忘却の列車
「これは私の叔母から教わったチャーム、おまじないなの。持つ者同士、本当に苦しい時に助けてくれるお守り」
親友の証だから、そう言って、彼女は私に黒い糸で編んだ円形の中に鳥が描かれているお守りを渡してくれた。
それをずっと身から離さず持っていた。私にとっては確かな自分を持つための証だったから。
目が覚めたら、私は電車に揺られていた。
断続的な振動と、心地よい一定間隔の走行音、長い眠りから起きた時のような気だるさが頭に残っていた。
外の景色はトンネルの中なのか真っ暗で何も映らない。通学時代の懐かしい感覚が、ふと甦った。
私はなんでここにいるんだっけ、ぼんやりとそう思い、目を細めて周りを見渡すと、不意に日が顔にあたり、窓の外に景色が広がった。
空が透けて見えるオレンジ色の雲、薄いウロコのように重なり合って空に模様を作って沈みゆく太陽の光がゆらゆらとゆれる。乗っている電車は鈍行なのか、ゆっくりと外の様子が流れていた。
夕暮れの田園風景、野球帽をかぶった男の子が土の道を蹴り、虫を追いかけていた。それに必死について行こうとする女の子、その後ろをついて走る小さな犬。手前では長袖にタオルを巻いたお祖母さんが麦穂を狩り取っていた。
路線がカーブを描いているのか、ゆっくりと角度を変えながらその光景を眺めることができた。
和やかでなんだかとっても微笑ましいのに、場違いな違和感がある。
私がいたのは都心の近くじゃなかったっけ、それなのに、随分と田舎な風景だな、そう思っていたら、次第に頭の中の霧が晴れて、はっきりとした記憶が私の頭中で形になり始めた。
私は確か、そう、通勤中に階段を下りていて、そしてブーツの靴底が滑って、肝心なところが思い出せない。
体をくまなく見回すけれど、どこにも、傷も汚れもない。
とすれば私はあの後何事もなく、無意識で電車に乗ったのか。
もしかして、あれからもう何ヶ月も経ってしまったのか、という焦りが湧いてきた。
理由は分からないけれど、もしかしたら通院時の記憶が飛んでしまったんじゃないか、そんな気もする。
急速に焦りが私の中で広がって、すぐに潮が引くように心の中に薄く広がり消えていった。
何故だろう、この音と景色がどういうわけか、私の気持ちを落ち着けさせているのか、けれど、決定的なことはまだ何も分からないでいる、だから今は何かの取り掛かりが得られるまで、心地良さに任せてこのまま電車に揺られているのも悪くない、そんな気がしてきていた。
電車の座席、私の向かいには疎らに人が座っていて、正面には風景の中にいる男の子と良く似た子が張り付くようにして窓に顔と手を当て、外を眺めていた。
なんだか泣きそうで必死に涙がこぼれ落ちるのを我慢しているように見えた。
私はその子のことが気になって見つめていると、男の子は窓に向かって小さく何かを呟いた、すると間も無く眩しい光に包まれて、反射的に瞑った目を開けると全てが真っ暗に変わっていた。
見えるものは何もなく、黒に塗りつぶされて、列車音だけが平然と続いている。
焦燥感よりも先に、これってなんだろうという曖昧な気持ちがふわふわと私の中で浮かんでいた。
不思議と恐怖は感じず、ぼんやりとした暖かさに包まれていた。
カタコトと続く走行音、じわじわと窓から溢れる光、そして再び景色が現れると、私の前にいた男の子は白髪のおじいさんに変わっていた。
セーターに編み帽子、茶色の冬物パンツ、暖かそうな格好で目に涙を滲ませて俯いている。
私はもしかしたら、さっきの男の子がおじいさんだったのじゃ、聞いてみたい、そう考えるけれど、そんな馬鹿なことって常識じゃありえない、そう思い直して聞くことを止めた。
窓に目を向けると景色は田舎の風景から一変して、都会のネオンが溢れていた。
ビルが並び、猥雑に並ぶ雑居ビルの中を平然と抜けてゆく電車。
突然「あれは……、ごめん、悪かった。俺を許してくれ」と私の隣で大声が響く、私は反射的にそちら側に顔を向けると、スーツ姿の男が、外に向かって独り言を繰り返していた。
彼の目線を追うと、電光のきらめく看板の下で、雨に濡れる赤いドレスの女性が、スーツの男性と言い合いをしていた。
観客席とステージ、そんなイメージが私の中に生まれる。
主役はあの二人、そしてこの列車は何故か二人を中心にゆっくりと走っている、有り得ないはずなのに、そんな考えが拭えない。
二人は表情を歪めてお互いに何かを言い合っている。
窓から遠い場所のはずなのに、走って流されてゆく景色の中で、その二人の表情は鮮明に私の目に焼き付いた。
男性は窓を拳で叩きながら涙を流して、言葉を投げかけることを止めようとしなかった。
雨が降り出して男性が女性をひとり残して、街の奥へと消えてゆく。
残された女性は下をむいたまま、ただ雨に打たれ続けていた。
二人の姿が窓から消えても、彼は目をつぶりながら窓から離れない。
窓の外が電源が落ちたテレビ画面のようにぶつ切りに消えて再び、明暗が繰り返される。
私は暗闇の中で二つの情景を思い返していた。どこか懐かしくて、物悲しくて、心が揺さぶられるひとこまの映像。自分とは関係がないのに、印象的なのは何故だろう。それを思ううちに、引っ張られるようにして私の心がざわめいて、忘れていた怒りや悔しい気持ちが滲み出した。苛立ちが形になると私は目を閉じていられなくて、我慢できずに開いてしまう。すると、夜は終わり、日の高い昼の景色が広がっていた。
三度目の風景の変化が展開されると、外はオフィスビルだった。
何故時間が飛んでいるの、その疑問も、ビルの中を目にしたら一瞬にして吹き飛んでしまった。
ビルの窓の向こう、デスクの前で誰かが上司に怒鳴られていた。とても違和感を感じて目が離せない。
固く強ばる表情、握られた拳。それでも女性は上司から目を逸らさなかった。
これは、なんだろう、何かとても見覚えのある風景だった。あれは、あれは私だ、私が部長に叱責されている。
当時を思い出す、けれど、何故叱責を受けていたのか、その理由を思い出せない。
外に過去の私の記憶が映されている、どうにかして隠したい、けれどその方法も分からない。
私が何か見世物にされている気がして、気まずさから席を立ち上がり、隣の車両へ移ろうとした。
逃げなきゃ、この車両で恥さらしになんてなりたくない。
立ち上がって初めて、私は電車の中はそれなりの人で賑わっていたことを知った、眠りから覚めてずっと、外ばかり気にしていたので、乗客までに気が追いついていなかった。
私のすぐ隣にも主婦に見える女性や先程の男性など、沢山の人が座っていた。
車内の光源の関係か、時々乗客の姿が薄く透けて見える。
まるで影みたい、失礼だけれどそう思えてしまうほど、誰もの顔から生気が抜けていた。
どこか上の空のような上場で天井を見上げ口々に小声で何かをつぶやいている。
吊革がゆっくりと揺れていて、荷物置きの部分にも、天井にも珍しく広告の姿がない。
行先には無機質なたそがれという文字が書かれていた。
普段なら気味が悪いと思うはずなのに、今の私は何も感じない。
そのままゆっくりと歩き、ドアに手をかけ隣の車両に向かっていた。
車両の切れ目に入ると再び、あの暗闇が訪れる、私は焦らず、次の車両のドアに手を当てて、開いた。
光が目の前で踊る。車両に同じように座る人々、私が空いた場所を探ろうと視線を泳がせていると、自然と外の風景が目に触れる、そこは教室だった。
パノラマに長く引き伸ばされた風景、放課後を匂わせる人の少ない教室、そこに女子高生が二人いて、何かを話している。私はその風景に再び既視感を感じていた。
このシーンは確かに私の中にある、いや、あったはずの光景だった。
話している内の一人は私だったから。そして、もう一人はシイ、そう、椎名紗奈だ。
彼女は高校生活でたった一人の友人で親友だった。
佐名優希、それが私の名前。勝気な性格は私が名前負けしないために幼い頃から作ったものだった。というより、丈夫な体格とそれに見合った身長から、それを演じているうちに、身に染まってしまったというべきか、一時は女の子をしてみたい時期もあったけれど、いつの間にか馬鹿らしくなってしまった。
当時私は中学時代から連合っていたグループに自然と溶け込んでいた。
けれども、ある日を堺にそのグループから決別して、シイの友達になった。
シイは大人しい子で、クラスの中でも全く目立たない存在、どんな学級にでも一人くらいはいるはずの、人見知りの激しい、影の薄い子だった。そう、私は思っていた、あの日までは。
胸がじわりと熱くなって窓際に近づきたくなる、そうして二人のよく見える位置に移ろうとすると、そこにはもう座席に両膝を立て、ぼんやり眺めている女子高生の姿がある、私は彼女を見て目が逸らせなくなる、そこにはあの日のままのシイが窓の外、教室の二人を寂しそうに見ていた。
「あなた、シイ、なんで」
私はいてもたってもいられなくて、シイに駆け寄ると彼女の肩に手を置いて、顔を寄せていた。
懐かしい、日溜まりの匂い。
シイは私の顔を見て驚くと「なぜ」と一言、唇から言葉をもらした。
「あいつってさ、いつも偉そうだよね」
放課後の教室、机や椅子に座った四人の女子が、気にもせず大声で話していた。
「そうそう、一人で気取ってさ、馬鹿じゃないっての。誰もお前のことなんて頼りにしてねーって」
私は部活中、忘れ物を取りに教室に戻ろうとして、彼女たちの会話を偶然聞いてしまった。
「格好つけすぎなんだよね。うざがられてるって少しは気がついて欲しいわ」
一言一言が私の心に突き刺さる、入って大声で怒鳴ってやりたいのにそれができずに、教室のドア裏に張り付いて突っ立っていた。
「しょうがないじゃん、だって女捨ててるし」
教室から聞こえてくるバカみたいな声が、私の耳の奥にじわじわと広がっていった。顔が火照って、無意識に歯を食いしばっていた。私だって好きでこんな体格に生まれたんじゃない、私が冗談でも女らしくするとキモイって即断するくせに。
「ちょっと後輩に人気があるからってさ、こっちが付き合ってやってるってわかって欲しいよ」
限界だ、そう思って廊下を走り出そうとした時、教室から出てきたシイと目があった。
私は気恥しさと、気まずさがないまぜになり、反射的にシイの手を掴んで廊下を走り出していた。
「ちょっと、佐名さん、痛い」
廊下を走り抜けてやっと落ち着くと未だにシイの手を握り続けていることに気づいた私は慌てて離すと、「ごめん」と一言謝る。
「気にすることないよ。私もずっと影でいろいろ言われてきたし、慣れればどうってことない」
私は泣きそうだった自分を誤魔化そうと、彼女の手を引っ張ってあの場から離れ、言い訳を必死に考えていた。
「ごめん、見なかったことにしてくれない、どうかしてたんだ」弁明する私にシイは言う、「佐名さんは、無理しすぎだと思う。もっと正直になればいいのに」じわりとにじみ出た羞恥心と怒りが再び私の中で爆発する。
「あんたに何がわかるんだよ。あたしの何がわかるって」気づけば私はシイの肩をゆすって、関係の無い彼女に当たっていた。
自分でも最低だってわかっているのに、当たりやすい相手だからって。
「わかんないよ、誰も佐名さんの気持ちなんてわかんない。でも私の気持ちもわかんないでしょ、私、なんて言われるか知ってる? 幽霊とか役たたずとか」
シイはそう言って私の頬を叩いた、一瞬何が起きたのかわからなかった。
そんな事されるはずがない、そう思っていた。私は、シイのことは何も知らなかった、知りたいとも思わなかった、その日までは。けれど私は知ることになる。シイも私と同じ、自分を隠して生きている人間だった。
シイは公園の椅子に座り、私に打ち明けた、「私ね、中学時代アメリカンスクールから転校してきたの。帰国子女って聞こえはいいけど、英語は話せても当時の私は日本語がめちゃくちゃだった」
私は結局、部活をそのままサボってシイと公園に向かって、ベンチに落ちついていた。
「文化の違いって、思春期には本当、問題になるものね」
シイは苦笑いの表情を浮かべる。
「気がついたらクラスで孤立していたの。最初は物珍しさから誰彼話しかけてくれたけれど、思ったことを口に出す、それが向こうじゃ普通だったのに日本じゃ違ったから。くだらない理由、それに言葉も少しおかしかった、それも原因かも」
シイは帰国子女が理由で目立ち、中学時代クラスで孤立させられたといった。
「だから、友達付き合いが面倒になっちゃった」
そう言って両手を上げて私に向かって笑顔を見せる。
「じゃあ、あたしも友達になれないかな」
彼女の顔を見ていたら、私はそう口走っていた。
「あたしももう、疲れちゃったんだ。無理してまであいつらと付き合いたくないからさ。向こうも迷惑してるみたいだし」
シイはそれを聞いて、「私の友達になるって、きっと大変だ、それでもいいなら」と笑った。
私は彼女のことが好きになった。
どうでも良かったクラスメイトが、その日以来親友に変わった。
あの四人にははっきりと決別を決め、次の日に付き合ってやってるって、誰も頼んでない、あんたらなんかに二度と頼んないよとはっきり言ってやった。
友達は減ったかもしれない、それでも、一人でも心から信用できる友人がいればよかった。
馬鹿にされても信頼できる人が傍にいるなら耐えられるから。
「ユウ、なんでここにいるの」
シイは、はっきりと私の顔を見てそう言った。
私はあの頃を思い出して、気が付けば口調も当時に戻っていた。
「あたしにもわからないんだ。この列車がなんなのか、どうしてシイがここにいるのかも。なんにもわからない、だから教えて欲しい」
シイは僅かに目をそらして「そう、ユウには列車に見えるの。私には違うものに見える、もしかして、私がユウをここに呼んだのかもしれない」
そう呟くように言った、窓の外の風景はいつの間にか違うものに変わっていた。
「ここはあなたの来ていい場所じゃない、ここはね、記憶を忘れるために来る場所なの。辛い記憶や忘れたい思い出、時折強引に下車する人がいるけど、殆どの人たちは一度乗ったら降りられない。ここにいる人達、みんな思ってるの、全てを忘れられたらって。ここで窓から記憶を投影させて、満足するまで眺め続けてる。満たされたら、忘れてしまうの。最後には自身も消えてしまう」
私はシイにそう言われて思い出していた。
いつだって張り詰めていた。
自分にできることを限界までこなす、私は人一倍不器用だから他人より頑張らなきゃダメなんだって、そうやって張り詰めさせていた糸が、時折切れそうになる。
寂しさを感じたとき、疲れに押し流されそうになった時、失敗を重ねてしまった時。
最近はずっと眠れない日が続いていた。仕事の緊張が自宅でも途切れなくて、効かない薬を少し増やした、朝、無理に体を起こして家を出る。
人の波に押されて階段を降りてゆくとき、全て忘れてしまいたい、確かにそう思った。
「でも、それはシイだって同じじゃない。ここにいるってことはシイだって」
少し黙り、すぐに私は言い返す。
シイは俯いて、「ごめんね、約束は果たせなかった」そう呟いた。
卒業の日、シイは専門学校へと進んだ。
日本語を覚えるために読み始めた本が、彼女の好きなものに変わり、文章を編むことを仕事にしたいと願ったシイは、文字に係わる仕事がしたくてそちらに進むといっていた。
私は大学に進む、二人とも高校を卒業したら夢を実現して一人で生きていける強さを持とうと、そう約束を交わしていた。
高校時代はお互いに頼りあっていたから、お互いにその弱さが嫌いだったから。だから、完全に独立して歩けるまで、お互い会わずに、話さずにいようって。
「どういうこと、果たせなかったって。シイが諦めるなんてありえない」
シイは遠い目をする、僅かに体が透けて見えた。
「ごめんね、あれからすぐに親の会社が倒産して、ユウの知っている私はもう、死んでしまった、なんどもシイに話そうとしたけど、あなたの夢を邪魔したくなかった、だから私は自分を殺す事にしたの。全てを忘れてしまおうと、そうすれば私は悲しまなくていい、あなたも悲しまなくて済むから」
どうして、そう思うけれど、声に出せなかった。
「でも、忘れられなかった。ユウの事だけは忘れられなかった。他の事はもう、全て忘れて何も思い出せないのに、ユウの事だけは忘れられなかった。だから、だからきっと私はユウの事をこの場所に呼んでしまった」
シイはそう言い切って、私に向かい合った。
違う、そうじゃない。
ここに来たのは私の意思が弱かったからだ、けしてシイが原因じゃない「違うよ、シイのせいじゃない。これはあたしの責任だから、私だって約束守れそうにもない、だから、いつかここに来ていたはずだよ、いいじゃない、二人揃って同じだったんだ。だからあたしもシイとここでずっと一緒に」
私はつい、悲しくて弱音を吐いた、シイは瞬間、私の頬を叩いた。
「私がそれを望んでるって思っているの、本当にそう思ってると。良い、ユウは私を忘れて、そうすればきっとここに閉じ込められない。あなたは絶対、戻らなきゃいけない。もう、向こうのことを忘れ始めているでしょう、私は今更だけど解った、失って良い記憶なんて何もないって。でも私はもう遅い、だからユウだけでも」
忘れている、そんなはずない。何も忘れてなんかいないはずだ。
言葉を失っている私をよそに、シイは席から立ち上がると顔を歪ませて、食い下がる私の必死で私の手を引き、列車の側面のドアの前に立ち、指を間に挟むとドアを強引に開いた。
列車が戦慄いた、ドアが開くと列車は白と黒の混じり合う得体のしれない糸の塊に変わった。
違う、黒い糸に白い光が疾っているんだ、これまで窓の外に展開されていた景色はドアの外には何一つなかった。
列車の周りに暗色の雲がトンネル状に巻いて、はるか遠くまでうねっていた。
気の遠くなるほど奥まで続く穴、そこを白と黒の糸の塊がゆらゆらと揺れて走ってゆく。
私の手を引くシイの体に列車と同様の白黒の糸が巻きついていた。
シイはもう輪郭しか解らない、「良い、以前ここから逃げだした人がいたの。結局戻ってきてしまったけど、その人、忘れる前に私に教えてくれたの、飛び降りて呼び寄せた人を忘れられれば逃げ切れるって、ユウは私のことを忘れなきゃだめ。それに、あのお守りも捨てて。次にはもう私はここにはいないから、必ず覚えておいて」
シイの輪郭がそう話す。
「そんなのおかしい、シイもここから出なきゃ、あたしだけじゃだめでしょう」
私の言葉を聞いてか聞かずか、彼女の姿をしていたものは、私にも抵抗できないほどの力で私を背中から押した。
そして私の足に絡みつく繊維質な黒をその手に握り、私を列車から押し出した。
私は落下し、足から引きちぎれる何かの感触を感じながら、遠ざかってゆく手を振るシイの姿をただ、見ているしかなかった。
白い天井には気泡のような模様がついていた。
私は全治二箇月のケガを負って病院に運ばれたらしい。
頭を打って意識を失っていたようで、数日振りに目覚めたら、ここ最近の一年間の記憶、自分が通勤で何をするためにどこに向かっていたのか、職は思い出せるのに、同僚や上司の近況についてなど、様々な事を忘れてしまっていた。
それでも大切なことはまだ、私の中に残っていた。
あの不思議な列車の中で見た夢は、ただの夢だとは思えない。
シイはあの夢の中で言っていたとおり、親の関係で専門学校をやめていたからだ。
その後の足取りを調べたけれど、連絡先も変わってしまってわからなくなっていた。
けれど、私は信じている、きっと彼女はどこかで生きていてくれると。
シイが捨てたのは私との思い出だけだと。
時折、私は夢を見る。私の腕に白い鳥が留まる夢、鳥は腕から離れると空に立つ灰色の雲の壁へと飛び立って、稲光をあげ雲を裂き、暗闇のトンネルに光を与えに翔んでゆく。
あのお守りは今も捨てずにいる、意識を取り戻してから、お守りの色は黒から白へと変わっていた。
きっと彼女が私を救ってくれたんだ、そう思って信じている。
そうすればいつか、いつか必ずまたシイに逢える、そう考えられるから。