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The Hole  作者: 黒漆
3/13

真理の洞穴

 先生は正直に話してくれとおっしゃいます。ですから、私は本当の事を全て、お話しようと思います。


 私の人生は語れるほど長くはありません、この喪失がなければ、本一頁にも足りないような短な文章で書き足りてしまうような人生です。

 途中までは順風満帆じゅんぷうまんぱんとはいかないまでも、平穏無事な幸せな日々でした。

 資産家の両親に恵まれ、次女として生まれた私は、有名な女子校を大学まで渡り継ぎ、何不自由なく過ごし、けがや病気に悩まされることもなく、思春期を過ごして社会人になったのです。


 学び舎を出てからも、両親が勤めていた会社に就職し、庇護の元で業務をこなしていました。

 世間知らずだからと周りからなじられても、それまでの生を穏やかに過ごしていたので、あまり気にもなりませんでした。

 私もいずれ、良い人に見初められて結婚し、平穏で幸せな生活を送るのだろうと、一人そう思い描いていたのです。

 思えば、そうした過保護な環境が私を夢想家に育ててしまい、異性関係に対してどこか鈍く、打たれ弱い人間に変えてしまっていたのかもしれません。


 そんな社会生活の中でのことでした、両親から縁談を勧められたのです。

 企業の相手先の御子息との縁談でしたから、以前から決められていたことなのかもしれません。

 相手方の私の旦那様となられる方も、重役の肩書き然とした方で、私には勿体ないくらいの男性だと、お見合いをさせていただいた頃は思ったものです。


 お付き合いの間も、とても気さくで面白く、優しくて常に気配りを欠かさない、一点の曇りもない男性だと感じていました。けれども、入籍、結婚式を経て、私と旦那様、お義母かあ様が同居というくだりに至った時に、その全てがお義母様のお言いつけにより、旦那様が演技をしていたに過ぎないということを知ってしまったのです。


 いざ、生活にお義母様が介入する頃になると、あれほど結婚前はお優しかったお義母様は、まるで別人のようにお変わりになり、私に必要以上に辛くあたりました。

 旦那様を名前で呼ぶことを禁じられたのもその頃のことでした。旦那様の興味はお義母様に向けてのものばかりで既に私にはなく、私はただ子供を残すための道具のような扱いを受け始めていました。


 旦那様との間ではお義母さまの面前で機械的な体を重ねる作業を強要され、お義母様には毎日のように教養のない娘だよとお叱りを受け、お食事の味付け、掃除の行い方を始めとして、生活中のささいな動作までもお二人になじられ、私が両親に助けを求めても、もう決まった事なのだから我慢をしてくれと言われるばかりで、心の逃げ場を失ったその頃から、私は少しずつ、おかしくなってゆきました。


 結婚をしてから一年が過ぎる頃、痩せ細ろえ、立っているのがやっとという私に義母様は言いました、「まだ子供の一人もできないのかい、そんな簡単なこともできないような嫁をもらって、この子が可哀想じゃないか」と。

 「さっさと役目を果たしてもらいたいものだ」と。けれど、私に何ができるでしょう? こんな状態で、健康な赤ちゃんを産むことができるでしょうか、その内に私は旦那様との行為自体が行えなくなり、血痰や血便などの症状までもが現れ始めました。


 そこに至ってやっと私の両親が手を差し伸べなければならないと気がついたのか、私は実家へと戻りましたが、結婚が解消され離婚という運びになることはけしてありませんでした。それから私は数ヶ月おきに旦那様の元と実家の行き来を繰り返し、悪夢のような現実を過ごしております。

 貧乏でもいい、平凡な生活を望むのは高望みなのでしょうか、私のどこが悪かったのでしょう。いつしか私は望むことを諦めました、やがて来る、終わりを待つばかりの生活でした。


 重くなり続ける体、色を失った世界で、私は日々を生き続けました。

 お義母様の前に立つだけで汗が吹き出し、わけもなく内臓の痛みが増してしまう、悶えるような毎日。それは火のついた油の川をゆっくりと進むような毎日でした。


 実家から旦那様の元へと向かう、ある日の朝のことです、目の裏に凝った泥が張り付いたような感覚が途絶えなくて、掻きむしりたくなる気持ちを抑え、眩む頭を持ち上げてなんとか家に帰ろうとしていたのです。けれども、私の思いに反して、足は一向に動かず、階段を登るための一歩すら、踏み出すことを拒み続けました。

 動悸が激しくなり息を荒くする私を横目に、マンションの住人の方たちが何事もないように通り過ぎてゆきました。そこでは、人と人との関わりがとても薄いのです。汗を拭い、手すりに寄りかかり、やっと階段を登りきったと思ったその時でした。


 片足が滑り、階段を踏み外した私はゆっくりと遠ざかる踊り場をどこか他人事のように感じていました。

 数度の衝撃と痛み、動く右腕で頬に触れると赤い血が指につきます。

 左手は関節が増えたように折れ曲がり、裂けた肌から血が滴っていました。

 寝そべって目を上へと向けると、逆さまになった茜色の空に張られた電線が震えて、黒い翼が一斉に舞い上がってゆきました。


 不意の衝動に突き動かされてそこから立ち上がった私は、心の底からなにか可笑しさがこみあげてきて、気が付けば人目も気にせず笑っていました。

 まるであたりの景色全てを吹き飛ばしてしまうような、大きくて耳障りな笑い声。そんな叫びにも似た声をあげながら、私は自分の意思とは関係なく、道を走り出していました。

 喜びと楽しみと悲しみと怒り、すべての感情が一度に爆発したようでした。

 涙で溶け出した世界の中を折れた腕を震わせて、血をまき散らしながら、ああ、ついに私は壊れてしまった、もう、世の中の全てが私にとってどうでもよいものに変わってしまった、そう思えた、そんな瞬間でした。

 私の意識はぶつ切りに飛んだ末に、暗闇の中に消えてゆきました。



 意識を取り戻したときには、私はその場所にいたのです。

 薄く目を開いたときには、目の前には雪のような、白く丸い、大小様々な光が舞っていたので、ここは室外のどこかで、寒い土地なのでしょうかと思ったのです、けれど視界がはっきりと像を結ぶと、ダークグレイのおうとつのある壁が頭上で輝いているのが見えました。その壁は繰り返すように白い光を発していて、不思議なリズムで点滅を繰り返していました。


 ここはどこだろうと立ち上がろうとすると、私は患者服のような白い服装に変えられ、岩盤の床に寝かされていました。床も天井も、この洞窟のような空間全てが、ダークグレイの岩壁でおおわれていました。左手には包帯が固く巻いてあり、金属で留められています。

 一瞬動かせないのかなと思わされるものの、実際には曲げられないというだけで問題はなく、その上重そうに見える金属の固定金具もそれ程重くないことに気がつきました。

 不思議なのですが、意識を失う前にあれほど揺れ、騒いでいた心の動きがなぜか、その場所では何事も無かったかのように平静を保っていられました。

 私は洞窟の端の場所で寝かされていたようで、穴の奥を眺めると先が霞むほどの深さが続いています。その先は幾人もの影がうずくまり、詳細は朧気で良くわかりません。

 雪のような丸い光は、私の寝ている壁や、私の体から透けるようにして流れ出て、奥へとふわふわと流されてゆくのでした。


 見回すと私と同じ格好の人達が静かに天井を眺めたり、傍の人と話をしたり、思い思いに過ごしているのが見えます。

 私はどうしてこの場所に居るのでしょうか、その疑問に答えていただくために、私に一番近い位置に寝ている女性に声をかけました。


 「あの、すみません」そう声をかける私に軽く左手を上げると、彼女は片目に付けていた眼帯をずらし「ごめん、あなた誰だっけ?」と私に知った仲であるように返します。


 私は、「気がついたらここに寝かされていたんです。もしよろしければ、ここがどこなのか教えていただけませんか?」と問いました。

 両手首に患者服の彼女はどこか夢を見ているような虚ろな表情で「ああ、新入りさんか、ここは、私たちは安穏洞あんのんどうって呼んでいるの」そう一言答えると、洞窟の先を指さします。

 その方向には、一人異彩を放つ、髪も髭もなく痩せているのに力強さを感じさせるような、どこか得のあるお坊様を思わせる、威厳に満ちた佇まいのお爺様が座っていました。


 「あのじいさん、詳しくはあのじいさんに聞きなよ。ここじゃ一番の古株だから」それだけを答え、彼女は俯いたまま黙ってしまいます。

 私は「ありがとうございました」と一言残し、お爺様の元へ向かおうとします、けれども、いつの間にか、彼女が私の右腕にしがみつき、下から見上げるように問い質すのです。

 「あなたはなんで自分がここに来たか、見当つく?」私がそれが聞きたいので質問したのですけれど、と口を開こうとすると、「私はね、子供を亡くしたの、旦那はどうしようもないろくでなしでさあ、飲む、打つ、賭けるが生きるための全てみたいな奴だったんだ。そんな奴でもあの頃、私は好きで仕方なかったから、タバコを吸う姿がかっこよくて、たまに私の前でお前がいなきゃ駄目なんだって泣いたりするのよ。それが可愛くて、私が傍にいなきゃって、今考えると、お互い悪い形で依存してたって、そう思うんだけど」そう、一息に告げました。


 彼女は私とは違う世界の人間に思えて、普段であれば私では話すことを躊躇してしまう、そんな人でした。

 それでも何故だろう、その先が聞きたくなっていて、「私は、子供が欲しかった、けれど結局できなかったんです」自然にそう言葉がでていました。


 「子供なんて最初は欲しくないと思ってたんだ。できちゃっても二、三度は堕ろしてた。不公平な話だね。私みたいに欲しくもない人間に沢山できて、あなたみたいに本当に欲しいと思ってる人間にはできないんだから」私は首を振り、「いいえ、私も今となっては本当に子供が欲しかったのか、良くわかりません」と答えます。

 「いいや、子供ができればあんたにもわかるよきっと。産みの辛さは人の意識を変えるもん。でもいいかい、一度産んだら目を離しちゃあ駄目、でないと私みたいになっちゃうよ」

 「私みたいにですか、なんのことでしょう」

 「私は子供を見捨てたの。私は子供と旦那を養うために体を売ってた。私には子供が二人いたんだけど、旦那が世話なんかするわけないから、食べたか食べないかわかんないようなのが日常でさ。たまに私が適当にあり合せで食事を作ってやるとね、喜んで食べるんだよ。二人とも痩せっぽちな体でさ、男の子と女の子だったんだけど、上の男の子が無理して食べずに女の子に譲るんだ。そんなの見ると優しくしなきゃなって思うんだけど、旦那が馬鹿で、子供にまで嫉妬するの。そんな奴らより俺の飯作れよって」

 どこか遠いところを見ているような目付きでそう話す彼女は、もしかしたらその頃を思い出しているのかもしれませんでした。

 「でもね、私が客の相手している間に、みーんな燃えちゃったの。旦那のタバコの火、消し忘れで。暴力振るったりとか、邪魔だとか思ったりもしたのにね、亡くしてから気がつくんだ。結局私には子供たちの方が大事だったんだって。焼け残った、子供の描いた絵に私の姿が描かれててさ、どこで覚えたのかおかあさんて描いてあってね。遅かったんだ、それから私、何もかも、自分でさえも嫌になっちゃった」

 無表情でそう締めくくった彼女は、私の顔を見たままで無言を通します。

 私はなんと答えていいか分からず、ただ座り通していました。

 少しの時が流れて「ありがと、時々思うの。誰かに聞いてもらわないと、全部忘れちゃうんじゃないかって。もう行きなよ、あんたの話はあのじいさんが聞いてくれる。さあ、行きなよ」ふと私のことを思い出したようそう言うと、彼女の目にはもう私は写っていないのか、また俯いて黙り込んでしまうのでした。


 私は色々な疑問が湧いてはいましたが、彼女の言葉に従ってお爺様の元に向かいます。

 そこかしこに座り込んでいる人達は年齢は子供から老人まで本当に様々なのですが、殆どが患者服のような白衣を着ていました。

 時折私服を身に付けている人の姿も見かけられたのです、けれど、皆身動ぎもせずに何かを思い出すようにして座ったまま動かないのでした。

 動いている私の姿を見かけると、顔を私に向けるのですが、自分に近づかれないと知ると、すぐに興味を失ったのか元へと戻ってしまわれるのです。そうした人たちと、吹雪のように奥へと舞い飛ぶ白い光の中を歩くと、遠くで眺めただけではわからなかった、ここに見られる誰ともかけ離れている、お爺様の詳細な姿がわかりました。


 お爺様は服装は僧衣のような服装ですが、どこかゆったりとした服でシルクのような素材でできています。そこに金属のような銀糸の帯を巻いて、ゆったりと座禅を組んでいるのでした。

 体つきは長年風雨にさらされた、荒々しい岩のようで、隆々とした筋肉の筋が森の木を思わせるようでした。

 老人は私が近づいたのがわかると、そっと閉じていた目を開いて私に、「さあ、こちらへ」と彼の目の前へと誘うのでした。

 「さぞ、困惑なさっているでしょう。ここは我々の内では安穏あんのん洞と呼ばれてはいますが、本来ならばあなた達が求めて来るような場所ではありません」

 私は彼の前に静かに腰を下ろすと、冷たさも痛みも何も感じさせない、この場所にやっと違和感を覚えました。お爺様の声が途切れると、私は不意に、自分の一番の疑問を口にしていました。

 あまりにも現実とかけ離れた場所と、お爺様の説明を聞いて、もしかしたならば、ここは死後の世界なのではと思ったのです。

 「私はなぜここにいるのでしょう、私は死んでしまったのでしょうか」

 お爺様は少し間を置くと、優しげに微笑んで、「不思議ですか、ここは現実の世界ではありませんから、様々な感覚が失われているのは当然のことです。

 あなたは死んではいません、現在のところは、ですが。体は現世の医療施設にあるのでしょう。

 これから長い話をまず、あなたに聞いてもらわねばなりません、ここを知る上で必要なこと、私の役割は疑問をもってここヘと辿りついた者への案内にあるのですから」そう、答えます。

 簡単に私の理解の枠を超えてしまい、動揺する私ですが、老人とは思えない力強く、心を張らせる筋のある声で、時間が経つと染み入るように私の心にくい込み、きっとこの人の言っていることは本当なんだと、信じられるようになりました。


 彼は頷いて少しの間を取ると続けます。

 「ここは人の感情も、痛みも、苦しみも、その全てが失われる場所なのです。あなたや、ここに居られる数々の人々の体から噴き出す白い光は、そうした様々な感情が形となった表れで、その光は場所の中心に向かって吸い取られて行くのです。かつてはこの場所は真理の洞穴と呼ばれており、様々な分野の天才と呼ばれる方達が行き着く場所でした。なぜならば、行き過ぎた思慮は狂気を生むからです。ここはそうした己の身を狂気に自ら沈めた者達が流れつく場所なのです。真理は狂気の際に常に存在するのですから」

 彼はどこか何かを懐かしむように目を細め、寂しそうにため息を一つ、つきました。

 「かつては、ここに来るものはさほど多くはなかったのです。精神の洗練化が進むうちに徐々にここに流れ着く者たちが増えてゆきました。現在いまでは、溢れかえっている。それが良いことなのか悪いことなのか、私に判断するすべはありませんが、少し寂しく思うのですよ」

 お爺様はそう締めくくると、私に眠るまでの顛末てんまつを聞かせていただけますかと促すのでした。

 私は催促さいそくされるがままに、これまでの起こりからの全てをお爺様にお話しました。けれども話している間は、あの時の苦しさや痛みが、今では本当に遠いことのようで、まるで柔らかな光の中でうたた寝をしているようなそんな微睡みの中で、昔を思い出しているようでした。


 話すうちに、私が辛いと思っていた思い出に触れると、私の体から大きな光が抜けて奥へと流されてゆくのです。そうして私は、お爺様の役目とは私たちから話を聞くことなのではないかと、そう思ったのです。

 「お爺様はもしかしたら、私たちをお救いになられるためにここにいるのですか?」

 「いえ、私はそんな高尚な存在ではありません。私はただ、真理に従っているだけなのですから、ですから、あなたも話したい時に話せばいいのです。ここで好きに過ごしていればよいのですよ。この洞穴の奥に向かうのも良し、ここで思い出に浸るのも良し。しかし、あなたはここにいる誰とも違う存在です、その時が来れば、私はあなたに案内しなければならないでしょう」

 お爺様はそれだけ言い残して、立ち上がり、私に会釈すると他の方たちのもとへと向かいました。


 私は反芻はんすうするように、お爺様と話したことを思い返していたのですが、そのうち、この洞窟の奥へと足を進めてみたくなったのです。

 心の奥に深く染み付いたあの苦しみや恐怖が、奥へ向かえば洗い落とせるような、そんな気がしたからでした。


 途中、若い男性に足を掴まれ、話を聞いたりもしました。彼は自分のことを津田と名乗って、ここにたどりつく前の出来事を私にお話してくれました。

 「ねえ、姉さん。僕の話、聞いてくださいよ。なんだか、偶に見かけるんすよね。姉さんみたいな人、ここでさ、光の形保ってられる人、それってそんなに多くないんすよ。あのじいちゃんは別だけど、だから姉さんみたいな人、ほんと珍しいんす。僕はいたって普通の大学性だったんす。あの頃は今みたいに馬鹿じゃなかった、しっかり将来のこと考えて、必死に勉強してた。薬学部で薬剤師の勉強をしていたんすよ、あれはキャンパスの夏休みの時期だったか。僕ら薬学部の学生同士でアジアへの格安旅行を計画していったんすわ。目的は観光もあるんすけど、本当のところはガンジャをふかすことに有ったんす。ガンジャは日本じゃ大麻草だとか、隠語で野菜やら葉っぱやら、言われてるんすけど、僕はほら薬剤師がら、こうした大麻粉末を他の粉薬に混ぜ合わせることもあるわけですよ。だからとは言いませんけど、少し興味があったんす。まあ、本当のとこ、バンド組んでたから、一発キメてカッコつけたかったってのもあったんすけど。勿論校内でふかすとかそんな危険な真似できないですから、一度海外で経験しておこうと思ったんす。それが結局悪かったんかなあ。依存性はそれほど高くないって、言われていたんすけど。国内に帰ってからも結局、なにかストレスを感じたとき、思い通りにいかなかったとき、研究で気だるさを感じたときなんかにこっそり吸うようになってました」

 津田さんは、私以上に痩せていて、目に見えて病人じみていました。私はただ、相槌を売って津田さんの話の先を促していただけなのです。ここの人たちは皆、自分の話を聞いて欲しい様子でした。

 「そうするうちに止められなくなってしまったんです。結局、薬の精製やらされることになったんすけどね。まあ、いわゆるアウトローな人たちの下でです。混ぜもんって奴から粉分けっす。大麻の粉末を食べ物とか、アルコール、油なんかに混ぜられたやつを抽出するって仕事っす。でも、引き換えにガンジャもらって吸ってたんじゃ意味ないっすわ。その内飯も食えなくなって、いよいよ脳もスカスカになって、は、気がついたらここです。僕の体ってどうなってんでしょ、考えると怖いはずなんすけど、ここにいると何故か怖くないんすよね、なんでかなあ、姉さんに話すまで忘れてたからか、ここにいると、食欲とか性欲、睡眠欲みたいな三大欲も感じないんす、あのじいちゃんが言うには、精神が肉体から離れているからだとか、まあ、もうそんなことどうでもイイんすけどね」

 津田さんは、私がこの先に向かっていると言うと、話を聞いてくれた礼だと、自分も知りたかったからついてきてくれると言ってくださいました。私たちの姿を見て、何も言わず後ろに連なる人達も何人かおられました。

 そうして私は、津田さんと彼の話に耳を傾けながら、少しずつ、ゆっくりとダークグレイからグレイに、グレイからライトグレイに変わってゆく壁の色、徐々に増してゆく光の玉の中を奥へと進んでいったのです。

 脈打つ床の模様、光の波が美しくて、私は度々足を止め辺りを見回しました。

 光の波長が強くなるにつれ、それに合わせるように、辺りの人たちの数も減ってゆき、後ろにつき従っていた人たちの数も足を止めてしまうか、不意に崩れ落ちてしまうかで、少なくなってゆきました。その内上半身だけの人、肩から上だけの人なども見かけられるようになりました。

 津田さんはその人たちのことを、思い出を吸い取られた人間の成れの果てと呼んでいました。

 痛みや苦しみは思い出と共にあるから、全て吸い取られると人の形すら忘れてしまう、そう言っていました。


 そうして、壁の色が徐々に明るさを増すうちに津田さんの歩き方がおぼつかなくなっていって、ついに歩けなくなってしまいました。体からの光が徐々に減り、面持ちや服装から明確な輪郭が失われてゆくさまを知りながら、私にはどうすることもできませんでした。

 「僕、なんでここにいるんすかね、わかんないな。あなた誰でしたっけ」

 津田さんは座って膝を抱えると、それだけ言い残し、文字通り崩れてしまいました。

 足先から砂山が崩れ去るように、ざらりとつぶてに変わってしまった津田さん。

 あっという間のことです。礫は細かな光に変わって宙に舞い上がり、洞窟の奥へと吸い込まれていきました。


 私はそれでも先へと進みます。眩しさの果てを目指して、そこになにかこの世界の答えがある気がしたのです。

 やがて、壁の色が完全な白にかわり、光の本流の中で私は洞窟奥に辿りついたのでした。

 少し狭さを感じた洞窟は地平の見えない広い空間に繋がっていました。

 壁はプラネタリウムのようにはるか上になだらかに繋がっていて、僅かに遥か上に天井があるのがうかがえます。

 平面の奥には、太陽のような眩しさで輝いている球体が地面にめり込むように半分だけ姿を現していました。

 そのそばには何人かの人達が、ひたすらに何かを語り合っているのでした。

 私がその半分だけ見える球体に近づいてゆくと、私が出てきた洞窟の他にもたくさんの穴が壁に空いていることに気がつきました。

 そのそれぞれの穴の中から光の玉の寄り集まってできた川が流れ出して帯のようになり、中心の極光に吸い込まれてゆくのでした。それはとても綺麗な光景で、私の足は自然とその、光の中心へと向かっていました。


 そうして近づいて、徐々に繭のように光が巻かれて吸い込まれてゆくその中心の様子が見え始めると、私の心が徐々にざわつき始めたのでした。

 それは何か、とてつもない、私には想像もつかない存在に近づいているというような、つかみどころのない胸騒ぎのような感覚でした。

 しばらく忘れていた恐怖が、マッチの火が灯るように私の中で再び産声をあげました。

 途端に私はそれ以上進めなくなってしまいました。

 それより先の世界を知ってしまうと、何故だか戻れない気がしたのです。すると、いつ私に追いついたのでしょうか、私の傍らにはあのお爺様がそっと佇んでいました。

 「彼らは高名な哲学者や数学者、そう言った人達の成れの果てです。ああして、己の全てをなげうって、未だ心理に近づこうとしているのです。けれど、人で有ることを捨てきれない彼らは、真理が目の前にあるというのに、それに触れることができず、ああしてずっと己の力で真理を解き明かそうと苦しんでいるのです」そして、静かにそうおっしゃいました。

 私はそこで気になった疑問を聞かずにはいられませんでした。

 「私はなぜ、ここまでこれたのでしょう。高名な学者でもなく、特別頭が良いわけでもありません。津田さんも道の半ばで崩れてしまいました」

 そうするとお爺様はおっしゃいます、「それはあなたがまだ、戻れる人間だからです。あなたの思い出を留めさせている者が、あなたの中に居るからです。それは純然な無垢なる存在で、もっとも真理に近いものです」と、私にはその時、何をおっしゃているのかわかりませんでした。

 けれども、「しかし、進むか戻るかはあなたが今決めるしかありません。これ以上あなたが足を進めれば、あなたは永遠に苦しみからは開放されるでしょう、しかし、戻ろうと思えば現世に戻れます、そこにはこの先には得られない喜びもあるでしょう」とお爺様に問われて、私は戻る道を選びました。


 なぜでしょう、道を歩いてゆくうちに、私の体からこれまでに染め込まれていた苦しみや怒りや悲しみといった感情が剥がれていったからでしょうか、違うのです。

 私は自分の中に芽生えてゆくあたたかな存在に気がついたからです。

 それは私のお腹の中で少しずつ大きくなっていったのです。

 私はそのあたたかみを捨てたくなかったのです。だから、その子のために、戻ると決めたのです。あれだけの怪我をしてもなお、私の中で死なないでいてくれた、もう一つの命のためなのです。




 数箇月間、精神異常でまともに話もできなかった患者の一人が、奇跡的に精神回復を迎えた時に質問した時の答えがこの全てだ。けれど、その後も順調にある患者の精神状態に私は違和感を感じていた。

 いずれこれで体調が良くなり、退院が決まれば、彼女はまた地獄のような環境に戻らなければならない。しかし、それでも彼女はどこか幸せそうで、どこにも悲観は浮かべていなかった。

 その理由を彼女に最後の問いとして質すこととした。彼女はこう答えた。


 私はあの場所からまたこの現実に戻るときに、数人の人たちを連れ帰りました。

 その人たちは戻れる場所がない人たちです。現実では肉体を失ってしまった人たち。

 可哀想なその人たちは、なにかのきっかけでこちら側に戻って来てもすぐにあの場所に戻されてしまうそうなのです。

 だから私はその人たちに、こちら側に連れてくる代わりにお義母様と旦那様をあの場所に連れていってもらえるように頼んだのです、と。

 そう答えた彼女の表情はこれまで見せたことがない程の満面の笑顔だった。


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