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ざざぁん、と多少大きな波音が届いた。
すっかり聞き慣れていた琴巳も、寸時耳を澄ましてしまう。
どうどうとうねり、ざざざと寄せ返す音の群れ。
聞き慣れても、やはり夜はよく聞こえる気がする。
そういえば、そう書こうかなって思ったことがなかったっけ。
絵日記をしまったばかりのリュックサックに、琴巳は目を向けた。
八月からの絵日記は、三十日の今日までスペースの余った日が無かった。見直しても、隙間は見つからないだろう。
畳みかけだった服を終いまで畳んで鞄に入れ、琴巳は傍で同じ作業をしている弟を振り返った。うつむいている。
「コウ?」
家に帰りたくないと言い出すんじゃないかと、支度を始めてから気がかりだった。
正直、琴巳の心には半分帰りたくない気持ちが広がっている。昼過ぎに母から、迎えに行くからね、と電話があって、馬安に帰るのが定かになった。そうしたら、急にその気持ちが膨らんだ。
どう宥めようか考えながら、琴巳は公士の顔を覗き込んだ。近頃は紫外線が強くなってるからあんまり焼いちゃ駄目よ、と祖母が言ったけれど、弟はこの三十日近くでこんがり小麦色になっている。
南の島の人みたいになった公士は、琴巳の危惧を余所に、こっくりこっくりと舟を漕いでいた。宿題などの一式は片づけたようだが、服は半分もしまわれていない。座り込んだ周りに散らばったままだ。
琴巳は、唇をすぼめた。
この子って、どうしてこんなに単純なのかしら。
久しぶりに母と電話で話した時も、これまでのことをまくし立て、これっぽっちも九十五里の人達との別れに感傷をいだいていないようだった。明日ねー、とはしゃいだ声で締め括っていたから。
「コウ、寝るなら、横になって寝なさい」
琴巳が肩を揺すると、うーん、と寝惚けた声をあげ、弟はころんと転がった。琴巳はペシと尻を叩く。「残念でした。そこはお布団じゃありません。ほら、起きて。お洋服しまうのは明日の朝でもいいから」
ううーん、と公士は小さく唸ると、丸くなってしまった。完全に寝る体勢だ。
泳ぎおさめとか言って、一日中泳いでたもんな。
もう、と琴巳は一声発し、立ち上がった。弟の細い両腕を抱き込み、布団へとずるずる引っ張る。
「――コウ、ちょと、太ったんじゃ、ない?」
思ったより苦労して、何とか琴巳は公士を布団に寝かせた。タオルケットを腹の辺りに掛けてやりつつ、もう、と再びぼやく。「汗かいちゃった。お風呂入った後なのにぃ。コウの馬鹿馬鹿」
くすくすと笑う声に、琴巳は焦って振り返った。部屋の入口で、祖母が口許を押さえて立っていた。
「琴巳ちゃん、もう一回入ってもいいわよ?」
「う、ううん。平気」
労働したことも加わってか、琴巳は顔がほてってしまう。「えと、えと、独り言だったから、だから、オーバーに言っちゃったの」
そう、と祖母は微笑んで顔を傾けた。
「でも頑張ったわね、コウ君を一人でお布団に運んだのね」
「美味しい物たくさん食べて太ったみたい。重かった」
あら、と祖母はまた優しい笑い声を洩らした。琴巳も、えへへと笑みをこぼす。
ここに来る前は怖い人攫いのイメージがあった祖父母も、ひと月近く一緒に暮らした今は、母と同じくらいに大好きだ。
明日で、お別れかぁ。
思い出となった数々の出来事が、次々蘇ってくる。
祖母には、料理と併せてバランスのいい栄養の摂り方から、怪我をした時の応急処置の仕方、小物入れ作りも教わった。
「お祖母ちゃん、あの自由課題の袋ね、返してもらったら、お家で使えるかなぁ」
これまではボタン付けしかやったことがなかったから、アレは飛躍的な大作となった。できたことはできたが、実用に足るかはイマイチだ。
「使えるわよ。大丈夫」
祖母はにっこり保証してくれてから、手にしていた小箱を差し出した。「でもね、使っているうちに綻びることがあるのよ。わたしのも何度か修復しているの。だから、これをあげるわ」
母が指輪を入れている宝石箱に似ていた。琴巳は、どきどきしながら受け取った。
「開けていい?」
勿論よ、と返ってきて、琴巳は蝶番付の蓋を持ち上げた。「わぁ……」
中には、ぴかぴかの裁縫道具が並んでいた。針刺にまち針。脇には数種の針。糸通しにミニ鋏。中蓋の下には、白と黒と紺の糸まで入っていた。
「コウ君はちょっと興味無さそうだったし、これは琴巳ちゃんにだけのプレゼントね」
内緒よ、と言いたげに祖母は人差指を口許にあてる。
不意に、琴巳は涙が溢れた。あらあら、と祖母は包み込んでくれた。
「泣かない泣かない。けど、泣くほど喜んでくれるなんて嬉しいわ。どうしましょ」
琴巳は涙を拭いながら、打ち明けた。
「あたし、お家にも、帰りたいけど、お祖母ちゃん、達と、離れちゃうの、ヤなの」
きゅっと、祖母は抱き締めてきた。もらい泣きさせたのか、鼻声が頭上から聞こえた。
「じゃあ、又、お母さんに連れて来てもらってね?」
あ――そうか――!
琴巳はゲンキンにも、ぴたっと涙が止まった。考えていなかった。夏休みは来年もある!
きゅうっと祖母に抱きつき、琴巳は約束した。
「絶対、お願いする」
近海で発生した四つの台風はいずれも関東地方に立ち寄らず、激しい夕立は何度かあったが、概ね晴れの日が多い八月だった。
最終日も相変わらず暑い。
加賀家の門前に、亘が白い乗用車を停めた。助手席のドアロックを解除する。
門柱脇に立つ栩麗琇那に、並んでいた光乃は小さく微笑んだ。
「じゃあ、お留守番、お願いね」
栩麗琇那は少し口許をほころばせる。
「いってらっしゃい」
ひと月ぶりに九十五里にやって来た千鶴子は、一瞬、目を見張った。義母と栩麗琇那に視線を交互させる。
「あ、ちょっと六人は無理……?」
「えぇ」
栩麗琇那が応じると、そっか、と呟き、千鶴子は手を差し出した。
「一ヵ月も琴巳と公士の面倒を見てくれて、ホントにありがとう」
「俺は、大したことしてません」
気恥ずかしい心持ちで、栩麗琇那は握手した。千鶴子はもう一方の手も重ね、元気でね、と気持ちのこもった口調で言う。
黙って栩麗琇那が頷くと、千鶴子は子供達を促した。姉弟は、少々慌てた様子でこちらにお辞儀する。二人共、九十五里駅まで全員で行くと思っていたようだ。
光乃が助手席のドアを開け、子供達の荷物を分かち持った千鶴子も後部座席へ足を向ける。
琴巳と公士は、練習でもしたかのようにそっくりの仕種で、車から大人達、栩麗琇那へと目を移動させた。揃って、泣きそうな顔をする。
皇子も、切なかった。初めて得られた妹弟との日々は、流星のように過ぎてしまった。それだけ、充実していた。
「元気でな」
栩麗琇那が言うと、琴巳は唇をちょっと噛んで顎を引いた。こういう時は姉に即準じていた公士は、今回ばかりは狼狽を見せた。姉と兄を見上げる丸い目が、素早く行き来する。
そして少年は、彼なりの見事な解決策を思いついた。
「お兄ちゃんも馬安に来ればいいんだっ」
幼子は真剣な顔で栩麗琇那の腕を掴んだ。「ねっ、ねっ!? お兄ちゃん、ボクんチに遊びに来て」
「あぁ」
栩麗琇那は腕を取られたまま、腰を曲げて弟の目線に合わせた。「機会があったら行くよ」
「明日は?」
弟の発言に、隣の姉は目を丸める。栩麗琇那は目を細めた。
「俺も、公士と同じで学校が始まるんだ」
「あ――じゃ、今度の土、日に来て?」
「無理言っちゃ駄目よ、コウ」
傍観していられなくなったのか、琴巳が割って入った。「ここに来るまでどれだけ時間がかかったか、忘れちゃってるんでしょう。お兄ちゃん、来てくれても、遊んでくれる時間無いわ。月曜は学校だから、すぐ帰らなきゃいけないもん。大変じゃないの。我が儘はよしなさい」
「う……う……」
公士は目に涙を溜め、大人達を見た。訴えるように言う。「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、学校ないでしょ? ボクんチ、来て」
光乃は困り顔で頬に手をあてた。亘は、眉をひと撫ですると、ゆっくり言った。
「駄目だ。わたし達が馬安に行ったら、琇那が独りになってしまう」
「う……っ、く」
日に焼けた顔をくしゃくしゃにした公士を、琴巳が懸命な口ぶりで慰めた。
「又、連れて来てもらお? 又、夏休みに」
千鶴子が言葉を繋いだ。
「ん。連れて来てあげるよ、コウ」
「う――ふぇええん」
ぼふっと公士が突っ込んで来て、栩麗琇那はよろけながらも抱き留めた。片膝をつくと、ぽんぽんと背中を叩いてやる。しゃくりあげる耳元に、小声で話しかけた。
「いいか、母さんと姉さんを助けてやれるくらいになって、来年は公士が二人を連れて来い。できるよな?」
「っく……う……う……」
できる、と涙声を聞き、栩麗琇那は弟の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
妹弟は、煌めく夏と一緒に、九十五里を去って行った。




