ピアス
変わりたいと思った。
耳に穴を貫通させたら、そこから違う景色が覗けるような気がした。
錯覚でもなんでもいいから、心から変わりたいと思った。
「やっぱりダメっ絶対痛いっ。ていうか痛くないはずがないっ!」
「あのさー、往生際が悪いんだけど。ばちんって押すだけなんだから、目ぇ閉じてたら終わっちゃうって」
「でも血とか、ドバーって出るんでしょう?!」
出ないって、と言いつつヘラヘラと笑う友人たちには、やはり信用がおけないと朝子の本能が警告する。
友人の魔の手から逃れるべく数歩後ろに下がったら、ガタンっと机の角に手の甲をぶつけてしまった。
「うわぁ! ごめんっ町田くん」
机の上から落下したペンケースの中身が、派手に散らばった。拾おうと、朝子は慌てて床に膝をつく。
「いいよ、平気」
すっと床に伸びてきた手、器用に手首を返しながらペンを拾い上げる。
視界のすみに映った手は、指の部分が長くて、でも全体のバランスは崩れていなくて、骨ばっているんだけど肉もほどほどについていて、キレイだった。
見とれつつ、集めたペンケースの中身をそのキレイな手に渡そうと朝子が顔を上げたときだった。
町田くんの、サイドが少し長めの髪の毛がサラサラと流れて、一瞬あらわになった耳にきらりと光るものがあった。
錯覚した、かと思った。
口をぽかんと開けてバカ丸出しの顔をして、目を凝らす。
ぱちぱちとまばたきの間にも消えない光。
朝子の視線の先に気がついた町田くんは、慌てて上体を引き起こした。
二人の間にだけ、少し気まずい空気が流れた。
「朝子どうしたぁ?なに固まってんの。町田くんの勉強の邪魔するなよー」
「あー、ええっと……」
町田くんは苦笑いして、それからどうしようかなという顔をした。
どうしようかなとつられて思った。
「…… あの、町田くんの手が、あんまりキレイだったんで見とれてました」
けして嘘偽りではないことを白状したら、町田くんは顔を真っ赤に染め変えて背後に手を隠した。
周りの友人一同がどっと笑って、朝子いやらしいこと言ってんじゃないよ、町田くん困ってんじゃん。と。
「あー、ごめんね?」
朝子はかろうじて微笑んで、何事もなかったようにペンケースを返すのになんとか成功する。
いいよ、と町田くんが言った。笑っていた。
変わりたいと思った。
変われるかもしれないと思った。
耳に穴を貫通させたら。ひいきのブランドのピアスで塞ぐ前に。
(…… 町田くん、あのさ)
そこから見える景色はどんなだった?
聞いてみたくなったけど、今は髪の毛の奥に隠されていて見えなくなっていた。
* * *
やっぱりダメだ、と思った。
変わるために何が足りないんだろう。
席に座って、机の上に広げた色々なものを見ながら腕組みして悩んだ。
今の自分には何が足りないんだろう。
「あれ、八木沢さん」
朝子以外誰もいなかったはずの教室に、いつのまにか人の気配が増えていた。
「あれれ。町田くん。もしかして今まで勉強してた?」
授業が終わってからずいぶん経っていた。
手にした参考書を軽く持ち上げて、図書室でちょっとね。と町田くん。
町田くんは頭がいい。
休み時間も惜しまずに勉強していて、どうやら放課後も例外ではなかったらしい。
でも今はもう、頭がいいだけの人じゃないことが判明していた。
物事は先人にならえ、と言う。
「あのさー、何が足りないんだと思う?」
朝子は机の上を指差して、すがるように質問してみる。
町田くんは眉を上げて意外そうな顔をしてから、机の上に目をやった。
ピアッサー(ピアスの穴をあける機械)、消毒液、消毒液をたらすティッシュ(箱型)、涙が出たときようのミニタオル。
机の上を全部確認し終えた町田くんは少し笑って、勇気と両親への謝罪の気持ちかな、と言った。
「両親? 謝罪?」
「うん。せっかく元気に産んでくれた体に、傷をつけてゴメンなさい」
頭いい上に、それだけじゃない人に言われると妙な説得力がある。
勇気かぁ謝罪かぁ、と朝子は机にうなだれた。難しそうだった。
町田くんはまた少し笑って、教室を出て行った。
貴重な助言をありがとう、と背中を見送りながら思った。
「はい」
ことん、と机の上に足されたもの、久し振りに見た気がするこの赤いラベルはコカ・コーラに間違いなかった。
缶を置いた手はキレイで、この手についてさっき同じことを思ったなと。
「へ? コーラ?」
再び教室に戻ってきた町田くんは、朝子の前の席のイスを引いて腰掛けた。
こういう普通っぽいことも町田くんがやると新鮮に映るから不思議だ。
「うん。冷たいもので耳、冷やしておくといいよ。麻痺して痛みが薄れる効果あり」
朝子は驚きつつもお礼を言って、町田くんの言うことに間違いはないだろうと信用して、左耳の穴をあける予定の個所にコカ・コーラを当てる。
「あのさ、そんなに嫌ならさ。あけなきゃいいとオレは思うんだけど、単純に」
耳を冷やし続けている朝子を見ながら、会社のお得意先のご機嫌伺いみたいな控えめさで町田くんが言う。
「なんで、そこまでしてピアスの穴あけたいかな?」
「え、だって。ピアスってかわいいし。それに、自分に、ちょっとした変化がほしくて、単純に」
「そっか」
バカにしている感じじゃなくて悟りきった感じで。
穴あけて何か変わった? なんてわざわざ聞かなくても、今のそっか、からわかった。
そんなに単純なものではないらしい。
「あのさなんで、町田くんはピアス、したの?」
「あ、似合わないかな。やっぱり」
そう言って耳をおさえて照れた仕草が可愛くて、慌ててフルフルと首を振って否定した。いろいろ。
「ていうか意外。ピアスしてるのも。それ隠してるのも。やっぱり先生とか親にバレたら困るから?」
「うーん。先生とか親は別にどっちでもいいんだけど。本当は隠してるつもりもないんだけど。…… イメージは大切にしたいな、と思って」
町田くんのイメージというものを想像してみた。
頭がよくてみんなから信頼されている優等生で、可愛くてアイドルで。
「…… 町田くんのイメージ保つのは必要かも。ピアスなんて見たら、みんなびっくりしちゃうと思う」
だろ? と町田くんが 困ってるのか面白がってるのかわからない風に笑う。
ピアスした理由、上手くごまかされているのにそこで気がついた。
答えたくないのかもと思ったから最後にもう一度だけと思って聞いてみたら、案外あっさり教えてくれた。
「誕生日にピアスもらったんだ。だから、それで」
…… 誰からのプレゼントだったんだろう。
「町田くん、ものは相談なんだけど。これ、ばちんって押す役、引き受けてくれないかな」
ピアッサーは耳にセットして、軽く握るだけで簡単に穴があけられる、ホッチキスを耳にとじるような仕組みになっている。
「オレ?」
「うん。信用に値すると見た」
いいよ、と少し間を置いて返事がきて、机の上のピアッサーが手にとられた。
コカ・コーラでよく冷えた左耳を町田くんに差し出して、朝子はぎゅっと目をつむってその時を待った。
なんとなく手を、ごちそうさまのポーズにする。
町田くんに笑われた気がしたけれど、必死なので気にしないことにする。
ゴメンなさいゴメンなさい、と念仏みたいに繰り返す。
感覚のない左耳たぶに一瞬熱い温度がかすめて、かなり遅れてそれが手だと分かった。町田くんの手だった。
ばちんっと予告もなしに音がした。
「………… あれ?」
痛くない。
役目を終えたらしいピアッサー本体は机の上にことんと置かれた。
痛い? と聞かれて、素直に首を振る。
恐る恐る左の耳たぶに手を伸ばすと、ピアッサーの一部が貫通したまま残されていた。
「それで、これからどうすればいいの? オレ、ピアッサーって使ったことなくて」
「え。じゃあ町田くんは何であけたの?」
「安全ピン」
怖いこと、平気で言うのはやめてほしかった。
穴を安定させるために一ヶ月ぐらいこのピアッサー付属のピアスをはめて過ごさなきゃいけないらしい、と友人の助言をそのまま話すと、そうなんだ知らなかったって。
町田くんでも知らないことがあるんだと思った。
痛くないのがわかったから、今度はピアスのあるあたりをきちんと触ってみる。
(そっか。こんなもん、なのか)
朝子はふーんとため息をついた。なんだか力が抜けた。
身体に穴をあけてまで手に入れたものはたったこれだけで。
あっさりしすぎで、ちっとも実感がわかないのでしつこく触り続けた。
これで何か、変わったのか。
「八木沢さん、手……」
と言った声が、びっくりしていた。
なんだろう、と思って顔を上げたら、町田くんが目を丸くして続きの言葉を失っていた。
「へ? 手?」
ぬるっと、あんまりよくない効果音が朝子の耳のそばで鳴った。
ぎょっとして目の前に持ってきた指の先が、見事に真っ赤になっていた。
数秒後、うぎゃあぁという悲鳴が教室中に響き渡った。しっぽを踏まれた猫みたいな悲鳴だった。
じんじんと鈍感な痛みまで広がりだして、もしかしなくてもコカ・コーラ効果が消えかかっているんだと思った。
(痛い痛い痛いっ! 痛いような気がするっ)
血と痛みで軽いパニックに陥りながらも、涙でぼやけた視界のすみを、すっと何かが横切っていくのが見えた。
「…… 取れちゃったみたいだ」
そう言って開かれた手のひらの上に、小さな血の池ができていた。その真ん中にぷかぷかと浮かんでいるピアス。
「ど、どどどうしよう」
「待って。あとできるだけ落ち着いて」
町田くんは落ち着きすぎだよ、と思わず反論したくなる。
きょろきょろと床を見回したかと思ったら、転がっていたピアスの裏止めを発見した。ティッシュに消毒液を染み込ませて丁寧にそれを拭く。
「ちょっと痛いかもしんないけど、もう一度はめないとかないとせっかくできた穴がふさがっちゃうから……」
何のことを言われてるのか、よくわからない。
ろくに反応もできずにいたら、左耳に鈍い痛みが走るのを感じた。
朝子はもう一度、ごちそうさまのポーズをした。
「―― ごめん。痛かった?」
二度と開けたくないと思っていた目をゆっくり開けると、間近に町田くんの気遣わしげな顔があった。
弾みで零れた涙を拭おうとして、自分の手が汚れていることに気が付いた。
続けて一気に現実を理解した。
「うわぁ町田くんごめんっ血……」
町田くんの手の有様は、見えない自分の耳より酷いように思えた。
慌ててティッシュを渡そうとしたら、ああ、って町田くんは何でもない風に、学ランのすそで、手のひらをごしごしとこすった。
朝子の口はぽかんと大開きになった。
「ダっ」
そこでいったん大きく息を吸い込んで、肺に空気を入れ直す。
だ? と町田くんが先を聞いた。首を傾けて。
「ダメだってっ! 汚いって!! ていうかっシミになっちゃうって!!!」
朝子の悲鳴のような叫びに、町田くんがきょとんとする。
「平気、だよ? 少しだけだし、もともと黒いし裏地だし」
そういう問題じゃないんだ、町田くん。なんで問題にしないのか、町田くん。
もう痛みより何よりも、学ランについてしまった血がシミになってしまうことが気になった。
無駄かもしれんと思いつつ、すそを持ち上げてティッシュを押し当てる。ひたすら当てる。
自分の血が町田くんの学ランに残って、何かになるなんて恐ろしいことだった。頭のいい人の考えることはまったくもってわからなかった。
「それよりも自分の耳のほうを気にしないと」
町田くんの手がまた朝子の耳に伸びてきて、まだ乾かない血をすくいとっていく。
また学ランで拭き取ってしまってはいけないと思って、町田くんの手を掴んで何枚かティッシュを渡す。
渡そうとして、指の先が赤くなった手を見て、さっき同じことを思ったなと。
「学ラン洗わせてお願いっクリーニングに出させてお願い~」
「…… オレって八木沢さんにそんなに嫌われてんの?」
「そうじゃなくてっ」
なんて都合のいい忘れ方をしていたんだろう。
ぼろぼろと零れる涙はもう止まってくれる気配がない。
こんなときのために、と朝子が用意しておいた机の上のミニタオルを町田くんが手渡してくれた。ううう。
「八木沢さん、とりあえず少し落ち着いて。興奮すると血が止まらないよ」
落ち着いた声に反応して、朝子の顔がみるみる赤く染まり変わった。
それを見て、町田くんがまたきょとんとした。
耳に残った変化のしるし、後悔するには遅すぎた。
おしまい