16
とうとう明日だ。
お姉ちゃんを呼び戻す方法を探すために、王立学校に向けて出発する。
それにあたって、私に必要なのは基礎知識。
要するに、山のような史料を読み込むってことだ。
この世界のことも、渡り人のことも勉強不足な私がいちいち口を挟んだり、後からジェイドさんやシュウさんに質問して手を煩わせたりするのは、気が引ける。
・・・大人な2人はきっと、嫌な顔はしないと思うけど。
「・・・やばい。頭がパンクしそう」
ばたん、と重い本を閉じて嘆息。
もちろん栞を挟むのは忘れなかった。
こんな分厚い本のどこまで読んだか自力で探すのなんて、ほとんど罰ゲームだ。
卒論を書き終えてから、ほとんど勉強らしい勉強もせずにバイトに勤しんでいた身としては、久しぶりに細かい活字と向き合ったら、目の奥がきりきりして我慢ならない。
これはあれか。
就職が決まった英会話学校のことを、もっと真剣に調べてお勉強したら、と就職課で言われたのを軽く無視して卒業旅行のことばっかり考えてた私へ挑戦状か。
・・・地道に情報を拾い上げる作業が、こんなに大変だったなんて・・・。
私は山のように積み上げられた本を目の前に、天を仰いだ。
歴史に埋もれた渡り人の内の誰か1人でも、パソコンとネットを発明してくれても良さそうなものなのに・・・。
ところで、いつも執務机に向かって黙々と書類を片付けているジェイドさんは、というと。
補佐官代理を務めることになる「オーディエ君」とやらと打ち合わせをするんだと言って、さっき部屋を出て行った。
この部屋に1人でお留守番をしている状況に多少なりとも緊張してしまうけど、部屋の外には警備員も兼ねた鉄子さんがいてくれる。
それは大きな安心材料だ。
だから誰かが訪ねてきても、鉄子さんを通していない場合は返事をしてもいけないし、ドアを開けてしまうなんてもっての外だと言い聞かせられていた。
だから子どもじゃないのに・・・なんて頬を膨らませていたら、結構真剣な目をしてもう一度同じことを言われたから、二度目はちゃんと神妙に頷いたんだけど・・・。
なんだか、「七匹の子ヤギがお留守番するお話」みたいだ。
大きく伸びをすると、いつの間にかガチガチに肩が凝っていたみたいで、バキボキと変な音が骨を伝わってきた。
この部屋は暖かいけど、慢性的な冷えが肩凝りを助長してるのかも知れない。
私は頭痛もちだから、肩凝りには気をつけなくちゃ。
不特定多数で利用する温泉は苦手だけど、バスタブにお湯を張って浸かるのも、たまにはいいかも知れないな。
ジェイドさんにやってみてもいいか訊いてみよう。
肩を回しつつ考えて深呼吸すると、私は再び分厚い本に挑む決意を固めた。
「ど・・・読破・・・!」
ラスボスに立ち向かう勇者のごとく、四苦八苦しながら分厚い本を読み込んでいた私は、いつの間にか夢中になってしまっていたみたいだ。
疲れた目をぎゅっと閉じると、活字の残像が浮かび上がってきそうだな。
ものすごく疲れたけど、やり遂げた感じがして気分が良い。
ひとつ深呼吸すると、凝り固まった四肢を思い切り伸ばす。
じわわ~、と体中に何かが満たされていくのを感じて、自然と笑みがこぼれた。
この充足感、ちょっと癖になりそうだな。
ちらりと天体盤を見遣ると、太陽が西日になりかけていた。
もうすぐジェイドさんも戻ってくる時間だろうな、と目星をつける。
時計の役割をする天体盤は、見ていて面白い。
昼間は太陽が、同じように夜は月が昇ったり沈んだりする様子で、1日の時間の移り変わりを表しているらしい。
それに合わせて背景の絵も、明るくなったり暗くなったり、物によっては鳥が飛ぶ様子だとか、星が瞬く様子を映し出すものもあるそうだ。
背景の絵は、いろいろなバリエーションがあって、今まで見た中ではこの部屋の天体盤が一番綺麗だと、私は勝手に順位をつけていた。
分厚い本と、そのほかにも今日目を通した本を纏めて端に寄せる。
手を動かしながらも頭の中で繰り返しているのは、その中から得た知識だ。
まずは、渡り人の出現条件。
なんかモンスターのエンカウント条件みたいだけど・・・。
ダントツで、嵐の日が多いらしい。理由は不明。でも、統計的に嵐の夜に現れることが多いのは事実だそうだ。
実際私も発見されたのは雪の止んだ朝だったみたいだけど、実際に現れたのは吹雪の夜だったんじゃないかとジェイドさんに言われたし・・・。
次に、渡り人の特徴。
これは前にジェイドさんに言われたのと同じで、とにかく体が弱いから気をつけろってこと。
それが書いてあった本とは別の所から拾った情報だけど、そもそも病は気からで、ストレスを溜めない生活が一番いいらしい。
でもそれって、昨今の現代人も気をつけてることなんじゃ・・・?
かかりつけの内科に置いてあるリーフレットみたいな内容だったなぁ・・・。
それから、渡り人がそれだけこの世界に貢献してきたか。
この世界を便利にしてる機械や技術のほとんどは、昔々の渡り人が発明したものなんだそうだ。
馴染みのあるものばかりで、それほど不便を感じないのはそのせいだ。
列車もバスも、上下水道、冷蔵庫、照明器具などなど。それは多岐にわたる。
あとは、この国の王族や、歴史に関することもお勉強した。
中でも驚いたのは、決して大きくはない国を守るため、一枚岩でいるために、愛情を抱ける相手と結婚して、慈しむ気持ちを持って子どもを育てるように・・・という記述がされていたことだ。
これはずっと昔の、血で血を洗うお家騒動を繰り返した末、誰一人身内のいない人生を送ることになった当時の王が、寂しくて悲しくて、書き残した手記が元になっているそうな。
それについては、思うところもあるけど置いておいて。
末代まで残るように書き残してくれたことで、それ以来お家騒動は起きていないらしい。
だから、陛下とジェイドさん、シュウさんは小さい頃から関係を築いていて、大人になって陛下を助けてあげたい気持ちを持って、仕事をしているんだろうな。
・・・ということは、お姉ちゃんがこっちに戻ってきて無事に出産して、子どもが大きくなったら、その時は王様の支えになるような職に就くんだろうか。
・・・なんか、壮大な流れになってきてるなぁ・・・。
「・・・ふぅ」
まだ目の奥がきりきりしている感覚に、一旦考えるのをやめた。
また何か困ったら、史料を見せてもらおう。
私は小さくため息をついて、ソファに腰を下ろした。
窓の外が、ほのかに紅色に染まりつつある。
ジェイドさん、遅いなぁ・・・。
親の帰りを待つ、子どもみたいだ。
もしくは、公園で遊んでいた友達が1人2人と帰って行って、自分が取り残された時みたいな、そんなぼんやりとした不安を感じてしまう。
そしてそれを自覚して、私は小さく笑った。
ここまで依存してしまうなんて、どうかしてると自分でも思うからだ。
向こうの世界では、1人でいることを不安に思ったことなんかなかったのに・・・。
こんな自分に、がっかりしてみたり情けなくなってみたり。
私はまた、ため息を吐いた。
その刹那だ。
「お退きなさい」
「なりません」
「退け!」
「お帰り下さい」
鉄子さんと誰か・・・おそらく女性の、言い争う声が聞こえてきた。
なんだか勇ましい雰囲気の声だけど、鉄子さんは大丈夫なんだろうか。
紅の侍女とはいえ、彼女も女性だ。
心配になって、ドアに駆け寄る。
「どうしたんですか・・・?!」
耳をぴったりつけて声をかけると、外で息を飲む様子が伺えた。
鉄子さんなのか、それとも。
「問題ありません」
「開けなさい!」
2人の声がほとんど同時に響く。
これはただ事ではなさそうだと悟った私は、史料を読み込むのにすでにフル回転し終わった頭を使って考えた。
開けるべきか、やめるべきか。
「聞こえているのでしょう!開けろと言っているのです!」
ジェイドさんには、絶対に開けるなと念を押されたけど・・・。
どうしよう、どうしようどうしよう。
ドアの向こうでは、まだ2人の押し問答が繰り広げられているようで、時折苛立ったような声と静かに同じ台詞を繰り返す声が聞こえてくる。
「・・・?」
迷っているうちに、ぱったりと声が聞こえなくなって、私は内心で首を捻った。
いなくなったのなら、鉄子さんに事情を聞いて・・・と思って耳を澄ませていたら。
突然、スーっと金属のようなものが擦れる音が聞こえてきて、一瞬頭の中が真っ白になった。
何の音だろう。
そう思っていると、鉄子さんの焦りの混じった声が聞こえてきた。
「・・・私情での抜刀は禁じられているはずですよ、白薔薇」
白薔薇、という単語が耳に引っかかる。
どこかで聞いたのだ、どこかで。
「・・・っ」
記憶を辿っていけば、その単語の意味することを思い出す。
白薔薇、それは白の騎士団の副団長のふたつ名だ。
薔薇のように美しいけど、棘があるようにめちゃくちゃ強い、みたいな意味だった気がする。
でもその、副団長が一体何の用・・・?
もしかして、紅の団長と同じように私を疑って?
いやいや白の騎士団の仕事は、王族の警護と、王国所有の物の管理だったはずだ。
しかし、私がここ数日で得た知識を総動員して考えている間にも、彼女達の会話は進められているようで。
「私情ではない。
これは、補佐官殿の執務室に住み着いた野良猫に噛み付かれないための、自衛だ」
「剣を収めて下さい。
中におられるのは、補佐官殿が私的に雇用している雑用係です。
明らかにあなたに敵う力量は持っていませんし、第一、この部屋には誰一人として
入れるなと補佐官殿から言い付かっています」
鉄子さんの、一部を強調した言い方に、私もさすがに気がついた。
白の副団長は、抜き身の剣をぶら下げて、このドアの向こうに立っているらしい、ということに。
冗談じゃない。
剣といったら、それは人を斬るためのものだ。
少なくとも、私は剣に対するイメージをそれ以外持ち合わせていない。
鉄子さん、大丈夫かな・・・。
私はこのドアに守られているけど、彼女は普通の侍女だ。
確かに警備員を兼ねているから、強いのは強いかも知れないけど・・・。
急に緊迫した心が、頭に向かって「真剣に考えろ」と鼓動を響かせる。
どうするのが一番良い選択肢なのか。
「・・・今開けます」
いろいろ考えた末に出した答えは、鉄子さんを沈黙させた。
「賢い選択ですね」
対して、副団長の弾んだ声が、ドア越しに向けられるのが分かる。
スゥ・・・と金属の擦れる音が聞こえた。
どうやら剣を収めてくれたらしい。
私は、きっとこの前のように沈痛な面持ちをしているだろう鉄子さんに向かって、声をかけた。
同時に、ドアチェーンを外して鍵を開ける。
「すみません、勝手なことして・・・。
鍵は開けましたから、中に、お通しして下さい」
開かずの扉だったドアを開けると、鉄子さんと、背の高い金髪の女性がこちらを見ていた。
心の中で鉄子さんに謝ると、彼女と目が合う。
苦々しい表情で首を振られて、これは後で怒られるんだろうな、と覚悟を決めた。
金髪に碧眼の、本当に薔薇のように美しい女性が、部屋の中へ一歩を踏み出す。
その瞳は、少し濃い水色。
真っ直ぐにこちらを見据えている立ち姿に、もう気持ちが負けそうだ。
かちゃり、と腰からぶら下げた剣が音を立てる。
まるで、おかしなことしたら斬るぞ、と脅されているような気分だ。
絶対抜かないで欲しい。
ご所望なら土下座でも何でもするから。
「わ、私に、何の用でしょうか」
相手は副団長だ。
しがない雑用係が強く出ていい相手じゃない。
王宮の中での自分の立ち位置は、最近のお勉強でしっかり理解している。
私は一歩、また一歩と後退しながら問いかけた。
彼女は、それに合わせて近づいてくる。
目なんか合わせられないから、表情なんか分かるはずもなく。
いつの間にか、彼女の後ろに立っていたはずの鉄子さんの姿が見えない。
援護射撃が期待できない状況に、更に気持ちが追い詰められた。
「・・・貴方・・・」
どこかで聞いたような、地を這う冷たい声。
ああ、この選択肢、ダメな方だった。
後悔しても、もう遅い。
今になって沈痛な面持ちの鉄子さんが思い出された。
声をかけられて視線を上げると、彼女が冷たい瞳で私を見下ろしているのに気づく。
傾いていたはずの日が暮れ始めて、窓の外からひんやりした空気が滑り込んできているのを感じた私は、両腕をさする。
「いえ、多くを尋ねるのはやめておきます」
彼女が腰にぶら下げたものに手をかけた。
その様子が目に入った瞬間、背中を寒いものが駆け抜ける。
心臓が掴まれたみたいに、きゅううと痛い。
嫌な金属音が聞こえる。
どうしよう、息が上手く出来ない。
私、それ、ダメなんだってば・・・!!
心の叫びなど届くはずもなく、彼女は鮮やかな、優美な動作で剣を抜いた。
照明が反射して、切っ先がきらりと光る。
視線が、反射的にその光を追いかけて・・・ぴたりと私の鼻先で止まった。
そして、理解する。
彼女が、抜いた剣をまっすぐ、私に向けたことを。
頭が理解した瞬間、膝が笑い出した。
がくがくと、視界が揺れる。
一瞬、脳裏に蘇るのは赤と黒のコントラスト。
ひゅー、と喉の奥から空気なのか悲鳴なのか分からないものが漏れた。
切っ先から逃げたくて、一歩下がろうとするものの、踵がジェイドさんの執務机にぶつかる。
逃げられない、と思った途端に、目の前にチカチカしたものが飛んだ。
きっともうすぐ、私は気を失ってしまう。
そう覚悟した瞬間だった。
「何をしているんです」
彼の声だ。
耳に入った刹那、壊れかけた心がそれを理解した。
良かった、これで、もう、大丈夫。
ほっとした途端に、がくがく震える足が限界を迎えそうになる。
もう、足に力が入らない。
目を閉じて、必死にしがみついていたものから手を離しかけたその時。
「ただいま、リア」
耳も壊れたのか、彼の声が間近で響いた。
それに、なんだか腰の辺りがぎゅっと締め付けられている気がする。
がくがくしていた膝が、かくん、と折れた。
「おっと・・・」
でも体が倒れる気配はなく、ふわりと中に浮いている感覚に、思わず目を開ける。
いつの間にか彼が隣にいて。
もう、何がどうなっているんだろう。
とりあえず今すぐ分かることは、息が苦しくないこと、視界が揺れていないこと、足は震えてるけど彼が執務机に座らせてくれたことくらいだ。
・・・いつの間にか、脳裏の赤と黒も消えている。
温かい手が腰に回されているのを感じ取って、私は無意識に彼の方へ体重を預けた。
「リア」
呆然と机の上に座っていると、彼が小さな声で私の名を呼んだ。
私は焦点を間近にある彼の顔に合わせると、無言でその先を促す。
今、声を出すのは億劫だ。
「大丈夫・・・?」
指先で頬を撫でながら言われて、私は条件反射でこくりと頷く。
すると彼は私を見て顔を顰めてから、白の副団長へと視線を向けた。
いつの間にか剣を収めた彼女は、静かにこちらを見つめている・・・・・。