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日が暮れてからの繁華街には、奇妙な雰囲気がある。
垢抜けているようで倦怠が見え隠れし、解放感があるようで疲れが滲んでいる。
夕食は自宅で養母か琴巳の手作りを食べるのが当たり前となっていた栩麗琇那は、アフターファイブの街にマイナスイメージを濃くいだいてしまう。
そんな印象はさておき、いつもと違う青葉大学のスクールバスで都心方面に向かい、栩麗琇那と咲子は初めて本物のカップルのようなコースをとった。
夕刻過ぎまでウインドショッピングに興じてから軽食をとり、一軒のワイン専門店に入る。咲子の話では最近できたばかりの女性向けの店だそうだ。
テーブルの一つに着くと、取り敢えず赤ワインとチーズを注文した。のんびり飲み始める。
少し大人目らしいメイクにした咲子は、チーズをつまみながら、うふふ、と満足そうに笑った。
「この前、友達と来てから、加賀君と来てみたくってー」
グラスを揺らしつつ、栩麗琇那は皮肉を口にした。
「君のお蔭で、見世物になるのも段々慣れてきた」
店内の客は、七割が女性だった。何やら、あちこちから視線を感じる。
咲子はけろりとした顔で、良かったわねー、と応じた。
「この際、見せびらかすわよー? 友達の中には、レポートも試験もサポートしないでいいから、隣を歩かせて欲しいって子もいるわよ?」
「君と契約したのは、他を寄せない効果を期待したからなのに」
栩麗琇那は苦笑した。「余計なことは喋らない方がいいぞ。求めて身近に嫉みを買うこともないだろう」
「難しいわよねー。わたしは、変に妬まれないように契約社員だってバらしたんだけど、それでも恨まれちゃって」
咲子の台詞に、栩麗琇那は眉をひそめた。
「物理的に何かされていないだろうな」
「あら、心配してくれるのね。まぁ、平気平気、今のところは」
グラスを傾け、咲子はクスクス笑った。「週末ちっとも誘われないし、帰りのバスを合わせてるだけだもの。そこまでバらしたら、大方は拍子抜けしてたわ。何それ、だって」
多少の挑発を感じ、栩麗琇那は受けてやった。
「今日は社員の慰安デーだ。話のネタを作っても構わない」
「ぅえっ?」
「そのかわり、事後の責任までは持てない」
「…………」
「女性の嫉妬というのは怖いらしいな。何をされるだろう。階段を降りているところで背中を押されたり、校舎の傍を歩いていたら上から何か落とされたり……」
ストップ、と言いたげに、咲子は掌を向けてきた。グラスを片手に頬を膨らませる。
「とっきどき、加賀君て目茶苦茶憎たらしいわ」
軽く笑って、栩麗琇那は赤い液体をあおる。咲子は、それを見て目を丸めた。「真面目一本槍かと思ったら、未成年のくせにイけるクチ?」
「想像を覆して悪いが、祝い事があれば飲んでいて、前後不覚になったことはない。黒沢が潰れても送るから、安心して飲むといい」
ルウの民にも個人差があるので、中には酒に弱い者も居る。そういっても常人よりは飲めるだろう。栩麗琇那は特別弱くないので、一体どれほど飲めば酔うのか、自分でも判らなかった。浴びるほど飲んでも駄目かもしれない。
今日何度目か、恋しい少女が頭に浮かんできた。
去年のクリスマス、公士がねだって加賀家の子供達はシャンパンを開けた。
琴巳は初めてだったらしく、サイダーみたいな味ね、とこくこく飲んだ。酒豪か、と栩麗琇那が意外に思う間に、少女はたちまち頬を上気させた。公士の方はまるで平気で、姉ちゃんだっせー、と笑っていたものだ。
ぽや、とした酔い顔が色香めいた風情を纏わせ、あの時、栩麗琇那は琴巳に酔ってしまいそうだった。
そうだ、あの所為だな、酔わせて襲う夢をやたら見るのは。
注ぎ直されたワインを含みつつ、栩麗琇那は精神的理由から頭痛を感じた。どうもこのところ、肉欲まみれの夢が復活してきた。
以前は独占欲から。今度は、欲求不満が原因だろう。琴巳と離れて二ヵ月以上経っている。手にも触れられず、声さえもあまり聞いていない。
最近に見た劣情満載の夢を思い出してしまい、まずい、と栩麗琇那は片手で口許を覆う。まさか酔ったか? と自分に問いながら、グラスを置いた。
咲子もグラスを置いた。カフェで言った言葉を繰り返す。
「不思議な人ねぇ」
チーズを手にしながら、咲子はさらりと言った。「そんなに好きなら、よりを戻せばいいのに。あの子なら考えてくれるんじゃなーい?」
見抜かれて少なからず動揺したが、栩麗琇那は平静を装った。
「想像は自由だが、それで決めつけて意見されても困る」
咲子はチーズをもぐもぐさせつつ、指を突きつけてきた。
「女の勘を、ナメてるわね?」
「侮ってはいないが、根拠が無い点はどうカバーするんだ」
「……もう……変なカップル」
「確かに。契約して付き合うなんて他に居るかどうか」
しれっとして、栩麗琇那はグラスに手をかける。咲子は、わたし達のことじゃなーい、といちいち説明してくれる。
返答せずに喉を潤し、侮れないな、と栩麗琇那は内心で舌を巻いた。間を置きたくて、失礼、と立ち上がる。
「家に電話を入れてくる。俺の分まで夕食を作ってしまうから」
咲子は店内の掛け時計に目をやった。
「いいわねぇ、いつも帰った頃には晩御飯用意されてるんだ?」
「あぁ」
「加賀君のお母さんて超美人でしょうね」
「さぁ?」
母は、父に言わせれば例えようも無い美女だったそうだ。栩麗琇那が物心ついた時には亡くなっていたので、本当のところは知らない。
席を離れると、カウンタ横の公衆電話から、父の表現をそのまま借りられる少女へかけた。時刻はほぼ七時。琴巳は恐らく、家に一人だ。
五回コール音を聞いた後、何日ぶりか、澄んだ声が耳に届いた。
〔はい、加賀です〕
「俺」
〔あ――な、何?〕
栩麗琇那は不意に、切なくなった。会いたい、と喉まで出かかってしまい、無理矢理修正する。
「あ――た――大学、で、夕食とったから」
〔……そう〕
「作ってしまった?」
〔う、ううん、まだだった〕
ぎりぎり間に合った、とほんの少し安堵する。
「公士、まだだな?」
〔うん〕
「じゃ、帰って来るまで居留守使ってな。玄関は開けるなよ」
〔……うん〕
鼻声に変わって聞こえた。
「コトミ……?」
〔そ――そだ、コウの分は作らないとね〕
完全な鼻声が、口早に言った。〔そ、それじゃ、切るね〕
「……あぁ」
〔――電話、ありがと〕
泣いてる、と判った瞬間、電話は切れた。栩麗琇那は受話器を持ったまま、ややの間、立ち尽くす。
二年の月日は、二ヵ月経過したぐらいで消せるわけもないか。
受話器を戻し、唇を噛んだ。第一、栩麗琇那自身がそうなのだ。隣であんなに幸せそうな顔をしていた琴巳が、そうそう吹っ切れる筈もない。
せめて同じ歳月が必要か……
テーブルへ戻り、栩麗琇那はグラスを手にした。赤い細かな波が起こって、グラスから手を放す。
見てとった咲子が、顔を傾けた。
「顔に出さずにマワってるってコトはないでしょうね。わたしを送ってくれるって、はったりとか言わないでよー? 嬉しかったんだから」
「あぁ、送るよ」
栩麗琇那は、無意識に顎をさすった。「今日の夕飯を食べ逃したのが、ちょっと、ショックなだけだ」
「あら、可愛い」
咲子はグラスを揺らした。「好物は何?」
「茶碗蒸し」
そこは正直に答えたら、咲子は口許にグラスを持っていきながら、可笑しそうに感想を述べた。
「そこはかとなく、そぐわないモノが好きね」
栩麗琇那からの電話を切った琴巳は、ずるずると床に座り込んだ。嗚咽まじりに、お兄ちゃん、と洩らす。
「駄目……わたし、や、ぱり……」
声を聞いただけで、震えた。久しぶりに近くで聞けた。それだけで、涙が出るほど嬉しい。
居留守使ってな、と言ってくれた。一人で家に居るから、気をつかってくれた。
栩麗琇那は、相手が琴巳だから言ったのではないだろう。彼にとっては、家で女の子が一人という条件なら、誰にでもかける言葉なのだ。解っているけれど、そういうさり気無い優しさが、琴巳はどうしようもなく好きだった。何を考えているのか教えてくれないポーカーフェイスの裏で、いつも落ち着いて配慮している心が。
好き――大好き――声だけで、頭の中がお兄ちゃんのコトでいっぱい……
耳を手で包んで、琴巳は目を閉じた。聞いたばかりの美声を思い返す。どことなく他の人とは違って聞こえる彼の呼び声が、コトミ、と繰り返し響いて、胸を打った。束の間の幸せが、身体中に満ちていく。
カチカチッと、金属音が割って入ってきた。鍵を開ける音だった。カチャン、と続き、玄関が開く。
「ただいま」
公士の低声が言った。弟は夏休み前に変声期を終え、声だけはすっかり男っぽくなっていた。「腹減ったー」
とたとた廊下を歩いて来て、馬安中学校のジャージ姿をした少年が台所に顔を出した。床に座り込んでいる姉を、まじまじと見る。琴巳は慌てて立ち上がった。
「お、おかえり。早いね」
「土、日はいつもこれぐらいだろ?」
言って、まだ同じ目線のくせに、公士は見下ろす目つきで見てきた。「何も無いとこで転んだのかよ、ドジー」
「座って電話してただけよ。お兄ちゃん、御飯要らないんだって」
ふぅん、と公士はやや表情を改めた。何も訊いてこなかったが、姉と兄の恋が終わってしまったことを、弟は敏感に察知していた。春から殆ど単独のリズムで生活しているのに、夏以降の、家庭内の微妙な変化に気づいたようなのだ。
公士は、肩から提げていたスポーツバッグを椅子に置いた。洗面所へ足を向けつつ、晩飯何ー? と問う。
「わたしもついさっき帰って来たの。これから作る。何食べる?」
「帰りにラーメン食って来たんだ。それ以外にしてー」
帰りに食べたのにお腹空いてるの? と琴巳は口許が引きつる。まったくもって、加賀家の男性陣は大食漢だ。
メニューを決めて用意にかかると、電話が鳴った。卵を持って振り返ると、丁度戻って来た弟が受話器を取った。
「加賀です……はい、居ます」
琴巳は割った殻を持った手を止めた。ちょっとお待ちください、と続いたので、手早くごみ入れへ捨てる。公士が受話器を向けてきた。「朝倉って男から」
「オムレツとサラダ」
受話器を受け取りながら、琴巳は告げる。はいよ、と少年は入れ代わりに流しに立った。
今し方、栩麗琇那への気持ちを再認識してしまい、琴巳は心苦しい気分で保留ボタンを押した。代わりました、と言うと、昼間聞いた声が聞こえてきた。
〔加賀、明日、午後にガッコ抜けられるか〕
「何時に?」
〔十二時半から二時半ぐらいまで〕
「んー。その時間帯なら、抜けられるかも」
〔じゃ、馬安中まで連れてってくれないか〕
「馬安中に?」
琴巳は芸も無く繰り返してしまう。武も、馬安中に、と繰り返した。
〔明日も会いたいけど、連れてってくれないと、会えないから〕
「話が、よく、解んないんだけど……」
〔あぁ、悪い。俺、蘇座中のバスケ部でコーチやってるんだ〕
「コーチ?」
又も繰り返してしまう。武は、短く笑った。
〔突き指、って言っただろ〕
肩を抱き寄せられた時、ミントの匂いがすると思った。あの後、少年が人差指に巻いた湿布薬から香ってきていたのだと判ったのだ。〔コーチ頼まれたの、二学期からで……久々にボール触ったら突いたんだ。かっこ悪くて、黙ってたかったけど……〕
そうなの、と琴巳は相槌を打つ。打って、何となく解った。
「明日、馬中で試合でもあるの?」
〔御名算〕
「馬中、行ったことないんだ?」
〔あるけど、顧問が車で連れてってくれてたから道を覚えてない。明日も顧問に送迎してもらうとなると、加賀には会えない〕
武は、感情のこもった台詞を続けた。〔けど、俺は明日も会いたいんだ〕
ひゃ、と琴巳は頬が熱くなる。
「あの、あ、あの、いいよ、解った」
さんきゅ、と言ってから、低声が笑った。
〔今、真っ赤になってる加賀が想像できるや〕
「え――そ、そんなこと、ないよ?」
頬をさすりつつ強がると、ふぅん、と少年は笑みを含んだ声で応じた。
〔会えない時間、ずっと、こうして声だけでも聞いてられたらな〕
「そっ、そ、そう」
顔から湯気出てる? と武は笑った。気分はその通り、と琴巳は心の内で白状する。
〔残念だけど、部長に連絡しないといけないから、そろそろ切る〕
「う、うん」
〔明日、五組に居て。行くから〕
「うん……」
じゃ、と言うと、武は電話を切った。琴巳は息をついて、受話器を置く。
ジュワッと云う音に、弟を振り返った。琴巳と同じような手つきで、公士はオムレツを作っていた。
「コウ、明日、試合ある?」
「ん。蘇座中と練習試合」
答えてから、皿、と公士は手をのばした。琴巳は手渡し、そっか、と呟く。少年は三日月型のオムレツを皿に移すと、こちらを見た。「もしか、朝倉って、朝倉武?」
「うん」
『バスケ関係者の間じゃ結構なモンみたいよ』
クラスメイトの言葉が思い出され、琴巳は何気無しに訊いた。
「有名みたいだけど、朝倉君てそんなにバスケット上手なの?」
「ガッコ違うっていっても、隣町で同じ学年に居たってのになぁ」
公士は次に取りかかりながら、半眼を閉じた。「蘇座中バスケ部って、朝倉武が居た一昨年と去年、連続で全国大会まで行ってるんだぞ?」
「へぇえー」
サラダの用意を横で始めた琴巳は、小さく口を開けた。「それって馬中だったら、快挙って、全校集会辺りで、校長先生から褒められそうね」
「やぁれやれ。天才フォワードとか聞いてるけど、女を見る目は無かったみたいだな」
ぼとん、と琴巳は持っていたトマトをシンクに取り落とした。
「な、何言ってるの、コウ」
「何言ってるの、だぁ?」
少年は、頬を膨らませた。「電話番号教えてて何すっとぼけてるんだ、この女」
「お、お姉ちゃんに向かって〝この女〟とは何よっ」
「〝このガキ〟が良かったー?」
「中坊にガキ呼ばわりされたくないんだけど」
「へっ。姉ちゃん、明日来たってオレらとタメだと思われるのがオチだぜ」
くうぅー、と琴巳は唇を噛み締める。公士はにやにやした。「大体、姉ちゃん、もうすぐオレよりチビだぜ? あっと言う間に並んじゃったもんな」
「ここまでかもよ?」
「それはないね。今、関節痛いから、まだ伸びるぜ」
へぇ、と琴巳は弟を見やった。
「痛いって、ちゃんと大事にしてる? 湿布とかしなくて平気?」
「……必要ねーよ」
「そうなの?」
「そうなの。ま、我慢できなくなったらサポータ付けるし」
そっか、と琴巳は洗い直したトマトに包丁を入れた。ふと、笑いが込み上げてくる。
「何か、楽し。コウとお喋りするの久しぶりね」
ジュ、とフライパンに卵を流し込んで、少年は無言だった。ややして、ぽつんと問う。
「ガッコ、つまんないの?」
「んー、楽しいよ? 勉強は難しくなってて大変だけどね」
答えてから、琴巳は弟をちょんと肘でつついた。「コウは部活頑張ってるけど、勉強の方はどうなの? 試験とか、小学校に比べたら何倍も難しいでしょ?」
「試験前は部活ねーから、今のところは一夜漬けでばっちりだぜ。姉ちゃんと違ってデキがいいからな、オレ。この前の中間、平均九十二点で学年三位だった」
琴巳は絶句してしまう。公士は卵をくるくる三日月型に整え、皿、と言う。差し出したのを受け取りながら、少年はにいっと白い歯を見せた。「姉ちゃんは何点だったのかなぁ?」
「……訊かないで」
夏からあれこれあった所為で、中間テストの結果はガタガタだった。何とか赤点を免れた科目ばかりで、どうしたの? と担任教諭に訊かれ、返答に困ったものだ。
「落第だけはするなよー? オレ、一緒に高校生はやりたくない」
「う、うん。そうね、頑張る」
「頑張りタマエ」
言って、公士はぽんと琴巳の頭に皿を置いた。




