5
夕暮れ前、くらくらする頭で琴巳は家に帰り着いた。それは多大に、暑さよりも別の要因から。
咲子が聞かせてくれた去年の十月からの顛末は、あまりにも意外なことに満ちていた。琴巳は、栩麗琇那にこの一年近くまんまと騙されていたと解り、茫然としたものだ。
それでも、事の発端――何故、彼はそんなことをしたのか――は、テーブルを囲んだ三人にも解らず終いだった。
そして、琴巳には栩麗琇那の気持ちも……
『琴巳ちゃんのコト、まだ好きなんでしょ? って加賀君に言うと、想像だけで決めつけるな、ってよく言い返してきたわ。でも一回も、好きじゃないとも、嫌いだとも言わなかった。軽く一言で流せなかったのね。〝まだ〟どころか〝益々〟なのよ』
咲子は目を細めて、そう言った。聞いた琴巳は、ドキドキしてしまったけれど……
もし栩麗琇那が琴巳を好いてくれているなら、尚更、フった理由が解らなくなる。
彼はいつも独りで居るらしいが、別にそう在りたくて在るのではない。本音は、誰かに傍に居て欲しいと願っている。それだけは、あの雨の日の大学で寝言を聞いてから、琴巳は確信している。
許されれば、琴巳は栩麗琇那の傍に居るのに。
『わっかんないなぁ。お兄さんは気持ちを殺してまで、琴巳を遠ざけたかったってこと?』
首を傾げながら言った順子の台詞が思い出され、琴巳は私室に入って溜め息をついた。
咲子は、気にしないで、もっかいアタックしてみたら? とけしかけた。順子も、反対しなかった。
『本気で離れるつもりなら、お兄さん、今度は理由を言わざるを得ないと思う。今回の嘘を琴巳は知っちゃったんだし。もし結果がフられ直しだとキツいだろうけど、はっきりすっきりはするよね』
真理だ。こんなうやむやな気持ちを抱えて過ごすより、いいと思う。
やっぱり好きなの、って言うしかないのかな。機会があったらもっかいだけ、勇気振り絞って、言ってみる――? わたしも〝益々〟好きなんだもの。
「よし。が、頑張るぞぉ」
いささか頼り無いかけ声をあげ、夏休みのスタートを三日後に控えた琴巳は、栩麗琇那への再告白を決意した。
琴巳と栩麗琇那は、三年前と同じ状況を迎えようとしていた。
中学高校が終業式の日、大学も前期の講義は全て終了した。
アルバイトも前期は今日までで、栩麗琇那は給料を貰って帰宅した。思ったより長い時間働いていたもので、今月は昼食代を賄って余りある。
明日は早々九十五里に帰省するから、両親に土産物を買うかと、栩麗琇那は呑気に考えていた。
元契約社員が、よりにもよって一番まずい相手に裏面を明かしてしまったとは知る由もない。
咲子が琴巳にもかなりの興味をいだいていると判った時点で、栩麗琇那は巧く口止めをしておくべきだった。しかしルウの次期皇帝は、昨年末から、故郷の情勢を把握するのに頭脳の大半を酷使させていた。直接的に琴巳が関わっていた問題ならまだしも、いかにも咲子の言動は間接的だった。
帰省準備も済ませ、その晩、栩麗琇那は私室で、今月届いたシェリフからの手紙を読んでいた。より具体的には、翠界の六暦六〇九年度の記録。
暑かったので開け放していたドアから、琴巳の澄んだ声がした。
「お兄ちゃん、いい?」
「あぁ」
栩麗琇那は読んでいた行に栞を添え、入口に目を流した。可憐な少女が、栩麗琇那が目を通していたモノと似たような紙束を抱えて立っていた。
「あの、宿題、教えて欲しいの」
些少の不審を感じたが、兄としてこれを拒む理由は無く、栩麗琇那は椅子から立ち上がった。抱えている物の量からしても時間がかかりそうで、部屋の隅に立てかけておいた折り畳み机を開く。
別れてから、琴巳はぱったり勉強を教わりに来なくなっていた。それが来たのだから、今年の課題は難題なのかもしれない。
琴巳はフレアスカートをふわんとさせ、座布団に座り込んだ。以前と変わり無い仕種で、用具を広げる。栩麗琇那は、翠界の資料は机にそのままに、バイト先で借りてきた本を手にした。向かいに腰を下ろす。
「やけにたくさん課題が出たな」
「数学の先生、宿題魔なの。毎回大変で、夏休みもすっごく大変になっちゃった」
琴巳らしい話しぶりに、胸がじんわりとする。幸せだ、と心の奥がしみじみ呟いた。
この前こうして傍に居られた日は、幸せなどとしんみりしていられなかった。この前は、あの四月の日曜日。隣で、琴巳は明るく喋ってはくれなかった。咽び泣いていた。
今日の琴巳は、宿題が大変だと言いながらも楽しそうだ。一日一枚ということらしいプリントを数枚めくってから、この公式、とシャープペンシルで示す。
「授業で、全然理解できなくて……」
どう理解できないのかを、琴巳は説明し出す。栩麗琇那は本を片手に大体を聞くと、考え方のコツを教える。兄の家庭教師は、いつもこうだ。
今度は解けそう、と琴巳はえくぼを浮かべ、ペンを持ち直した。実際の問題に取りかかったので、栩麗琇那は壁にもたれて本を開いた。ゆったりした気分で読み始める。
すっかりリラックスしてしまい、栩麗琇那はすぐに気づかなかった。丸々一章読み終え何となく目を上げると、漆黒の瞳と視線が合った。
「あ――なんだ、呼んで良かった、のに」
言いながら、しまった、と思う。琴巳の傍で寛いではいけなかったのだ。栩麗琇那が寛ぐのは、架空の恋人の傍でなければ。
琴巳は、どきりとするほど愛らしい笑みを見せた。こちらの様子に疑問は感じなかったのか、プリント束を向けてきて、見て? と可愛い仕種で顔を傾ける。
受け取りつつ、胸が高鳴ってしまう。顔がほてりそうで、額に手をやると繊細な文字に目を落とした。頭の中で次々展開する式と、書いてある文字が同一なのを確認していく。一枚分、相違点は無かった。栩麗琇那は僅かに口の端を上げる。
「この日は満点だ」
何処までやった? と問いながらプリントをめくる。半分に折ったルーズリーフが挟まっていて、前を見やった。「何か挟まってるぞ」
はにかみ顔で、見て? と琴巳は繰り返した。栩麗琇那は小首を傾げ、ルーズリーフを開く。
真っ先に目に飛び込んで来たのは、赤いキスマークだった。くっきりと、右下に付けてある。
思わず、向かいの唇を見た。
「何なんだ」
「お願い、読んで?」
琴巳は、色を乗せていない唇を動かした。「書いてるの、わたしだけじゃないから」
怪訝に眉を寄せ、栩麗琇那は数行書いてある文章に目を走らせた。上の方に、琴巳の字ではない躍った文字で、おどけた文句が書いてある。
【御免ね。でも口止めしなかったもんね。うふふv】
誰の字だ? と一層わけが解らないまま、数行開けて書いてある文に目を落とす。今度は琴巳の字だったが、文句に、栩麗琇那はぎょっとした。
【お兄ちゃんの、うそつき…】
瞬間、初めの文が誰の手によるモノか悟った。やられた――という言葉が脳裏を渦巻く。
顔が上げられなくなり、栩麗琇那はがんがんしてきた頭で続きを読んだ。行を変え、琴巳の字が続いていた。
【つきあっていた人とは別れました。
お兄ちゃんのそばにいたいの。いさせて下さい。】
数行の後に、咲子の文章が綴ってある。
【もー、カワイー、コトミちゃんv
あーんなタチの悪いウソを許してくれるんですって。良かったわね、加賀君。
ここまでされてヨリを戻さなかったら、今度会った時に、コレ、顔にも服にも持ち物にも、べったべたに付けてやる!!】
〝コレ〟の下から矢印がキスマークに向けてある。かいてあるのはそれで全部だった。
完全に意表を衝く内容に、栩麗琇那はどう反応すればいいか即断できなかった。一年近く忍苦を重ねた挙げ句、問題が振り出しに戻るとは。
琴巳は、おずおずと言ってきた。
「返事、九十五里で、聞かせて……? わたし、十日から、行くから」
栩麗琇那は無言でプリントの束を前に向けた。受け取るのを目の端に見ながら、前髪を途中までかき上げる。
琴巳は持ち物を整え、胸に抱えた。栩麗琇那が重たく持っているルーズリーフを見やり、申し訳無さそうに言う。
「三年前は上手く言えなかったから、今度は、手紙にしてみたの……ごめんね、突然……」
「……まったくだ」
嘆息し、栩麗琇那は、泣きそうな顔になる琴巳を睨んだ。「この上泣くな。返事しないとは言ってない」
しないわけにいかない。嘘などついてないと、しらが切れないのだから。
栩麗琇那は立ち上がると、椅子に座って琴巳に背を向けた。
「嘘をついたのは謝る」
「……うん」
「今日言えるのはそれだけだ」
机に肘をつき、栩麗琇那は両手で再度、髪をかき上げた。「机なんかはそのままでいい。ドアだけ閉めて行ってくれ」
「……おやすみなさい」
か細い声が言って、ぱたぱたっと足音がした。かちゃんと扉が閉まる。
「参った……」
如実な心境を、栩麗琇那は洩らした。




