塞鎖の幻影
さあもう一度、自分語りを始めよう。
あれから何日経ったのか、俺には昼夜や時間の流れ、日付を覚えられた当たり前の日常ですら、忘れかけた遠い日の思い出だ。
前に横たわる当然のようにある死が、圧倒的に広がりつつある脅威こそが、俺に唯一時間が過ぎている事を教えてくれた。あらゆる形での死が折り重なり、命運が定まりつつある。
餓死、狂死、自死、自然死。希望はとても稀薄だというのに、結局行き着く場所は変わらないというのに、俺は未だに外に出られると信じている。それが、ここに倒れ朽ちゆく、数々の死体と俺との違いだ。
希望がなければ人は生きられない、魂の綱を支えているのは唯一、外の光をもう一度浴びることができるという願い、それだけだ。
もう、この目は死体以外、何も映さなくなって久しいというのに、どうかしている、そうだろうか。
独り言はおかしな奴がすると、外にいた頃の俺なら言っただろう。
だが、世界に自分一人しかいなかったらどうだ、自分が狂っていないと知るには自分に話しかけるしかない。
こうでもしていないと、本当に壊れてしまうからだ。
だからこそ、今も俺は、これが現実だと知るために、俺自身に話しかけている。
現実感はとうに喪失していた。身の回りのものが見えないというのに、自分の死骸の状況だけは事細かに知ることができるからだ。
もう何十年とこの地下から脱していない、空間がそれ程広くないので、どこに何があるのか、それは感覚で把握しきっていた。
見えなくても物がつかめ、道具を使え、食べ物を食べることもでき、飲むこともできる。
見えなくても生きることには事欠かない。しかし、なぜ俺がこんな状況に陥ったのか、なぜ俺が自分の死体を見えるようになったのか、己の記憶が正しいと証明するため、存在がまだここにあると自分自身で確かめなければならない。
外の記憶、当時の思い出はもう、夢の中の現だ。
揺れる水面の上に映る、儚い風景。俺には家族がいた、女房と娘、それに息子だ。
田舎から出稼ぎに来ていた俺は、闇市で稼いでいた。当時は一日折に、食べ物の値が上下したため、一日で大儲けすることも、その逆もあった。戦後で、品不足だった日本は、それはもう悲惨なもんで、米が食えるのは相当な財産持ち、粟やひえですら食えたら満足の時代だった。
俺は幼い頃から毎日、芋ばかり食っていた記憶しかない。商売品に手をつけるわけには行かない、僅かな贅沢を我慢することでいずれ大きな蓄えとなる、親共々そう信じていたからだ。
主に俺は横流しの仕事を請け負っていた。田舎から仕入れた品を都会まで運び、それを高値で売る仕事だ。
魚干物に野菜干物、餅や煙草、そういった日持ちするものを要点に、脚を棒にして売り歩いた。
明けても暮れても家族に会わず、身を粉にして働いて、そうしてやっと手に入れた一軒家を、ある土地売りに騙されて買わされ、不意にされた。
そいつは混乱を良いことに二重に家を売り捌き、結果的に高い金を払った男に家を売り、前払いした俺の金を払い戻さなかった。
地元の地回りと仲が良いことを利用して、俺の金払いを無いことにしやがったんだ。
俺はそれで怒りに狂って駄目になっちまった。
仕事は止めなかったさ、だが、家より復讐が優先だった。
毎日がそいつへの復讐をどう成功させるかに当てられ、女房も子供もどうでも良くなっちまってた。
数年過ぎても悔しさが忘れられず、女房子供に怒りを向けることも少なくなかった。それでも愛想を尽かさずにいてくれた家族の好意を、俺は無にしていた。
隙を見つけられず幾日も無駄に時が過ぎ、燻り続ける恨みの感情に遂に火がついた。
俺は流れ者を装い、隙を見て俺はそいつを殺そうとしていた。
そうしたある日、そいつが地下に珍しい建物を作り始めたって噂を聞いた。
聞いてみりゃなんでも何十年も外行き無しで暮らせる、地下の穴蔵だとか。
嘘みたいな話だが、それならそいつを奪っちまおうと決めた、俺はそいつの留守を狙って地下の鉄の扉に身を滑らせて入り込み、中から蓋を閉じた。
今思えば、そんな復讐なんぞしないで、家族の元へ帰りゃ良かったんだ。
負け犬でもなんでもいい。金なんぞいくらでも稼げたんだからな。
これは俺がそうしなかった罰なのかもしれねえ。それにしたって、神さんも酷いもんだ。
こんな地獄よりきついお仕打ちを俺にくれるなんてな。
俺は数日そこに隠れて奴の悔しがる姿を見たいだけだったんだ。
金さえ返してくれりゃ、俺の怒りは収まるはずだった。
こうした機会がなけりゃ、殺していたかもしれないが、隠れてみりゃ、中は快適だ。数日留まって、奴の謝罪さえ貰えりゃそれでよかったんだ。ところが、奴は外から扉を塞いじまった。
奴は毎日閉じ込めた俺に話しかけた。奴の声は天井の僅かな官から聞こえてきた。
外の世界がどれだけ素晴らしいか、今日こんなことがあった、こんなうまいものを食べた。
そんな言葉を聞いて俺は壁に怒りで拳を叩きつける。
数実過ぎる頃、何故俺を殺さないのかと気になり始めた。
この空気の管を閉じてしまえば俺を殺すことは簡単なはずだ。
空気が入り、そして出てゆくどちらかの管を。しかし、それを閉じないと知って逆に奴が俺を苦しめるためにそれをしているのだと気がついた。
ある日俺に奴が直接言ったからだ。お前がその穴蔵の中で苦しみ、死に果てるまで出すつもりはないと。
暗がりの中、明かりは蝋燭のみで暮らす毎日。当時珍しかった缶詰の中には煮潰した貝や小麦の煎餅などが入っていた。
他にはビタミンと書かれた薬剤、丸薬、包帯、水はでかい槽に十分にあり、奥には用をたす空間も用意されていた。
奴の声を聞くことが生きる支えになるとは認めたくはないが、事実それだけが俺が時間を知るための唯一の手段だった。
数ヶ月経つ頃には俺の精神はずたぼろだった。
独りだということがこれほど辛いとは思ってもみなかった。やがて、全てがどうでも良くなり、反応が薄れてきた俺に対して奴は、話しかけることを止めた。
それから数時間してからだ。俺の目の前で、壁に頭を打ち付けて死ぬ俺がいた。
数時間後、刃物で首を切り裂き死ぬ俺を見た。死体は床に残されたままだ。
足先に二体の自身の死体、俺は恐ろしくなり壁を叩いた、血が滲むほど叩き続け、気が付けば二体の死体は消えていた。
それから毎日だ、気が付けば目の前に死体が転がる。その頃は自死ばかりだった。
角に頭を打ちつけ、強引に死ぬ俺。或いは狂い、笑い続ける俺。
それらは到底我慢できるものじゃない。だから俺はそいつらが現れる度に壁を叩いた。
時には叩いても消えないことがあり、また、叩き始めで瞬時に消えることもあった。
俺はその理由がわからず、長い事苦しんでいた。
だが、あのままずっとこの幻覚が現れることもなく、一人で居続けていたら、とっくに俺は壊れていたのだろう、しかし、自分の死に姿を見せられて喜ぶ奴などいるか、いるはずがない。
そうしている内俺はある事に気がついた、奴だ、俺が壁を叩き、奴が上で笑うと俺の死体が消える。
何が起きているのかは俺にはわからない、だが、奴が俺の行動を把握することで、俺の死体が消えるらしい。
逆に奴の反応がいつまでも確認できなければ俺の死体は増え続け、消えることがない。
いつしか俺は常に壁を叩くようになっていた。
意識がある間は常に、腕や拳の形が変わり始めても、俺は自分自身の死体に埋もれたくはなかったからだ。
それから長い時間が過ぎ、再び変化が訪れた、突然空気の管から加工音が響き始める。
俺は浅からぬ期待が心の中で生まれるのを感じた。
閉じ込められてからいく度もなく繰り返されてきた幻視、この頃には一度に数十躰の死が俺の前に現れることも珍しくなかった。しかし、何度見ても慣れることがない、蝋燭を失って、目から光が失われてからも、俺には奴ら、死体の姿がはっきりと知れたからだ。
目の裏に映るというのか、前にも後ろにもどこにあっても四躰の姿を感じることができた。
やっとこの暗闇から、この地獄から解放されるのか、そう思ったのも束の間、変化と言えば奴の声が遠ざかり、聞こえなくなっただけだった。
もう、どれだけの時が過ぎたのかわからない。
起きているのか眠っているのか、よくわからないような微睡みの中で、かつての家族の記憶、恨むべき奴の顔、重ね続けてきた後悔の重さをこの身に感じ。
懐かしみ、感情がまだ俺の中に残っていることを確かめる。
時間の経過は既に意味をなくしていた。
それでも俺は壁を叩き続けた、自分が生き続けている、その実感を得ることがそれ以外にできないからだ。食べ、飲み、眠ることも既に苦痛になりつつあった。
叩き、幻影を消す。それだけの時間、その状常が突然終を告げるとは思いもしなかった。
いつしか、幻影が消えなくなっていた。
倒れ重なり合った俺の死骸は二重三重、やがて混じり合いわからなくなる程になる。指や腕を齧り、穴だらけの俺、体の造りが変わり、化け物のように変わり果てた俺、遠い日に物に変わり芋の干物のような俺に、溶け、腐りかけの俺。
様々な状況での結果が同時に映り、今ではただの汚泥のようだ。四方を死骸に囲まれ、俺は自身の死骸の沼を渡り、物を食い、排泄し、壁を叩く。何のために叩いていたのか、なぜここにいるのか、それすらも遠い記憶の中に埋もれて、この幻影の中で溺れてしまいそうだ。
俺は本当に生きているのか、この中の一つの一つの死骸に過ぎないんじゃないのか、違う、違うはずだ。叩け、壁を叩くんだ。たとえ幻影が消えなくても。
それに俺は、自分がここにいる証拠を自分自身で確かめなけりゃあならない。
さあもう一度、自分語りを始めよう。