終りの予兆
外は雨だった。曇りガラスに二重に映る滲んだ顔を見ながら、私、有理は後輩の川崎、彼女の話に耳を傾けている。
「もう、どうしたらいいのかわからない」と電話越しで叫んでいる後輩をなだめ、要領の得ない話の内容をどうにか纏めようと躍起になっていた。
こんな時に厄介な話を持ち込むとは、さすが川崎だなと私は苦笑しながらも、ゆっくりと時間をかけて川崎の動揺を解いてゆく。
どうやら声の質からすると、すでにだいぶアルコールに呑まれているのか、発音がおぼつかない。唇の動きが緩慢になっているのだろう。そして、「先輩、ありがとうございます。聞いてくれるって信じてました、そしてどうかおかしいとおもわないで、私の話を聞いて下さい」と必死に私に訴える。
やれやれ、手のかかる後輩だと内心気が滅入っていたが、なんとか彼女を立ち直らせ、無事に自信を取り戻させなければならない。
「私は知らなかったんです。誓ってごく最近までこんな事があの家で起きていたなんて、知らなかったんです、誰にも話さないつもりでいました。これからそれを語ってしまえば、先輩はもしかしたら、私が狂っていて、ありもしない妄想を抱いているだけなのだろうって、思ってしまうかもしれません」
未だに回りきらない呂律から、後輩の半眼で眠たそうにしている顔が思い浮かんだ。けれど、会話の端から彼女が話したい事柄は只ならない内容なのだなと察する事はできる。
いずれにしろ、酒にあまり強くない川崎がここまで酔ったわけ、それは特別な意味を持つ何かが彼女に起こったからに違いない。
「それでも私は、誰かにこの話をせずにはいられない。もう、一人では耐えきれないんです。これまで先輩、私のこと信じてくれたじゃないですか、だからもう、話す相手は先輩しかいないんです」
川崎の声に触れてふと思い出す。
これまでに川崎は稀に通常ではありえない体験をしたといっては私に話していた。
それはなんだか突拍子もない体験なのだけれど、リアリティが伴っていて、どこか空恐ろしい、そんな体験だった。
例えば、取引先の重役が癌の治療を受けるため入院中、会社から見舞いへ行けとの令が出た際に、眠っているはずの重役の声を、部屋に入る前に聞いたといった、勘違いのような他愛のない話だ。
しかし、囁かれる声の内容が恐ろしい、部屋の扉を前にした途端、彼以外無人の部屋から「俺の死体が見える」と、聞こえたという。
その時は本当にその重役が亡くなってしまい、随分と驚かされた。
どうやらそういった声を聴くことが川崎には度々あるようだ。
だが、声を聴いたからと言って必ず示唆された未来が訪れるわけでもなかった。確率的には五分五分程度だ。
私は、それはきっと彼女の鋭い勘からもたらされる予知なのだろうと考えていた。
不思議なのは彼女がそのことを記憶している時と、していない時がある事だ。
次の日にあれは恐ろしかったと川崎に私が話しかけると、その事実自体が無かったかのように覚えていない。
そして不思議な事に私も、次の予知を耳にするまでの間にそれらに関する記憶が、いつの間にかすっぱりと消えてしまっていた。
川崎自身は気がついていないだろうけれど、そんな事が彼女にはあるのだ。
「分かった、分ったよ。じゃあ、聞いてあげるからそんなに急がなくても良い、とりあえず何か水でも飲んで落ち着いたほうがいい、このままじゃ聞きたくても内容が聞き取れないよ」
「分かりました、少し落ち着こうと思います。ちょっと待っていて下さいね、切らないで下さい、本当に最後まで聞いて下さい。お願いしますよ、先輩」
とにもかくにも落ち着かせなければと考えた私は彼女に水でも飲ませ、一度時間を置き、彼女に冷静さを取り戻させる。
電話越しで数度、喉がごくごくと音を鳴らすと川崎は無言になり、僅かな間、静寂が訪れた。
私は頃合いを見計らって、彼女が眠りの側に落ちる前に話の先を聞く事にした。
「少しは落ち着いたかな、それじゃ、話してみて」
「ごめんなさい、先輩。私ちょっとどうかしていたのかも……、やっぱり話すべきじゃないのかも知れません……、でももう今を逃したら話せない、そんな気がするんです、聞いて下さい。私、もう気が変になりそうなんです」
彼女は論理的で聡い、いわゆるやり手のキャリアウーマンだった。それだけに私は、普段冷静な川崎からは考えられないほどの動揺をその言葉運びから感じていた。何が一体彼女をこんな状態まで追い詰めたのか。
「どうしたの、川崎らしくもない。気が済むまで聞いてあげるからゆっくり話してみなよ」
「はい……、発端というか、きっかけは結構前になってしまうんです。私が今住んでいる所、先輩は知っていますよね」
それなら以前、聞いたことがあって知っていた。
彼女の家は資産家の叔父が暮らしていた住居だった。
戦後、継ぎ接ぎの仮家のようなあばら家が乱設されていた時代から彼女の叔父はそこに住み、やがては財を成してそれなりの邸宅を築いたのだそうだ。けれど一年前その叔父が亡くなられて、彼女の家族がその家を遺産として受け継いだのだと聞いた。
彼女の両親は既に慣れ親しんだ家を持っていたため、川崎とその弟さんが職場の立地条件からそちらの方が近いからと叔父の家に移り住んだ、確かそんな話だったはずだ。
「知ってるよ。叔父さん、建物の設計や不動産業で稼がれたのだったかな。一年前お亡くなりになったんだとか。その叔父さんの家に今、川崎と弟さんが住んでいるんでしょ」
「ええ、そうなんです。初めは二人とも広い家に移り住めた事に大喜びだったんですけど、不思議ですよね。前に家族四人で暮らしていた手狭な実家時代の方が便利に感じてしまって、ああ、すみません、話が逸れましたね。最初に気が付いたのは弟だったんです「アネキ、地下の車庫さ、あそこに行くと偶に変な音が聞こえないか」って。なんだか、空のパイプを叩くとゴンゴンって音がするじゃないですか。そんな音が車庫で聞こえるっていうんですよ」
それだけでおかしいとは言えない、以前友人がマンションで深夜に自室の壁から怪音がすると恐れて、管理側に苦情を入れたことがあった。しかし、音の原因は水圧が変わることによってパイプの中で負荷がかかった時に起きる音だったという、下らない結果を聞いていたからだ。
「それはでも、変わった話じゃないよね。下水管が詰まれば、偶にそういう音がする事あるじゃない」
「はい、私もそう思って別の日に車庫に降りてみたんです。最初は弟のいうような音だけだったんです。でも、そのうち時間が経つにつれてなんだか人の声みたいな、囁きみたいなものが聞こえはじめたんです」
本当にそれが真実ならとんでもないことなのだけれど、詳しく聞きもせず全てを軽率に信じるわけにはいかない。もう少し具体的に掘り下げなければ。
「本当なの? それって川崎の怖いとか、寂しいとかそういった気持ちから聞き間違いをおこしたとかじゃなくて?」
「先輩、馬鹿にしないで下さい。私だって最初は気のし過ぎだって、そう思ってたんです。それに只音がするだけならそれ程問題ないじゃないですか。言われなければそれ程気にならない程度ですし。だから私も弟に気にする事ないよ、別に何かあるわけじゃないでしょうって、それだけ言ってずっと放っておいたんです」
確かに何もそれ以外に実害がないのなら放っておいても問題はない気がした。
「なるほど、なら別に問題ないんじゃないの?」
「ええ、でも、それから数か月して、叔父の書斎を掃除した時でした。叔父の書斎には沢山本が並べられていたんですけど、亡くなった時にその殆どは売り払うか、他の親せきがみんな持って行ってしまったんです。だからがらがらの本棚だけ残されていたんですけど、その本棚を弟と二人で移動させた時、足の部分に本一冊分の厚さの、幅の広い抽斗が有るって事に気がついたんです。動かした際にその空間が開いて、中から本が数冊出てきて」
不謹慎だけれど、私はそれが何か面白そうだと思えてしまった。川崎の叔父が隠していた何か。
隠すくらいなのだからきっと自分以外、他の人間には知られたくなかったのだろう。
他人の秘密を暴きたいという好奇心、そういった欲求は誰にでもあるはずだ。
「それって何かいかがわしい本じゃないだろうね」
「違いますよ、何ていうか手帳っていうんでしょうか、文庫サイズの日記帳みたいなものでした」
とすると、彼女の叔父が書き残した日記だろうか?
「それって日記とは違うの?」
「はい、私もそう思って、でも叔父はその手帳とは別に日記を書いていたんです。現に私もその存在を叔父の葬儀の際に見ていましたし。叔父の日記は一冊残らず、棺の中に入れて燃やしてしまったんです。でもそれ以外に別に叔父は何か手記を書き残していたんですよ」
なるほど、きっと人に知られたくない内容だけ、他の手帳に書き記していたのだろう。
「私も弟も驚いて中に目を通すかどうか悩みました。最初はやはり、兄弟の父に見せるべきじゃないかってそう話し合っていたんですけど、でもお互い手記を目の前にしたらやっぱり我慢ができませんでした。父に渡してしまえば私達で内容を確かめる機会は失われてしまうんじゃないか、それならこっそりここで見てしまおうって、そんな勢いで中を開いてしまったんです」
それは仕方のないことだと思う。同じ立場だったら私も読んでしまっていただろう。
「それで、中に何が書かれていたの?」
「私達、日付の新しい手記から読んでいったんですけど。それがおかしいんですよね。例の地下室のパイプの音、その回数を何故か手帳に毎日記してあったんです。そしてその後に一言ずつ、コメントが書かれていました。例えば、「まだ現存」「今日は遅い、先週よりずれ」「あれからすでに三十年経つ、いつまで持つ」そんな感じでした。何の事かさっぱりでしょう? けど何か気味が悪くて」
現存、ずれ、いつまで持つ? 何かの機械的な実験? 彼女の壁には何か装置でも取り付けられているのだろうか。
「だから私達、原点に立ち上れば何か解るんじゃないかってそう考えて、一番古い手記を調べてみたんです、そしたら……」
そこまで言って川崎は押し黙ってしまった。そこから先がこの出来事の肝なのだろう。
「そこで黙ってしまったら私には何も解らないよ。別に無理に話して欲しいとは言わない、でも私はこのままじゃ川崎にとっても良くない事になると思う。誰かに話せば、きっと楽になる。誰にも洩らさないから話してもらえないかな」
私は別にこの先で川崎が話を止めても問い詰めるつもりはなかった。
けれど今回の彼女には話そうとする堅い意志が感じられた、恐らく私にとっても彼女のその意志を汲めるのは今回限りだろう、だからこそ私は川崎に話の先を続けてほしかった。
「私、先輩を信じます。そんな手記を書くことになった理由が色褪せた、一番古い物の中に書かれていたんです。叔父は生涯、結婚も恋愛も一度もしていないような人でした。信用できる人がいなかったのか、それとも別に理由があったのか、結局死んでしまうまでわからなかった。けど、今になって何故叔父は結婚しなかったのか、その理由がわかりました。いえ、解ってしまったんです」
「それってどういうこと?」
川崎の叔父は何か特別な趣味でも持っていた、それで結婚を敬遠していたのだろうか。その答えはこれから明かされるのだろう。
「叔父が今の家を作ったのは二十年ほど前だったんですけど、それより前に同じ土地に住居を構えて住んでいたことは先輩もご存知ですよね」
「ああ、確か戦後すぐからずっとその土地暮らしをされていたとか」
「そうなんです、以前は平屋に住んでいたんですけど、叔父はある程度のお金が溜まるとすぐに特別な建物を作ったみたいなんです」
「特別な建物って何? それが地下の音に関係するものなの?」
「はい、叔父は戦争を経験していたから、もしかしたら再び戦争が起こる事を恐れていたのかもしれません。そんなこと有り得ないのに。それで当時はまだ珍しかった地下シェルターを作ったんです」
「地下シェルター、それって全体が独立した建物の?」
「はい、何十年分の食べ物や水、ろ過装置やメタンガス制御装置、排せつスペースなどをそなえた地下シェルターを建設したのだとか。叔父はもしかしたら、その中でずっと余生を過ごすつもりだったのかもしれません」
なるほど、けれど何故彼はその中で暮らすことができなかったんだろう。
現にその後、同じ場所に別の家を建てて暮らしていたようだし。
「何で、夢の地下暮らしを止めてしまったんだろうね」
「それはですね、先輩。叔父が家を留守にしている間、浮浪者が中に入ってしまったからなんです。その人、叔父に何か恨みを持っていた人らしくて。そのシェルターって中からハンドル式の扉を閉じられてしまうと外からじゃ、焼切る以外どうにもならなかったらしいです。叔父はすぐにその人に何度も出るように外から説得したそうなんですけど、数日が過ぎるころにはすっかり叔父も怒ってしまって。通気口以外の入り口を全部コンクリートで塗り固めてしまったみたいで」
「まさか、それじゃ」
「そうなんです、ずっとその人、シェルターに閉じ込められていて、それを確かめるために叔父は手記を取っていたらしいです。一年経つ頃、通気口から助けてくれ、開けてくれって声が聞こえたらしいんですけど、それでも叔父は許さなくて、あまりにその声がうるさいものだから、通気口に防音壁を取り付けて柱にカモフラージュして、その工事を誤魔化すために新しい家を建てたって、そう書かれていました。実はあの家、ほとんどが叔父の手で作られているんです。元々設計の才能があった人みたいだから。それで叔父の死後もきっとあの家の地下にはそのままその人が閉じ込められているんじゃないかって。地下駐車場の壁の奥にそのシェルターが隠されているそうなんですけど」
焦ったように早口で一気に川崎はまくしたて、最後に震える声で一言をつないだ。
「私はそのシェルターの扉を開けるのが怖いんです、もうとっくに中の人は死んでしまっているかもしれない。そうしたら私の聞いた声はいったい」
彼女の叔父さんは確か五十代で亡くなったはず、とすると三十年以上、いや四十年近くその人は閉じ込められている事になる。けれど、閉鎖空間でそんなに人は一人で生きながらえるものなのだろうか?
「川崎が開ける必要ないよ。でもどちらにしてもそれは警察に伝えた方がいいかもしれない」
「でも先輩、もしかしたら叔父の妄想かもしれません、地下の壁を壊しても何も出てこないかも、私の聞いた声だってもしかしたら、幻聴かもしれないじゃないですか」
「それでも今のままよりましじゃないか、そんな不安を抱えながらじゃこの先、川崎はやっていけないでしょう、どちらにしても川崎には罪はないよ。何も知らなかったんだから」
ここまで川崎から話を聞いて私はある事に気がついた。
もしかしたならば、シェルターの中の彼の臨界点が現在なのかもしれない。
私は少し前に気がつき、考えていた仮説を川崎に話す。
「川崎はさ、シュレディンガーの猫って理論知っているかな」
突然振られた話に戸惑いながらもなんとか彼女が答える。
「何で突然そんな話になるんです、先輩私の話、信じてないんですか」
「悪い、でもしっかりと関係する話だから」
「知ってますよそれくらい、量子論の話ですよね。観測者が観測しない限り、閉鎖空間では観測点は様々な状態で流動的に存在しているって、そんな話じゃなかったですか?」
「そうだね、同確率で死んでいる猫と生きている猫のどちらかが結果として現れる場合、箱を開けて結果を外の人間が観測するまでは箱の中に重なった状態で猫が存在している。それで、ここからなんだけど。私はこれまで川崎に不思議な力の先にある結果を知って、ある事に気が付いたんだ。川崎の予見、あれはきっと」
「それって、あの当たらない予感の話ですか」
「違う、川崎の予見は五分五分で当たっている。ただ、当たった時のみ川崎が予見したことを忘れてしまっているんだ、なぜそうなってしまうのかは、どうなのだろう、きっと川崎の中で生存本能のようなものが働いているのかもしれない。覚えていたらきっと川崎は生きていくことが辛くなるから」
「え、でも当てた事なんてこれまでに一度も」
「以前、ある会社の重役が入院中に挨拶に行ったことがあったでしょう、その時も川崎、予見してたんだ。彼の場合、きっと病室の中に死んでしまう彼と生き残る彼が拮抗して重なり合い、ぶれた状態で存在していたんだよ」
「うそ、ですよね。私何も覚えてないです」
「多分川崎の周りの人達は優しい人が多いんだよ、皆川崎の事を大切に思っているんだろう。だから敢えて強く言わないんだ。そこで、一つの仮説にここで辿りつくんだよ。条件は、観測者が存在しない死角に観測点が存在する事、観測点が生か死かの際に存在している事、その二つだ。その二つが揃う事で川崎は声を聴くことができる。重なり合った観測点の声を」
これまでに川崎から聞いた話は全てその条件を満たしていた。
面接ブースの中で心臓発作に苦しむ同僚、トイレの中で脳溢血に陥った課長、駐車場のトランク内の赤ちゃん。
彼らの声を聴くたび川崎は恐怖していた。しかし、観測点の死が誰かに観測されることで収束した瞬間、彼女の記憶からすっぱりと予見した事実が消失してしまう。
逆に外れた場合にのみ、不吉な予感として記憶に残る。
その予感は、同時に死にかかわる重大な事故をいち早く感じ取っていたという事に繋がる。
そこまでの考えに至った時、私はもう一つの可能性が存在する事に気がついた。
生と死が重なり合う観測点から、事前に観測点の死を観測してしまった事実が残ると摂理に反する。
だからこそ、原点である川崎の観測した事実がまず消失し、徐々に周りの私たちのそれに関する記憶も消えてゆくんじゃないかと。しかし、敢えて私はその事は川崎には伝えない。伝えても意味がないのだから。
「だから、川崎の家の地下に閉じ込められている男性も生きている可能性は十分に有るはずだ。今の私には良くわかる。川崎はさ、そういった死の兆しを知る事が出来るんだと思う。けれど、きっと時間の猶予はそれ程無い、だから助けるなら今のうちだ。川崎が余計な重荷を背負いたくないと思うならすぐに連絡すべきだよ」
「先輩、今の話本気でいってますよね。私どうにも踏ん切りがつかなかったんです、こんな話だれも信じてくれるとは思わなかった。けど、先輩は信じてくれました、だから私決断しようと思います」
これで川崎は自分が死を予感できる、死神のような存在だと知ってしまった、けれど大丈夫だろう。
明日の朝にはきっと私との会話はすべて、忘れてしまっているのだろうから。
「川崎、私はね、私の仕事を受け継ぐのはあなただと思っている。だから、こんなことでへこたれてちゃだめだ。きっと川崎ならもっと上を目指せる」
「先輩、今夜話せて良かった。ありがとうございました。今日の事、絶対に忘れませんから」
「私もこの取り戻すことができない今、話せて良かったよ。さよなら、川崎」
死の予兆を得る事はできても、観測点である人間が死を望んでいるのか、それとも生きてゆくことを望んでいるのか、そこまでは川崎には知る事はできない。
私の叔父の家、私の家の地下に長年埋もれていたシェルターの中の男は生きていた。
毎日ダクトを叩き続けて擦り切れ、変形した細腕、人間とは思えないほどやせ衰え、光の乏しい環境に長年置き続けられた目は鈍い灰色に濁り、白化した皮膚はすでに遺体のようだった。
なぜ私はあの日の夜決断できたんだろう、あの日私は酒に酔いながら先輩に電話をかけていた。
その時間、先輩は自分の車で山奥に向かい、練炭自殺をはかっていた。不倫で悩んでの自殺だったそうだ。
私が電話を掛け、発信記録を残した時、先輩は生き残れるかどうかの際だったらしい。
確かに先輩と何か話した気がする、けれど、私の携帯には通話記録は残ってはいない。
先輩は電波の届かない場所に一人でいた、事実はそれだけだった。
ふと私は何か大変な事を忘れてしまっているのだと、そう感じる事がある。
あの日の夜を思い出すとなぜだかとても悲しくなって、眼が潤んでしまう。
単に良くしてもらった先輩だからなのかもしれない。
それでも私はあの夜の空白の会話を、有理先輩の事をずっと忘れたくない、そう思っているんだ。