1
子どもの頃に読んだ不思議の国の絵本、
あの女の子みたいに、
深い、暗い穴を落ちていく。
つるん、と足を滑らせた。
シフォンのスカートがふわりと波打って、自分が落下していくのが分かった。
今朝は雪が降るって、お天気お姉さんも言ってたのに。
やっぱり、まだ春色のパンプスは早かったか。
後悔の念が頭をよぎる。
腰を強く打ち付ける衝撃を想像して、私は顔を顰めた。
ぼんやりする意識の中、身を起こす。
腕に力が入らないのがもどかしい。
ふかふかした感触が、渾身の力を吸い込んでしまう。
曇りガラスを通して世界を見ているみたいに、目の前がぼやけている。
うっすらと、黄色と肌色と、水色が見える。
マスカラ二度塗りしてるから、目は絶対に擦っちゃダメ。
子ども頃のように、ごしごしといきたい気持ちを抑えて、私は何度か瞬きをした。
根拠はないけど、頭も軽く振ってみたりする。
だんだんと視界がクリアになってきて、私は目の前に見えていたのが何なのか理解した。
オトコだ。男がいる。
私のことを覗き込んでいたのか、顔がめちゃくちゃ近い。しかも美形。
近所にこんな格好良いお兄さんが住んでたなんて。
『私、気を失ってました?』
金髪で青い目をした男性だったから、条件反射でするすると言葉が出た。
「・・・え?何です?」
結構はっきり発音したと思うのに、目の前の男は眉根を寄せて私の目を覗き込んだ。
近いな。
「あ、あれ?」
そういえば、雪、降ってないな。
耳に入った流暢な話し言葉に、思わず指をさして聞き返した。
「・・・え?ハーフ?」
答えの代わりなのか、てしっ、と相手に向けた指を払われる。
蚊を追い払うような仕草に、私はむかっとして、つい口を滑らせた。
「ちょっ、何すんの」
目が釣りあがって、刺々しい声が出たのを自覚するけど、そんなことはどうでもいい。
すると、美形の男が大きなため息をついた。
額に手を当てて・・・って、私がイタイやつみたいじゃないか。
「何、何なの?」
イライラして、初対面なのに言葉をぶつけるようにして言い放つ。
違和感が肌を刺して、すごく不快だ。
彼がため息混じりに言う。
「・・・落ち着いて。
ああ、渡り人なんてものを拾ってしまうとは・・・」
前半は私に向かって、後半はたぶん彼自身に向かって。
その全てが耳に入ってきて私は、あれ、と疑問を感じた。
なんか、おかしい。
ぐるっと辺りを見回す。
目に入ったのは、間接照明とホテルの一室のような内装。
あと綺麗な男が目の前に1人。
ここ、どこ。
私、雪が降るっていうのにパンプスで出て、案の定滑って転んで・・・・?
転んで・・・、
転んだんだよね・・・・?!
息が出来ない。
心臓の音の煩さが、耳鳴りに変わる。
あの深く長く落ちていく感覚が、今度は私を地面に引き寄せている気がする。
ふわりと宙に浮いて、霧散してしまえそうなのを、逃すまいとしてるかのような。
「・・・っ!!」
言い知れないものを感じて立ち上がろうとして、バランスを崩す。
一瞬前の前が白くなった。
くらくらして、血の気が引いていく感覚に恐怖が増した。
なんなの。
吐き気がする。
寒い。
私は家を出たところで、雪道に滑って転んで、腰を打ちつけたはずなのに。
脳裏をよぎったのは、ある可能性。
目をぎゅっと閉じても、ぐるぐると回る感覚が振り払えない。
こんなことが本当にあるなんて、思わなかった・・・!!
ふわふわと感覚が鈍っていく。
嫌だ、怖い。
こんな種類の恐怖、私は知らない。
目の前にいた男の人が何か言ってるけど、全く耳に入ってこない。
視界がぼやけて、それがまた怖くて目を瞑る。
そうして、いつの間にか私の意識は闇に沈んでいった。