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辺りがチカチカしている。
シルトンの展望台?
足元が、覚束ない。
そういえば、キスしちゃったんだっけ……
傍に、誰か居る。
朝倉君……?
琴巳は顔を上げ、ぼんやりした。栩麗琇那の綺麗な顔が間近にある。
あれ――?
恐る恐る、手をのばした。
淡い茶色の髪は、思った通り柔らかくて――
重ねた唇は、思っていたより温かかった。
「――良かったぁ」
琴巳は、やっと、心の底から幸せを感じた。
わたし、お兄ちゃんとキスしてたんだぁ。良かったぁ……
身体が、ふわふわする。夢のよう。
意外なことに、栩麗琇那が耳元まで赤くなっている。照れているんだろうか。
美青年は口許を手で覆い、くぐもった声を洩らした。
「酔ったままか」
何の話?
そんなことより、聞いて欲しいことがたくさんある。
お兄ちゃん――他の女の人とデートしないで。わたしの傍に居て。お家で二人きりになると離れて行っちゃうの、嫌。行かないで。
仕方無さそうに、栩麗琇那が髪をかき上げる。琴巳は、我儘だった気がした。不安になる。
ごめんなさい――お願い、嫌わないで。
ふわりと栩麗琇那が頬を撫でてきた。おずおず見上げると、美貌が静かに傾いて近づく。
自然と、瞼を閉じた。
優しく、唇をついばまれた。
頭の芯が、痺れた。
琴巳は、もそもそとベッドで半身を起こした。こめかみに手をあてる。頭がずきずきした。
雨戸が閉まっていて部屋は真っ暗だったが、鳥の声がするから夜は明けているだろう。
自分の部屋だ。昨日出かけたままの恰好をしている。
昨夜の記憶が曖昧だ。
みんなでシャンパンを飲んで、頭がぽかぽかしてきて……
弟が風呂の準備をしに場を離れたら、栩麗琇那が二人きりを避けようとした。
行っちゃう――と切なく感じた辺りから、よく覚えていない。二階まで自力で上がってきたのかも、あやふやだ。
ただ、見た夢が頭に残っている。
栩麗琇那が、キスをしてくれた。
「夢だったんだ……」
呟くと、たちまち目頭が熱くなった。涙がこぼれ落ちる。
シルトンホテルの二十一階で見た、武のはにかんだ笑みが胸を刺す。幸せそうだった。琴巳も、寸前までは幸せだった。
なのに何故か、唇同士が離れた後、あげちゃった、と後悔に似た思いが浮かんだ。それで落ち着かなくなってしまい、家族にクリスマスプレゼントを買うなどとでっち上げ、早々に帰宅の途についてしまった。
琴巳は両手で顔を覆った。
朝倉君はあんなに、わたしのコト覚えてくれてるのに……きっとキスも、しっかり覚えてる――どうしよう――
夢想があまりにも甘美で、現実を思い出せない。
こんなに、栩麗琇那のことが好きだったなんて。
フられる前より気持ちが溢れて、止まらない。けれど、この気持ちを栩麗琇那に知られるわけにいかない。彼には恋人がいる。困らせたくない。
涙を拭い、ベッドを降りた。着替えて、部屋を出る。今日は順子が遊びに来てくれるから、頭痛だけでも何とか解消したかった。
ほてほて階段を降りたところで、洗面所のドアが開いた。朝風呂に入ったのか、首にタオルを掛けた栩麗琇那が出て来る。こちらに気づいて、ぞくぞくする低声を響かせた。
「おはよ」
濡れた髪を撫で上げ、栩麗琇那は美麗な眼差しを流してくる。「去年みたいに二日酔い?」
「ん。ちょと頭痛い」
琴巳は情けない気分になる。「おまけに、どうやって布団まで行ったか覚えてないの。去年より悪酔いしちゃった」
栩麗琇那は、タオルで頭を拭った。短く喉を鳴らす。
「コトミ、小学生の頃と重さが変わってなかったよ」
どきんっとした。
「お兄ちゃんが運んでくれたの?」
夢が蘇った。琴巳が栩麗琇那にキスできたのは、至近距離に顔があったから。
抱き上げられてたからじゃ――?
たちまち琴巳は頭に血が上ったが、背後で公士の笑声が起こった。階段を降りてきた弟が、腹を抱えて言う。
「兄ちゃん、片手で軽々運んでったもんな。やっぱり姉ちゃん、育ってねーんだー」
公士はげらげら笑いながら洗面所に入って行く。言い返せずに立ち尽くす琴巳を、栩麗琇那がすまなそうな目で見た。琴巳はぎごちなく笑みを繕う。
「あの、ありがと、お兄ちゃん」
「あぁ」
栩麗琇那は台所へ足を向け、何気無く続けた。「俺の感想は参考にならない。ルウだから」
「ん」
琴巳は、何とかえくぼを作る。
弟が傍に居たら、彼はキスなんてしない。
安易に期待してしまった自分に、溜息をつきたい心地だった。
馬安で下宿を始めてから、栩麗琇那は毎年、十二月三十日から九十五里に帰省している。
昼前、栩麗琇那が九十五里の加賀家に着くと、亘が開口一番に告げてきた。
「シェリフ君から、九月末に手紙が来た。帰って来た時に開けばいい程度のモノだと、添え書きがあってな。机の、大きい抽斗に入れてある」
「分かりました」
栩麗琇那は亘に頷き、不安げな様相の光乃に微笑みかけた。「開けてみます」
光乃は、小さな笑みを返してきた。お昼御飯を用意するわね、と台所へ向かう。
「呼んだら、途中でも降りて来なさい」
亘はそう言うと、光乃に次いで台所へ足を向ける。はい、と応じた栩麗琇那は、階段を上がり、夏以来の自室に入った。
カーテンや布団カバーなどは、養母がきちんと冬物に替えている。扇風機の代わりに、小型ヒーターがお目見えしていた。それ以外は、別段変わり無い。
ベッド脇にバッグを置き、栩麗琇那はコートを脱ぐと窓辺の机に寄った。言われた通りに、大きい方の抽斗を開ける。
雑多なダイレクトメール類の下に、A四判ほどの白い封筒があった。差出人の名前も、宛名も無い。これがシェリフからの手紙だろう。多分、もうひと回り大きな封筒で、亘宛に届けてきたに違いない。でなければ、養父は封を切らずに栩麗琇那を呼んだ筈だ。
量があるようで、重みがあった。軽めの封印が施してあり、ペーパーナイフで外す。中には、紙の束が詰まっていた。少々質の悪い紙を紐で束ねた物と、手紙だろう二つに折った数枚の紙片。
束は後回しで、栩麗琇那は紙片を広げた。中央に、短い日本語の文面。マーニュ家の連絡先をメモしたモノと同じ筆跡。シェリフの字だった。
【君の要望通り、向こうに知らせた。蒼杜からの返信が届いたので、同封する。】
栩麗琇那は椅子を引き、腰を下ろしながら次の手紙を見る。シェリフと似た文字には見覚えがあった。春に見た、蒼杜のモノだ。
【御希望通り、先日、大君にお伝え致しました。更に、大君からラル家の方々へ。
待望の朗報に大層喜んでおられる由。願わくば三年後と言わず、すぐにでもと言う声もあるとか。皆、お帰りを心待ちにしているとの事です。】
皇子は一旦黙読をやめ、窓の外、防風林の隙から冬の海を見やった。
今現在、大君は誰が務めているのか。祖父ではないだろう。九年前の時点で、老衰からだいぶ弱っていた。既に亡くなっている……
祖父との思い出が次々浮かび、しばし青鈍色の海を眺めた。
帰郷したら、真っ先に一族の墓前に行かねばならない。栩麗琇那は父の弔いもそこそこに、こちらの世界に来てしまったのだから。
一つ息をつき、手紙に目を戻した。
【その上で過日、ラル家の老がお越しになりました。御帰還後、即に執務に携わって頂きたいのでしょう。皇子の失踪より九年分の記録の、写し書きを始められたそうです。
そちらでも種々事情有られましょうが、先ずは六暦六〇三年の一年分、是非に目を通して頂きたいという事で、これを同封します。
拝見したのですが、よくまとめられており、大変勉強になりました。今後、八年前、七年前と見せて頂くのが楽しみです。】
知神の申し子らしい文章に、栩麗琇那は僅かに口許がほころぶ。紙束はそれか、と納得した。
【最新の情報として私が知る限りでは、本年、遂に六神が直々にルウの民との会合を設けられました。
以後、年に二回、春分と秋分に、大君にのみお会いになられるとか。異世界の存在と、昨今の大陸の情勢に懸念をいだかれたのでしょう。】
皇子は眉をひそめた。大陸に不穏でも起こっているのだろうか。
【異世界と言えば、イー・ウー神の使い神、エ・ウ・ゼンが、シェリフの便りから、栩麗琇那がお住まいの世界を〝碧界〟と命名されたそうです。又、私達が居る世界は〝翠界〟とか。
六神、六方共々お気に召したそうで、ルウの方々の間にも広まっているようです。】
碧い世界か、と海を一瞥し、栩麗琇那は残りの丁寧な挨拶文に目を走らせた。読み終え、手紙を元に折りたたむ。
丁度良く、昼食に呼ぶ亘の声がした。栩麗琇那はさっと立ち上がる。
亘が言葉を添えなくとも、栩麗琇那には目下、翠界よりも碧界での事々が大事だ。
栩麗琇那は足早に、部屋を出て行った。




