14
窓際の、庭の見える席が私のお気に入り。
次の日も次の日で、私は雑用係に精を出していた。
王立学校に行く目処がたって、なんとなく目的に向かって前進している実感があったからかも知れない。
誰だって、何かが見えたら頑張れるんじゃないかと思う。
そして、張り切って頼まれたことをこなした後、史料を読んでいるところで、ジェイドさんから食堂で待っているようにと言われたのだ。
理由を聞いたら、あの食えない笑顔を浮かべて小首を傾げられたから、素直にそれに従うことにして。
お昼も食べ終わっていたし、とりあえずお茶でも飲んで待っていようと、私はこのお気に入りの席を確保したわけだ。
数日前に降った雪が積もって、雲の切れ間から太陽の光が差し込むたびにキラキラ光る。
雪の降る、静かな日もとっても心地よくて、よくここに座る。眠くなるけど。
そういえば・・・、とお茶を啜りながら考える。
今日のお茶のお供は、チョコチップの入ったクッキーだ。
カナダで暮らしていた頃が懐かしい、柔らかい食感の。
・・・そういえばこの国の四季は、どうなってるんだろう。
実は今日に至るまで、全く考えもしなかったことが、山のようにある。
通貨の単位も知らないし、1年が何ヶ月なのかも知らない。
クリスマスやお正月があるのかどうかも定かじゃないし、そもそも人間だけが暮らしている世界なのかさえ、私は知らない。
まずはお姉ちゃんを呼び戻すこと、その可能性があるかないかが分かったら、今度は自分があっちの世界に帰るために出来ることをする、それだけを念頭に置いてきた。
だからこの世界のことには、一切合切に目を瞑ってきたのだ・・・。
カップの取っ手を撫でながら、虚空にため息を放す。
食堂には、お昼戦争が終わったのか、それほど人がいない。
今なら私がため息をついても、間近でそれを聞く人も、いない。
ジェイドさんの前でため息なんか、つけないもん・・・。
帰りたいと願う私には、ここでの生活はあまりに快適で、心地良かった。
この雑用の仕事ですら、誰かの役に立っているのを感じたら、楽しいと思ってしまった。
心地良く感じてしまう自分を認識してしまった途端、罪悪感が襲ってくるのだ。
残してきた家族を思うと切なくて、苦しくて。
特に、一度壊れかけた私に心を痛めたパパとママに、申し訳なくて。
そう思うのに、この体と心は生きることにとても素直で貪欲で、この十数日でこうして食堂でお茶を啜って、人を待てるくらいに世界に順応してしまった。
これ以上この世界がどういう造りになっているのかを見て、知ってしまったらきっと「楽しい」とか「来年も」とか、心が動いてしまうんじゃないかと不安になる。
「・・・・・ぁー・・・・・」
極限までマイナス思考に陥って、思わずこめかみを指でぐりぐり揉む。
きっと久しぶりに、寝る時以外で1人になったからだ。
あの夜以来、ジェイドさんは私を1人にしないように気を遣っていたようで、夕食のあとに暖炉の前で話をする時間が日課のようになっていた。
ジェイドさんはお酒を、私はあの炭酸ジュースみたいなものを片手に。
さすがにもう情緒も安定してきたから、ハグして欲しいなんて全く思わなくなったけど。
カップからは、湯気が昇らなくなっていた。
まだ来ないのかな、ジェイドさん・・・。
待つ時間というものは、時間の流れが遅く感じるもので。
私はもう1つ、ため息を吐いた。
と、その時だ。
「キミ、ジェイドのとこの雑用ちゃんだよね?」
背後から声をかけられて、私は肩をそびやかした。
び、びっくりした・・・。
振り返りながら、息をゆるゆると吐く。
どうも私は、何かあると呼吸を忘れてしまうらしい。
「ね、雑用ちゃんでしょ?」
「え?え??」
振り返った瞬間にまた問われて、面食らった私は思うように言葉を紡ぐことが出来なかった。
私の背後に立っていた彼は、当然のように同じテーブルについて、頬杖をついて私をじっと見つめて答えを待っている。
「あの・・・?」
呆然と問い返すことしか出来ない私は、同時に彼のことを無意識に観察し始めていた。
何をおいても目を引くのは、そのピンク色の髪だ。
いろんな色の髪の人がいるな、と思っていたけど、ピンク色というのは見たことがなかったから、ものすごく新鮮。
片耳にだけ、フープピアスが沢山ぶら下がっている。
「あれ、違った?」
彼が眉をひそめた。
私はその様子に我に返って答える。
「・・・おっかしいなー・・・」
「雑用係、ですけど・・・何か・・・?」
もしかしてジェイドさんから伝言か何かかも、と思っていると、彼は口角を上げた。
なんだか、背中がざわざわする。
「ふぅん、そっかー」
小首を傾げると、連なったピアスが揺れる。
なんだかそれが、目の中で煩く感じて。
「何か、私にご用ですか」
初対面なのに、つい物言いが荒くなった。
感情を押し殺すことが出来ないのは難点だ。
「いんや、特に用があるわけじゃないよ。
ただ、見ておこうと思っただけ」
「・・・ジェイドさんの、お知り合いですか」
彼の瞳が細められる。
「うん、仕事仲間ってとこかな」
「仕事仲間・・・?」
明らかに年下なのに、ジェイドさんを呼び捨てにするってことは、部下じゃないんだろうな。
肩書きからして、「補佐官殿」とか、「補佐官様」とか呼ばれることの方が多いのを、雑用で彼の代わりに届け物をする機会が多い私は知っている。
冷めたお茶がカップから温度を奪って、触れている指先が冷たい。
手元に視線を投げて、彼の手首に赤いコインが光っていることに気づいた。
今までに得た知識を総動員して考えて、思い至る。
「・・・もしかして、紅の騎士団の・・・偉い人?」
独り言のような小さな呟きだったのに、目の前の彼は片方の眉を上げる。
耳がいいんだな。
「良い読みしてるねー」
そのひと言に、私は視線を上げる。
すると、にかっと笑った口元に八重歯が見えた。
「オレ、紅の騎士団の団長。ロウファっていうの」
「団長だったんですか・・・」
「まぁねー」
団長と口にした後、彼はもう一度にかっと笑った。
私も名乗った方がいいかと考えていると、彼が先に口を開く。
「だからさ、いろいろ知ってるんだよね」
「いろいろ?」
「そ、いろいろ。
なんたって、紅の専売特許は監視と諜報ですから。
まぁ、キミの場合は聞き放題見放題な環境にいるから楽勝だったけど・・・」
不躾にも顔を顰めてしまった私を笑い飛ばして、彼が言う。
なんだろう、掴みどころがないのに、引き込まれて話を聞いてしまう。
彼が本当に紅の騎士団の団長かなんて、世界を知らない私には分からないのに。
「キミの名前から言えばいい?それとも年齢?
じゃなかったら、出身でも言えばいいかな?
確か、すっごく遠いところだったよねぇ」
「・・・っ」
真綿で首を絞められるような、どこか追い詰められた気分で息が漏れた。
渡り人であることは、なるべく口外しない方がいいとジェイドさんに言われている。
今でこそ渡り人が存在するのは常識で、戸籍を作ることで保護されているけど、ここに至るまでには虐げられたり、その知識を囲い込むことで争いの元になったりと、散々な歴史があるんだそうだ。
だから今でも渡り人に偏見を持つ人も、多くはないけど、少なくもないらしい。
そして、偉い人が皆良い人じゃないことは、なんとなく分かる。
ちょっと体を引いた私に、彼がくすくす笑っていた。
「だいじょぶだいじょぶ、別に捕って食おうとは思ってない」
笑い上戸なのか、彼はしばらく肩を揺らした後、私に言った。
「ごめんねー。
信じてないみたいだったから、ちょっと意地悪しちゃった」
「ほんとに団長・・・?」
もう1人、蒼の騎士団の団長であるシュウさんを知っているだけに、まったく対称的というか、真逆をいくような雰囲気の彼と相対していることに不安になる。
早くジェイドさん来ないかな。
私は、1人でどう対応したらいいのか戸惑ってしまっていた。
ちらりと視線を入り口の方へ走らせると、それも目ざとく見ていたのか、目の前の彼がトントン、とテーブルを指で叩いた。
「で、キミの名前は?」
「え?」
さっき知ってるって言ったばかりなのに、という気持ちが聞き返させる。
すると彼は、にこにこして言った。
「オレ、ロウファね。紅の団長。今年で27歳」
はいどうぞ、と手のひらを出された。
「・・・カミーリアです。今年で24歳になります。
今はジェイドさんの雑用係をしてますけど・・・」
「あー、だからリアね。なるほどなるほど」
何度も頷いて、私の名前を反芻している彼。
私は転がされている感が否めなくて、なんともいえない気持ちになっていた。
そこへ、またしても声がかかる。
「ロウファ・・・!」
知っている声なのに、なんだか響きが低くて怖い。
さっきと同じように肩をそびやかして振り向いた先には、肩で息をしているジェイドさんの姿。
珍しすぎる光景に、絶句してしまった。
その間に、彼らがやり取りを始める。
「私の許可なしに接触するなと言ったでしょう・・・!」
「そうだっけ?」
私の頭の上を通り過ぎる、紅の団長の声。
対してジェイドさんが、押し殺した怒りをのせて、言葉を吐く。
「・・・もう結構です。あなたは紅の本部に戻って、指示書を読みなさい」
いつも飄々としているのはジェイドさんのはずなのに、いやに感情を波立たせているみたいだ。
目つきが、ちょっと怖い。
自分が睨まれているわけではないけど、なんとなく直視出来なくて目を逸らす。
視界に入ったのは、遠巻きにこちらの様子を見ている騎士らしき男の人が数人と、食堂で働いている人達。
いまいち、この2人に対する王宮内での注目度が分からない私は、小首を傾げて周りを見回した。
もしかして、この2人のやり取り、人目を引くような光景なんだろうか。
「・・・リア」
ジェイドさんに呼ばれて、視線を彼に戻す。
見た感じは、いつもの彼だ。
「はい」
応えて彼を見上げていると、ふわりと微笑まれた。
後ろで紅の団長が息を飲むのが聞こえる。
一体何に驚いているんだろうか。
「待たせてしまいましたね。行きましょうか」
「え、あ、はい」
後ろの人は放っておいていいんだろうか。
戸惑いつつも、あまり彼を待たせて苛立たせても良くないと思う私は素直に立ち上がる。
彼がそっと椅子を引いてカップを持ち上げた側で、私は紅の団長と目が合った。
一応、挨拶しといた方が良さそうだ。
どう言えばいいものか。
また、ではないし・・・ありがとう、も違う気がする。
「えと、それじゃ、どうも」
言ってからぺこりと頭を下げると、彼の方もひらひらと手を振って。
結局彼は何をしにここへ来て、どうして私に声をかけたんだろう。
疑問を感じつつも、私はジェイドさんに促されるまま食堂を後にした。
・・・遠巻きに見ていた人達は、一体何を思ったんだろうか。
「ロウファに、気分を害されたりしませんでした?」
遠慮がちにジェイドさんが声をかけてくる。
私は手にした服を広げつつ、首を傾げた。
「うーん・・・特には」
予定通りに買い物にやってきた私達は、何軒か衣料品店と雑貨店を見てまわっているところ。
全部の店に一緒に入ってくれなくてもいいと断ったけど、そこは一切譲ってもらえずに、これでもかとお小遣いの入ったポシェットを没収された。
支払いが出来なければ、1人で買い物は出来ない。
結局彼のしたいようにしてもらった結果、今も文句のひとつも言わずに辛抱強く私の買い物に付き合ってくれているわけだ。
私は持っていた服を買うことにして、コートを選ぶ。
「あ、でも、」
たくさんかけられている中から、オレンジ色のものを手に取って呟く。
「私のこと、聞き放題見放題なんですって・・・。
だから、いろいろ知ってるらしいです・・・。
あ、これかわいー」
やっぱり女子は女子だ。
世界を渡っても、好きな物や興味のある物は共通するものだろう。
ワンピースばっかりで変わり映えしないけど、これはこれで毎日ウエストが楽だし、上下の組み合わせの心配もないし、いいかも知れない。
特にこの、オレンジのコートはひと目惚れだ。
「・・・やっぱり・・・」
ため息混じりに言葉を返したジェイドさんは、私の手から服とコートを取り上げつつ、店員さんのところに持って行こうとする。
「わ、ジェイドさーん」
慌てて追いかけるけど、肝心の現金は彼に取り上げられてしまって手元にない。
あわあわしているうちに、てきぱきと彼が会計を済ませてしまった。
「すみませんありがとうございます・・・」
謝罪とお礼をひと繋ぎにして言うと、彼は目元を和らげて頷いた。
「いえいえ。
お金の出所は一緒ですから」
それを言われると何も言えない私は、素直にもう一度お礼を言う。
いろいろな店をまわって足も疲れてきた頃、ようやくひと段落した私達は帰路に着くことに。
いつもはジェイドさんが運転して、車で通勤するんだけど、今日は屋敷の人の運転で、行きも帰りも送迎なんだそうな。
雪の残る道を歩いて帰るのは、結構怖い。
よく滑るのだ。
「ロウファのことは、私の落ち度です。すみません」
車を待つ間に入った喫茶店で、彼が頭を下げた。
「・・・?」
何故ジェイドさんに頭を下げられるのか理解出来ずに、私は小首を傾げる。
・・・ダメだ、考えても分からない。
「なんでジェイドさんが謝るんですか?」
疑問をそのまま口に出すと、彼は気まずそうにカップを傾けた。
足が重くて、テーブルの下でくるくると足首を回す。
私は、紅の団長とのことを、大して気に留めていなかったからだ。
「紅の騎士団は、貴族の監視と王宮の警備が主な仕事です。
実は、私があなたを保護したことは、しばらく内密にしていたもので・・・」
「・・・そうだったんですか」
相槌を打って、私もカップを傾けた。
「もう少し上手く立ち回れると思っていたんですが・・・」
彼が言葉を切って、窓の外をちらりと見遣る。
私もそれにつられて、視線を投げた。
そこには何も変わったことはなくて、ただ、夕暮れを間近に通りを歩く人がちらほら見えるだけ。
誰もこちらを見ることはなく、ただ、通り過ぎていく。
「彼はたぶん、私が隠していたあなたが危険因子かどうか、見に来たんでしょう」
彼の言葉に、視線を戻す。
目の前にいたのは、仕事をしている時のジェイドさんだった。
なんとなく居住まいを正した私に、彼は続ける。
「もちろん、私はあなたを信用してます。それは前にも言いましたね」
「はい」
間髪入れず頷いてしまった私は、彼を盲目的に信じてしまっている自覚があった。
「信用しているから、紅の騎士団が接触する必要はない、と伝えていました。
・・・つまり、です」
「はい」
彼の空色の瞳がゆらゆら揺れている。
ここは喫茶店。分かってる。
人の目があるのに、分かってるのに、どうしてもその目から視線を逸らせない。
今、私はとっても大事な何かを見ている気がするのだ。
傍から見たら、真剣な目で見つめ合う不思議な2人組みに見えることだろう。
「彼らは、あなたが私に取り入って、何か良からぬ思惑のもとに動いているのでは、と」
「渡り人のふりをして?
ジェイドさんを唆して?」
「ええ。
あまりに煩いので、あなたが世界に馴染んだら、少し話をさせるつもりでいると、
再三にわたって伝えてあって・・・」
「・・・そっか」
私は揺れる瞳を見つめて、頬を緩める。
彼は、私が落ち着くまで待つように言ってくれてたんだ。
「王立学校に行くことが決まりましたから、その前にあなたに事情を聞く場を設けようと
紅の本部へ出向いたんですが・・・行き違ってしまったようです・・・」
「・・・それで、ジェイドさんの落ち度・・・?」
「ええ・・・」
「なるほど・・・」
起きたことよりも、彼がいろいろ考えて立ち回ってくれていることに感心してしまう。
ただでさえ膨大な仕事量なのだ。
側で見て、その一部でも垣間見た私は、彼が私のことを両立して気遣ってくれていたことに、感心のような安堵のような、不思議な気持ちになる。
「彼は、人を探ったり欺いたりするのが仕事なのですよ。
だからなのかは分かりませんが、物言いに若干難があります」
「あ、それは何となく分かります」
あの不思議と引き込まれる感じ、心のささくれた部分に言葉が引っかかる感じは、今までに味わったことがなかったから。
「これは、私の勝手な言い分ですが・・・」
彼の瞳が、また揺らいだ。
揺らいでから、しっかりと私の瞳を捉える。
それは、冬の空みたいに澄み切っていた。
「理解して欲しいとは、言いません。
でも・・・、彼の行動は紅の騎士としては、当然のことなのです。
私達の誰が、国を揺るがす事態の引き金になっても困るのですよ・・・。
だから、身内相手にも監視や諜報だなんてキナ臭い真似をしなくてはならないのです。
もちろん、彼の態度や物言いがズレているのは、謝罪に値するとは思いますが・・・」
言い終わった彼は、苦々しく歪められていた。
きっと、彼には彼のジレンマがあるんだろう。
「1つだけ、名誉挽回させてもらえれば・・・」
「はい」
私は静かに、彼の言葉を待つ。
彼がこんなに喋るのは、珍しいもの。
頭がいい人は、言葉を選ぶのも上手だから、簡潔な会話で済む。
でも私はたくさん言葉を聞いた方が、なんだか得した気分になるのだ。
「あなたがミナの従姉妹で、これから何をしようとしているのかを知っているのは、
私とエルの2人だけです。
その秘密だけは、紅の騎士団は知らないと自信があります」
「はい」
私は静かに頷いた。
「私は、ジェイドさんを信じてます」
「・・・はい」
彼も頷く。
外に、車が止まった気配がして、2人して窓の外を見遣った。
私は、盲目的に彼を信用している。
それは、心の安定のため。
彼を疑ってしまったら、何を信用して息をすればいいのか分からないのだ。
そんなことになったら、今度こそ、私は発狂出来る自信がある。
王立学校に行くまで、あと7日。
私は今日も、ジェイドさんと暖炉の前で他愛もない話をしてから眠りにつく。
日が経つにつれて、両親や友人を夢に見る日が少なくなっていくことに、言い知れない不安を感じながら目を閉じた・・・・。