉が出て。
そんな私を不思議そうに見つめた彼、ジェイドさんは、またしても苦笑して言った。
「あなたの名前も、教えていただけますか」
「あ、はい」
慌てて居住まいを正すと、私は一度咳払いをする。
「・・・カミーリアです・・・友人や家族からは、リアと呼ばれてました」
ました・・・過去形にして言葉を切ったら、つきん、と胸が痛んだ。
また呼んでもらえるかな、なんて、抑えていたはずの不安が広がる。
「それでは、リア、と呼んでも構いませんか?」
その不安を、彼の落ち着いた声がぱちん、と壊す。
小首を傾げたジェイドさんに訊かれて、私は何も考えずに頷いていた。
その横で、彼女がむっとした声を出す。
「2人で話を進めて、ずるいわ」
「ああ、おばさま。すみません」
ジェイドさんが苦笑して、彼女のご機嫌を取るかのように話かけた。
遠くに小鳥のさえずりが聞こえる。
雪の積もった庭に、小鳥達が遊びに来ているのだろうか。
ほんの少しだけど、張り詰めていた神経がほぐれて、周りの音や気配を感じられるようになった。
例えば、隣で彼女が小さく微笑んだ気配とか。
「お隣に座っておられる方は、ラ・・・ラズさんです。
私では、目覚めた時に側に居ては問題がありますので、協力していただきました」
何かを言いかけたのか、はたまた噛んだのか。
彼は一瞬言葉に詰まったけど、ラズ、と呼ばれた女性が私に向かって微笑む。
「身内ではラズさん、とか、ラズおばさま、と呼ぶ人が多いわね。
あとは、孤児院の院長をしているから、院長、と呼ばれることも多いかしら。
どう呼んでもらっても構わないわよ」
孤児院の院長、と聞いてピンときた。
・・・どうりで、温かみのある人だと思った。
それにしても、ジェイドさんとラズおばさま、か・・・・・。
・・・ほんとに、異世界って存在してたんだね。