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例えばこんな恋語り  作者: K+
7章 波の様(ナミのヨウ)

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♪嗚呼――あの夏に帰りたい――季節は――無情に過ぎて行く――

 心奥に、しくしく刺さる歌だ。

 最後まで聴かずに琴巳(ことみ)はラジオを消した。

 中学二年生になるとクラス替えがあった。幸運にも順子(よりこ)と同じ組になり、学校生活は楽しくなっている。

 家では、相変わらずだった。交代制の家事。専門の料理。弟との他愛ない口喧嘩。母とのメモでの会話。そして、琇那と避けあう毎日。

 琴巳は、順子にも相談できないでいた。同居中の少年が、もはや兄と思えなくなっていることを。それでも、お兄さんは? と振られれば、応じるしかない。彼のことを兄と呼ぶしかない。兄だ、と毎日のように自分に教え込んでいる。

 世間は、ゴールデンウイークだった。

 ラジオを点けると共に閉じていた数学の教科書を、琴巳は開き直した。数式との睨めっこを再開する。

 去年の夏までは琇那(しゅうな)に訊きに行けたが、意識してしまって、行けなくなった。数学の成績は一年の三学期辺りから下降気味である。抜群の家庭教師が基礎を仕込んでくれていたので、急降下を免れている状態だ。

 宿題となった練習問題を眺め、琴巳は情けない気分だった。新たな公式が続々と登場し、内容がどんどん理解しがたくなってきている。

 ヨリちゃんに電話しようかなぁ。

 順子も数学は苦手だが、彼女の兄は得意科目らしい。訊きに行けないだろうか。取り敢えず、順子は自宅に居る筈だ。家でごろごろすると言っていたから。

 よし、と琴巳は部屋を出た。宿題一緒にやらない? と誘って、やろう、と言ってくれたら、そっちに行ってもいい? と訊こう。

 二階の廊下にある子機電話の前で、琴巳は一人、頷いた。

 と、階下で親機がコール音を響かせた。二拍遅れて、目の前の電話も鳴り出す。

 ヨリちゃんだったらどうしよ――やっぱりこっちに来るつもりで、かけてきたとしたら――

 子機を取りあぐねる琴巳の横手で、公士(こうし)が部屋のドアを開けた。ぱちぱちっと瞬き、なんで出ないの、と言う。当然の質問だった。

「で、出る出る」

 琴巳は笑みを繕って受話器を取った。加賀です、と名乗る。こんちは、と哲朗(てつろう)の声が聞こえてきた。久しぶりだった。

 こんにちはぁ、と応えながら、琴巳は癖で、保留のボタンに指がのびる。

〔琴巳ちゃん? 江利(えり)です〕

「はい。声で判っちゃいました」

 待っててくださいね、と琴巳は言いかけた。すると、君に話が、と哲朗は続けた。

〔今日は、琴巳ちゃんに話があって〕

 琴巳は小首を傾げた。はい、と言いつつ、目の端に公士を捉え、自室に向かう。

 ドアを閉めた時、真剣な声が耳に響いた。

〔良ければ、君と付き合いたい〕

「は? えと……」

 琴巳は口ごもってしまう。脳裏を、琇那の顔がちらついた。

〔びっくりした?〕

「や、ヤだ、冗談だったんですか。びっくりしたぁ」

 足の力が抜けた。座り込んで受話器を持ち直すと、哲朗の声が短く笑った。

〔本気だよ〕

「……どっちなんです?」

 ちょっと考えてくれた? と明るく言って、哲朗は続けた。

〔俺さ、聞いたかもしんないけど、加賀とクラス別れたんだ〕

 初耳だったが、琴巳は無言で次の台詞を聞いた。〔俺と加賀って元々社会の課題で組んだだけで、二学期からは席も離れたし、後は何も接点が無いんだよ。で、クラス別れちゃって、何となく電話もかけづらくなっちゃって。琴巳ちゃんに会いたいのに、きっかけ無いし〕

 受話器を持つ手が震えてきた。本気だ。哲朗は本気だ。

〔迷ったけど、この際、単刀直入に申し込むことにしたんだ〕

 どうしよう、と心がパニックの声をあげた。

 哲朗は明るくて面白くて、気のつく人だ。

 何より、琴巳を避けない。ちゃんと顔を見て、話をしてくれる。

 これだけ条件が揃っているのに、琴巳の頭の中では、どうしよう、が繰り返された。

 長いこと黙っていたら、哲朗は、また短く笑った。

〔あのさ、突然の話だし、初めは友達みたいな感じでいいんだ。ま、友達とは違うかもしれないけど、二人で遊びに行かない?〕

 友達みたいな感じで、という台詞に、琴巳の心は動いた。

「例えば、何処に……?」

〔お、行く?〕

 哲朗の声が嬉しそうになった。〔季節いいから、動物園とか遊園地なんてどうかな〕

 琴巳は瞳を上向けた。遊園地は苦手な乗物があるから、できれば遠慮したい。そんなことを考えつつ、一応、琴巳は告げた。

「わたし、何かあやふやな気持ちだけど、いいんですか」

〔最初は俺もそんな感じだったよ。琴巳ちゃんて可愛いなー、ぐらいだったんだけどさ〕

「そ、そうですか」

〔ははっ、照れてるな?〕

 哲朗は楽しそうな口調で言った。〔連休明けの次の日曜、どっちかに行こうぜ。昼飯作ってくれたら、俺が入場券とドリンク奢るぞ?〕

 琴巳は、ふふっと笑った。

「動物園の方が、好きです」

〔おぅ。じゃ、志羽(しば)動物公園行こう。場所知ってる?〕

 はい、と琴巳は答える。

 琴巳は、琇那が自分の内でどれ程の存在になっているか、気づいていなかった。

 魅かれているのに、離れようとしていた。




 連休が明け、通常通りの日々に戻り、栩麗琇那は校舎の屋上で昼食をとっていた。ボリュームたっぷりの手作り弁当だ。互いに避けて過ごしていても、琴巳は、こういう点をおざなりにすることはなかった。

 今日は曇り気味の所為か、屋上には他に誰も居ない。

 しかし、いま一人、物好きが現れた。キイ、と金属的な音をたてて、屋上入口の扉が開いた。栩麗琇那は音に気づいたが、無視する。開けた方は、無視しなかった。

「加賀じゃんか。久しぶり」

 覚えのある声に、栩麗琇那は顔を向けた。哲朗だった。手に、惣菜パンの袋を三つほど持っている。

「昼飯?」

 おぅ、と哲朗は掲げて見せた。

「おふくろ、今週、遅番でさ。俺と妹がガッコ行く時間はお休みタイム。妹は給食だからいいけど、俺は犠牲に遭ってるわけ」

 哲朗は傍まで来ると、誰か来る? と問うた。栩麗琇那は、いや、と短く答える。哲朗は横手のコンクリートに腰を下ろすと、歯をこぼした。「クラスの奴が話してたけど、既に一年の女の子めった斬りだって?」

「……そんなにじゃない」

「十何人かフったんだろ? そんだけフれば充分値する表現だと思うけどな」

 袋の口を開けながら哲朗は苦笑する。「ま、加賀の場合、誰か一人選んでも角が立ちそうだしなぁ」

 栩麗琇那は弁当をつつきながら話題を変えた。公士が遊びたがっていると告げる。ん、と哲朗は、口をもぐもぐさせながら頷いた。飲み込んで、言う。

「そのうち行くよ。口実できたしな」

 瞬時に、理解した。

 頭の血が一気に落ちた気がした。身体が震えそうになって、栩麗琇那は懸命にこらえた。

 哲朗は、嬉しそうに目を細めた。

「日曜が楽しみだー。鮭と若布のおむすび作るって言ってた。志羽動物公園行くんだ――って、もう聞いてるか」

 頭がガンガンした。それでも、栩麗琇那は応じた。

「そんなことまで、いちいち話さない」

「そっか。メグミも、男が出来ても俺には言いそうにないな」

 哲朗は鼻先をこすった。「クラスの女子と比べても、琴巳ちゃんの方が可愛いなと思ってさ。連休中に電話でオーダーしてみたんだ。取り敢えずOKしてくれて、友達から、ってヤツだ」

 栩麗琇那は、必死に現実を受け止めようとした。三月にフランスから届いた虚しい知らせよりも、必死に。

 そうしないと、溢れてくる感情を言葉にしてしまいそうだった。

 琴巳は可愛いだけじゃない。哲朗より自分の方が、ずっと琴巳の良さを知っている。五年近くも見てきたのに――それなのに、不条理だ。あまりに不条理だ。

 栩麗琇那は己が運命を真剣に呪った。

 これほど屈辱的な思いをしたのは、初めてだった。

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