18
大きな欠伸を噛み殺して、私は車窓からの景色を眺める。
もうすでに王都の街並みは遠のいて、目の前には白銀の世界が広がっていた。
朝早く起きた私達を乗せた列車は、お昼をだいぶ過ぎた頃に北の街に着くそうだ。
街の名前はホルンといって、学問が盛んで諸国に有名だという。
専門知識や技術を身につけるための学校がたくさんあって、学生の街、という感じらしい。
留学生も多いから、レストランの種類も多いのだそうな。
・・・私に直接関係ありそうなのは、レストランのくだりだけだと思うけど・・・。
どんな所なんですか、なんてうっかり訪ねた私に、2人は代わる代わる説明してくれた。
最後の方は詳しすぎて、理解が追いつかない内容だったけど・・・。
そんな2人・・・ジェイドさんは隣で、シュウさんはジェイドさんの向かいで、それぞれ本を読んだりして寛いでいる。
一方、一生懸命2人がしてくれた説明の半分も頭の中に留めておけなかった私は昨夜、ベッドに入って目を閉じても、執務室での出来事を思い出されては目が冴えてしまって、完全に寝不足だった。
でも隣の彼は、今朝もいつも通り部屋を訪ねてきて、髪を結い上げてくれて。
なんともない、ってことなのか。
昨日の朝までは、会話を楽しんで、ほっとできる大事な時間だった。
1人きりの世界から、別の世界に出て行くことへ気持ちを切り替える儀式だった。
彼の手のおかげで、毎日朝が来ることに抵抗もなくなっていたのにな。
それなのに、ちょっとだけ楽しみにもしていた時間を、なんだか沈んだ気持ちで過ごしてしまったのは寝不足のせいだけじゃない。
白薔薇ことヴィエッタさんとの遭遇に取り乱して、情けない姿を晒してしまったことと、その後の、ジェイドさんとの会話の両方が、尾を引いてるんだと思う。
これは、一晩眠れない頭で考え抜いて自覚していた。
改めて思い返すと、ため息がついて出てしまう。
守らせて、だなんて。
あの一瞬だけは、頭も心も、全部、ジェイドさんでいっぱいだったのに。
「そういえば、」
シュウさんの声に、一面の雪景色から視線を外す。
振り向いたら、彼が分厚く束ねられた資料から視線を上げて、こちらを見ていた。
ちなみに携帯は、彼に預けてある。
充電中というわけだ。
「ヴィエッタに会ったらしいな」
ちょうど思い返していた人のことを言われて、はっと息を飲んだ。
シュウさんは、そんな私の反応に何かを感じたのか、眉間にしわを寄せてジェイドさんを見遣る。
「やっぱり・・・。
何があったんだ」
いつのまにか、話しかける相手は私から彼に変わって。
ジェイドさんが困ったように微笑んでから肩をすくめて本を閉じると、シュウさんに言い返す。
「・・・いろいろと。
ああそうだ、エルも気をつけて下さいね。
この子、刃物が苦手なんですよ。昔、事件に巻き込まれたことがあるそうです。
だから、目の前で抜刀しないようにしてあげて下さい」
そう言って、ちらりと私を横目で見るジェイドさんは、やっぱりいつもと変わらなかった。
何かあるごとにゆらゆら揺れて、動揺してしまうのは私だけ。
悔しくて、彼の空色の瞳を揺さぶりたくなってしまうのは、やっぱり間違ってるんだろうか。
「抜刀・・・?」
気づいたら、気色ばんだシュウさんがジェイドさんのことをきつく睨んでいた。
どうしよう、またこの雰囲気だ。
私は内心焦ってしまったものの、だからといって気の利いた言葉を持ち合わせてるわけでもなく、ただじっと2人の応酬を見守ることしか出来ない。
「ヴィエッタが、抜刀したのか・・・リアに向けて・・・?」
地を這うような声に、怖がらなくていいはずの私の背中が寒くなった。
一瞬、あの切っ先が鼻先に向かってくる場面を思い出しそうになったけど、シュウさんの怖いカオがそれをかき消して。
ジェイドさんは、黙って見ているだけの私を一瞥して、どういうわけか眉根を寄せてから、シュウさんを見つめ返す。
「ええ、残念ながら。
たぶん、剣を突きつけて反応を・・・本性を見ようとしたんでしょうね。
あの子は、目的のためなら躊躇わないことがありますから・・・」
「・・・リアは、大丈夫か」
シュウさんは、ヴィエッタさんのしたことについては触れずに、気遣わしげに私を見た。
白の副団長の彼女が、無闇に人を斬ったりしないことを、信用しているんだろうか。
ジェイドさんは身じろぎもせず隣から、静かに私を見下ろしていた。
列車ががたがたと小さく揺れる。
私は揺れの中でも分かるように、何度も頷いて言った。
「だいじょぶ、です・・・ちょっと、取り乱しましたけど」
私の言葉をどう受け取ったのか、シュウさんは眉間のしわを深くして、ジェイドさんは顔をくしゃっと歪ませた。
寝不足が手伝っているのか、頭の回転が今日は輪をかけて遅いみたいだ。
全然反応出来ない自分に困り果てて、私は膝の上で落ち着きなく手を組んだり、寒いふりをして両手を擦り合わせたりしてみる。
「ヴィエッタには、何て?」
シュウさんが、ジェイドさんに尋ねた。
その声は、いくらか普段のトーンに戻ったようだ。
よかった。
少し仲良くなれたとはいえ、蒼鬼さまの迫力に慣れるのはまだまだ先になるだろうな。
・・・前任の蒼の団長が、盗賊か何かと繋がっていたのを知って、陛下の処断のもとに切り捨てたというエピソードは有名らしい。
まあ、その話よりも、誰かがその時のシュウさんのことを鬼のようだったと形容したのが始まりで、蒼鬼、というふたつ名がついてしまった、ということの方が有名だ。
彼は強くて冷血で、逆鱗に触れた者は二度と日の目を見られない、みたいな尾ひれがついてイメージとして定着してる・・・らしい。
お姉ちゃん、一体どうやってこの人と恋愛関係に発展したんだろうか。
そんなことを考えていると、ジェイドさんの声で我に返る。
「彼女が自分で自己紹介を。
・・・名前と年齢と、渡り人であること・・・くらいで私が止めましたが」
「・・・お前・・・」
シュウさんが険しい表情で、ジェイドさんを見ていた。
さらっと言った彼のことを、眉間にしわを寄せて。
列車がまたガタガタと揺れだして、私は一度窓の外を見た。
いつの間にか、白銀の世界から吹雪の只中へと景色が変わっている。
私が落ちてきて日も、こんなふうに荒れた天気だったんだろうか。
「・・・リアの存在を、まだ隠している必要があるのか?」
静かに視線を車内に向けて、私は会話に耳を傾けた。
硬い声を投げかけるシュウさんに、ジェイドさんの瞳が一瞬揺らいだ気がする。
「ミナとの関係を話す必要はないにしても、だ。
ロウファにしてもヴィエッタにしても、隠していたから接触してきたんだろ。
・・・大事に囲っておきたい気持ちは分からなくもないが、やりすぎじゃないのか。
要らん疑いをかけられても、文句は言えないだろうに・・・」
「囲うだなんて、そんな大げさな・・・」
あまりに誇大な表現に、ぱたぱたと手を振って呆れ半分で言い返す。
大事に囲って・・・だなんて言われたら、昨日のやり取りを思い出してしまう。
私は、顔が赤くなってるんじゃないかと不安になった気持ちを誤魔化すために、右へ左へと視線を彷徨わせた。
なんとなく隣から視線を感じて焦点を合わせると、そこにはなんとも表現出来ない表情をしたジェイドさんの姿が。
恥ずかしさに思わず顔を逸らそうとしたのに、感じてしまった違和感が、それを思いとどまらせた。
目が合っているようでもあるし、私を見ているようで見ていないようでもある。
でも、何かを考えているようにも思えて、私は内心で首を捻るばかりだ。
そうしているうちに、彼はそっと目を伏せた。
「・・・分かってますよ、そんなことは・・・」
しばらくしてから半ば自嘲気味に話す彼は、ちょっと疲れた表情をしていて。
目を閉じてこめがみを指先でぐりぐりと押す仕草に、もしかして彼もあんまり眠れなかったのかな、なんて思ってしまった。
もしそうだとしたら、ほんの少しだけ嬉しい。
いや、体調が心配だけど。
沈んだり浮かんだり、私の心は忙しないな。
もっと大人になって、いつも凪いだままでいたいのに。
シュウさんは、ジェイドさんの態度で何かを感じたのか、それきり話を続けることはなかった。
ただひとつ、息を吐くと、また分厚い資料を読み始める。
ジェイドさんも、そんなシュウさんをしばらく眺めていたけど、すぐに自分の手元にあった本を広げて息を吐いた。
私だけは、何が起きていたのか分からないまま、また窓の外を眺めて。
大粒の雪が窓に叩きつけられる様子に落ち着かなくなって、静かに目を閉じることにした。
列車から降りたら、王都とはまた違った空気に思わず息を吐いた。
凍てつく、という言葉がぴったりなくらい、空気が冷たい。
途中で吹き付けていた吹雪はここにやって来てはいなかったのか、雪自体は王都ほど多くないようにも思える。
2人が固まったままの私を見て、小さく噴出したり目を細めたりしているのに気づいて、慌てて表情を引き締めた。
そして、ぽふぽふと頭に手を置くジェイドさんと目が合った私は、やっぱり少し気持ちが落ち着かなくて、そっと息を吐くのだった。
いつの間にか、彼は普段どおりのジェイドさんに戻っていた。
私の感じた違和感はきっと、気のせい。
そう思うことにして。
王立学校は、駅から少し離れたところにあるらしい。
そう聞いていたからバスに乗るのかと思いきや、私達の前には黒い車が横付けされた。
どうやらお迎えが来てくれたらしいことを理解して、私は2人の動きに倣って、車に乗り込んだ。
補佐官と蒼の団長に挨拶した運転手は、不思議そうに私を見る。
ぺこりとお辞儀をすれば、彼はまたしても不思議そうに私を見つめていた。
確かに、こんなセレブな2人に小娘1人の組み合わせ、そうそう見ないですよね・・・。
車で移動することしばし。
着いてみたら、通っていた大学のような雰囲気に、なんだか親近感が湧いた。
学生さんらしき人がたくさん歩いていて、中には少し年少の子もいれば、年かさの人もいる。
王立学校は、入学の年齢も特に決められてはいないらしいから、もしかしたら、飛び級で入学している人や社会人になってから勉強しに来た人もいるのかも知れないな。
そんなことを思いながら、すれ違う人の波を観察していると、いつの間にか建物の中に入って階段を上って・・・。
前を歩く2人を見て、こんなに広いのによく迷わずに歩けるな、と感心して、思い出した。
シュウさんは、王立学校で勉強していた頃があったと言っていたのを。
詳しくは知らないけど、数年学んだ場所なら当然か。
建物の中は暖かくて、私は耳につけていたイヤーマフを外した。
この間、お買い物中に見つけて買ってもらっていたのだ。
さすがに王宮の中で身につけると注目されてしまうから、今日までとっておいた。
空気に触れた耳が、学生の喧騒がだんだんと離れていく気配を拾っている。
2人の歩く後について足を動かしていると、やがていくつか並んだ中、ひとつのドアの前にたどり着いた。
ジェイドさんがノックすると、男の人の声が返ってくる。
この声の人が、教授だろうか。
いよいよだと思ったら、否応なしに緊張感がはしる。
「入りますよ」
緊張している私とは裏腹に、ジェイドさんの声は至って穏やかだった。
中から返事がないのに、彼はおもむろにドアを開ける。
ドアの向こうに、私達と一緒に少し冷えた空気が滑り込む気配を感じていると、目に、本や紙の束が無造作に積まれた光景が飛び込んできた。
ジェイドさんの執務室も、紙類が多くて火気厳禁だと思ってたけど・・・この部屋はそれを上回る凄さだ。
まさに紙の山。
これは、夏場は窓を開けると怒られるだろうな。
くだらないことを考えつつも、その光景に圧倒されて目を瞠っていると、白衣を着た男の人が、ふふ、と笑って私を見ていた。
「珍しいお客さんだね」
グレーがかった髪はちょっとボサボサしているけど、紺色の瞳がとても品よく感じられた。
すごく優しい、綺麗な目をした人だな、なんて感想を抱いて見とれてしまっていると、背中に何か温かいものを感じる。
それがジェイドさんの手だと気づいて、我に返ったら緊張がぶり返してきた。
彼の手の届く範囲に入ると、鼓動が忙しなく動き出すのだ。
「お久しぶりです、教授」
「うん、久しぶり」
シュウさんがその人と会話をしているのを、私は自分の鼓動の音を聞きながら見る。
すると、ジェイドさんが私のことをさりげなく押しながら一歩前へ出た。
無意識に足が踏ん張っていたのか、少したたらを踏みかけた私は、思わず彼の顔を仰ぎ見る。
そこにいるのは、列車の中でちょっと様子のおかしかった彼じゃなく、いつもの飄々とした、表情の読めないニコニコ顔の彼だ。
「ちょっと、ずいぶん連絡寄越さないなんて、ひどいんじゃないかい」
教授が不満そうに腕を組んで、ジェイドさんに向かって言った。
ジェイドさんも、教授に面識があったのか。
私は背中に添えられたままの手を意識しないように努めて、教授の顔を見る。
優しそうな、落ち着いた雰囲気の人だ。
あれ、なんだか、どこかで・・・。
感じた違和感に気を取られていたら、背中をぽん、と軽く叩かれた。
私は考えるのをやめて、隣の彼を見上げる。
なるべく直視しないようにしていた、水色の瞳と目が合ってしまった私は、背中に添えられた熱を意識して鼓動が騒ぎ出すのを感じて。
なんだかちょっと、いつもと違う瞳のような気がして見入ってしまう。
「え、と・・・」
意味の成さない言葉を呟くのが精一杯だった。
すると、そんな私を苦笑した彼は、教授に目を向ける。
「紹介しますね」
柔らかい声と優しく細められた瞳に無意識に頷いた私は、視線を彼から教授へと移した。
紺色の瞳が、ジェイドさんと同じように細められる。
「王立学校の教授で、ディアード教授です」
「どうも」
手をひらひらさせる教授は、どこかふわふわして若い印象を受ける。
その反面、知性を感じさせる瞳は、見ていて吸い込まれそうだ。
私はそれが良いと思って、好意的に受け取っていたのに、隣で彼がため息をつく。
この教授の一体何がいけないのか。
シュウさんをちらりと見遣れば目が合って、困ったような微笑を浮かべて肩を竦められた。
なんですかそのカオは・・・。
思いつつも視線を戻すと、教授が小首を傾げていた。
私は慌てて、自分の名を名乗る。
とりあえず、最近名乗っているのと同じ、
「リアです。この前こちらの世界に渡ってきたばかりなので、いろいろ失礼があるかと
思いますが、よろしくお願いします」
ジェイドさんに教えてもらった挨拶の文句。
それを素直にそのまま言った。
それを聞いた教授は、そっと手を差し出して。
背に添えられたままの手が、何か言いたそうに動いた気がしたけど、私は雰囲気に流されるまま教授の手をとる。
そして、みかけによらない力でぎゅっと握られたかと思えば、にっこり微笑んで言われた。
「うちのシェイディアードが、いつもお世話になってます」
「・・・ちょっと、」
教授の言葉の意味も分からないし、ジェイドさんが不満そうに声を上げた意図も汲み取れない。
私は頭の中を疑問符で埋め尽くされながらも、首を傾げたまま教授を見つめた。
出来れば説明をお願いしたい、という意味を込めて。
「リアちゃんかぁぁ。
会えて嬉しいなぁ」
ちゃん付けで呼ばれるなんて、久しぶりすぎて戸惑ってしまう。
いやいや、それ以前に、会えて嬉しいってどういうことなんだろうか。
それから手をぶんぶん振るのは、肩が外れたら怖いからやめて欲しい。
私は教授に説明を求めても答えを期待できそうにないと判断して、ジェイドさんを仰ぎ見た。
案の定、沈痛な面持ちでこめかみを押さえた彼は、私が若干困っているのが伝わったみたいで、教授の手をがしっと掴んで引き離す。
気を悪くしたかと思えば、教授はにやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。
もう、なんなんだこの2人は。
「ジェイドさん、」
いい加減自分から聞いた方がよさそうだと思った私が口を開くのと同時に、彼は手を私の前にかざして、言葉を遮る。
私は唐突なことに驚いて言葉を切って、彼が話し出すのを待った。
盛大なため息をついた彼は、とっても言いにくそうに呟く。
「・・・うちの父です」
「どうもー、ジェイドの父です」
驚いて、思い切り教授を振り返ったら、にこにこ手を振る姿が視界に飛び込んできた。
そう言われてみれば、なんとなく似ているような、全然似てないような・・・。
対照的な親子を見比べて、私は絶句するしかなかった。