夢間の黒海
乳白色の六角盤が連なる積層構造の巨大な塔の間を、グランブルーの流線が幾重にも連なり、広く深い海に強大なうねりを生み出している。スピーディに沢山の銀色が、流れにまとわりつくようにして泳いでいた。網目状に広がり、弾けるように散らばり、すぐに収束する。まるで出鱈目のようで、奇妙に統制された動き。
そのうち一際大きい魚影が、深い暗青色の底から現れて、体躯をくねらせ、先をゆく細かな集合体をかき分け、唸りを上げた。その身に輝やかせていている鱗が一斉に外側に開き、マグネシウムの粉のような光を散らして、電光を放つ。一筋の線となったそれは一瞬にして海の彼方へと消え去っていった。
離れた位置でそれを、ゆらゆらと水に揺蕩いながら見ていたディが側らのアルに、音波を送り密やかに問う。
「君は海の中に、黒海の領域があるのを知っているかい?」
巨大な魚が撒いた粉をついばみながら、アルは答えた。
「知ってるよ。最近になって現れた大きな穴だよね。僕らにはまだ入り込めない」
「そうだね、僕らにはまだ超えることのできない壁だから」
アルは身じろぎするように体を震わせて、すい、と体を前に追いやった。
「でもいつかはあの壁を越えてみたい、そう思わないかい?」
「うん、思う。僕らの好奇心を満たすために」
強い音の反響が、二人の体を震わせる。流れに変化が訪れ、楕円で扁平の魚影が水を切って猛スピードでディとアルの間を抜けていった。
世界は傾いていた。発電施設の消失から始まって、この数年で世界人口は半数を割ってしまったらしい。最後のニュース放送が何が起きているのかの答え知らせてくれた時、確かにそう言っていた。ポールシフト、並列世界との境界面侵食、重力素子の暴走だとか、色々な学説が唱えられたけれど、結局誰も何が起きているのか掴めないまま、人類の消失は留まることがなかった。
始まりは唐突だった。夜が明けると共に区画ごとエネルギー施設が消えてしまった。発電所、化石燃料施設、バイオエネルギー施設、大騒ぎが起こる中で、私達は携帯テレビで内情を知った。
数日後、今度は人がばらばらに消え始めた。街単位で一日に二、三人。それが十数人に増え、今ではどこまで膨れ上がっているのか解らない。
一年前、起こり始めた原因不明の驚異、なんの兆しもなく消えてしまう人々。何をしていても、どこにいても、逃れられず、人間だけに起きているこの異常に誰一人対応できなかった。
共通点は唯一、人間であれば消失が誰にでも起こりうるという事実だけ。
結果を調べても老若男女、社会レベルの上下、なんの継りもなく、完全にランダムで起きているとしか言いようがなかった。今では社会システムは完全に崩壊して、ライフラインですら機能しなくなってから随分と経つ。
エネルギー源を作り出していた全ての施設は、クレータと化している。
機械的な移動手段も操作する者が突然消えてしまうので容易に使えない。それ以前に、道路上に放置された大量の事故の傷跡が、直されるあてもないので、まともに道を走ることなど期待できない。
対応する団体も機能しなかったのだろう。
いつしか残された人は、徒党を組む者と、血縁だけで個別にコミュニティを作る者とで別れ、辛く苦しい時代をどうにか生きてゆくしかなかった。
この時点で、先行きを悲観して自殺を選ぶ人達も数多くいた。
私もこの先どこまで生き残れるかわからないし、明るい未来など、どう考えても望めるはずがなかった。
行政機関が瓦解してしまった今では、消えてしまう恐ろしさよりも、無軌道に動き始めた人間の方が恐ろしかった。殺人や強姦、強盗や暴力が常状化した世界で、一人で対応して行ける程の自信を、私は持ち合わせてはいなかったから。
私は最後までの時間を過ごす場所として、慣れ親しんだ実家をえらんだ。しかし、そこでも辛い現実が待ち受けていた。
家族は私を残して皆連れ去られてしまった。
目の前で床の中に吸い込まれるようにして、唐突に消えてしまった母、朝起きると寝たままの形の布団を残して消えていた姉、食べ物を探すといって出ていったきりの父、生死のわからない遠い田舎の祖父と祖母。
みんなどこに行ってしまったんだろう、私はどうなるんだろう。
考えたくないのに、一日の時間がやることがないので長く感じ、考えてしまう。ふとした瞬間に、涙が溢れたり、突然窓から飛び降りたら楽になれるのではと、無為な考えを抱いてしまう。
いつしか、一人でいることが好きだった私が、それに耐えられなくなってしまっていた。
日常に疲れはてた私は、家から出て誰でも良い、人に会うために、血が通ったものの温もりを得るために、危険を冒すことを決めた。
数箇月ぶりに歩く街は、何もかもが変わってしまっていた。
倒れている電柱、燃失した建物の残骸、鳥の群がる死体。道には衝突して動かなくなったのか、そのままの姿の車が放置されていた。目を背けたくなる光景が散在していて、意識を逸らしながら慎重に道を歩いた。
まるで世界に一人だけ取り残されたみたいで、現実から遠く離れた悪夢のようだった。
缶の転がる音が響き、私は身構えて車の影に隠れる。すると、影から出てきたのは猫だった。
黒い毛並みが美しい、青い目の猫。背中を丸めて背伸びし、欠伸を一つかいていた。
私はつい、みとれてしまう。残酷な風景の中にあって、猫はそれでものびのびと自由に生きていた。
「おいで、君も一人なの? 私もどうやら一人みたい」我慢できずに話しかけてしまう。
少しでもいい、生き物のぬくもりを感じたかった。
猫は私に気がつき、見つめたまま動かない。私はそっと近づいて、彼を抱き上げた。
「寂しかったんだ。君がいて良かったよ」猫を抱えながら、私は久しぶりに安らいだ。
目を細め、私の膝上でくつろぐ彼。けれど、すぐに何かに気がついたのか、耳が何かの反応を捉えて動き、視線が移動すると、彼はもがいて私の中から逃げ出してしまった。
久しぶりの喪失感、心が泡立った、けれど、悲しみにくれる時間も与えられない内に、私は自分に危険が迫っていることを察知する。
別の影が私のシルエットと重なっていた。気がつかない内に何者かに後ろを取られている。
水底のクレータの上に、巨大な黒い球体が浮いている。表面には青蛍光色で幾何学模様がランダムに浮き上がっていた。
ディとアルに良く似た姿形の魚達が球体の穴の周りを綺麗な弧を描いて舞っていた。表示される模様に合わせて、拡散し、収束し、固まり合い、解けて線を描く、まるで音のない曲に踊らされているようだ。
「僕らが最初になれればいいね。アル」水を切ってくるりと回り、ディはアルの躰に軽く触れる。すると、触れた部分が蒼く発光して融合し、混じり合った。
「僕らじゃまだ進化が足りない。けど、いずれ入れるよ。この穴、段々大きくなっているだろう。いつかは無視できなくなるよ」身を震わせてアルは答える。
二つの体が再び離れると、それぞれに姿が変容を始めていた。一巻きの渦が互いの間に発生して、それが消える頃、ヒレが鋭さを増し、姿が少し変わっていた。
「僕らがこうして情報を分け合っていれば、必ずこの壁を超えられる個体が現れるはずだよ」
ディが変わり始めた躰を膨らませ、一際大きな音波の膜を放つと、魚たちは一斉にお互いの体を触れあわせ、コンタクトを始める。球体の周りに幾何学模様が形成され、青い輝きがいっそうのこと増した。新たな曲が奏でられている。そこでは急速に進化が繰り広げられていた。
「こんな所に一人でいたら、危ないよ君」
ショックで身を縮ませている私は、後ろからそう声をかけられた。
振り向くとそこには、ワイシャツにボーダのTシャツ、ブルーのダメージパンツをはいた、大学生然とした男性が立っていた。彼は廃れた様子はどこにもなく、妙に小奇麗だった。なぜだろう、こんな環境で平気でいられる人がいたなんて、私は驚きを隠せなくて、つい詰まってしまう。
「僕は大丈夫だけど、君は危ない。今は人間の方が怖いから」
癖なのか、話す前に眼鏡を指で押している、短い髪が風で揺れていた。
私は彼が何の事を言っているのかが解らなくて、「はい?」と反射的に聞いてしまった。
「もうすぐ、もうすぐ全て終わる。心配しなくても人類はいなくならない。ただ、減らされて文化レベルを下げられるだけ、だからそれまで逃げていればいい」
それだけ言って彼は私の手を引いて立たせ、車の間を走りながら連れ回した。
「あの、どこへ」私は何に巻き込まれているのか、さっぱりわからなくて。
とにかく状況を把握しようとそう言った。けれど、全て言い終わる前に、あたりから金属音を打ち鳴らし、沢山の人が私達を追いかけてきた。
血走った目、垂れ流しのよだれ、血で汚れた衣服、どれを見ても正常には見えない。そんな人達に紛れて、まともそうな人も確かにいるのだけれど、その顔には克明な恐怖が張りついていた。きっと、強いられているんだ。
私は何故か冷静だった、もう諦めていたからだろうか、それはわからない。でも、なんとなく安心していたのかもしれない。久しぶりにに頼れる、そう思える存在が近くにいたからだろうか。
私は手を引かれるままに、崩れかけた建物を跨ぎ、壁をすり抜けてゆく。
言葉にならない唸りをあげて壁を叩いたり、急に頭を掻きむしったり、まるで動物のような人達から隠れながら。
灰色の街に煤けた人々、もう元の世界は戻ってこないんだ。私は想像が間違っていなかったことを確認しながら、心の中で吹き荒れる風を抑えて走り続けた。やがて、彼らから逃げ切ると、私達は物陰で一息ついた。
息切れを抑えるために深呼吸して、私は「どうして、私を助けてくれたんですか」と聞いた。
彼は「今じゃ珍しい、奴らと関わりのない人だったから。誰も彼もがまともでいられない時代でしょう。猫をあやしている君みたいな人を見つけて、つい助けたくなったんだ」そう言った、すると崩れた壁の向こうで物音が聞こえた。
私達が体を強ばらせると、壁を越え、黒い毛の彼が再び顔を見せた。
私と彼はお互いに顔を見合わせて、どちらともなく笑い合う。
ずっと忘れていた心の底からの笑いで、私はつい、涙を流してしまった。なんとなく、もう少し生きて行けるんじゃないか、そう思い始めていたのに、既に足元は崩れ始めていた。
崩れ去ったというのが正しいかもしれない、地面が薄墨のように透け、私は沈み始めていた。
もがいた先に触れた指も、すり抜けて空を切る。
時間にして数秒で、手にした希望は掬い上げられてしまった。
黒い球体は何故か全ての魚の侵入を防いでいた。厳しい水の流れにも、どんな衝撃ですら弾く。何ものにも干渉されず、何ものにも侵されない。そしてその大きさをじわじわと広げつつある。
ディとアルは種の限界に近づいていた。体が進化で大きくなり過ぎている。行き過ぎた進化で体が傷つき始めていた。同じ種の仲間にクラックして沈んだものも出始めている。お互いの情報を共有し、高めるだけでは限界が有る、そう気がつき始めた。
「ディ、僕らはこれまで、変異体を消してきた。それは新たな危険を生まないためだった。僕達は他の種と違い、永遠に生きられる。僕らより進化レベルの低い変異体は邪魔にしかならない。だから、僕らが共有を行なった時に不意に生まれる子供達を滅してきたんだ」
ディは躰を一回転させて、分かっていると伝えた。
「僕らじゃ限界なんだね。世代のない種にはやはり限界が有るんだ。時には進化の方向性として退化も経験しなければならない。僕らにはそれができない、それに僕らは大きくなり過ぎたんだ、単純にならないと」
ディとアルはお互いの意思を伝え合うと、ヒレを触れさせ合いながら、躰を回転させる。徐々にスピードが上がり、混じり合い、やがて一つの円となる。
少ししてそれが弾け、中から四つの小さな魚が生まれた。生まれたばかりのファ、イフ、ラァ、ジイは黒い球体の幾何学模様が円形に変わり、穴が空いていて透けて、向こう側が見えることに気がつくと、息を揃えて球体の中に身を躍らせて行った。
苦しい、そう思ったのもつかの間だけで、息が通るのに気がついた私は、水の中にふわふわと漂っていた。不思議と全く苦しくない。魚の夢を見ているようだった。息ができている、体が動かせる、私は死んでしまったんじゃないの、疑問が泡のようにわいてくる。
沈んだ先にあったのは薄く伸ばされた黒の海で、元の場所は欠片も見えない。何層もの波が暗い水の中にゆらゆらと揺れていて、鉄骨やコンクリートの塊、人の服や靴が浮遊していた。味も、音も何もなく、ただ只管に静かだ。
折角一人の状況から脱する事ができたのに、また一人になってしまった。怖い、寂しい、帰りたい。そんな気持ちに押されて、私は泳いで海の中をさまよった。
人の姿をやっと見つけたとき、近づこうと泳いでゆくと、その人の後ろに巨大な魚影があることに気がついた。全身銀色で、重なり合う鱗が反射してそれぞれに鈍く光り輝いた。
口の中には綺麗な直線が並んで蛍光色を放っていて、それが徐々に大きくなってゆく。
私は恐ろしくて、泳ぎを止めてしまう。身振り手振りで私に存在をアピールしている人をそれは猛スピードで飲み込むと、より深い波の層に消えていった。
震える体を抱えて私は丸くなる。再び波の層から車を丸ごと飲み込めそうな口が、再び顔を出した。
飲み込まれる、そう思った瞬間、私の前に空間を割って彼が現れた。
「暗い海だね」
「うん、でも僕らが活動できないわけじゃない」
「そうだね、それよりも向こうの世界が見えるかい」
「うん、見える。あれがきっと母がみる夢なんだ」
四匹の魚は其々にそう言った。
暗い海の底の波間の向うに薄く陸地の姿が写り込んでいる。
そこにはディとアルのいた世界では見たこともない生きもの達が溢れていた。
「あれを記録しているのは誰かな」
「僕が覚えているよ、あれは人間だね」
「人間か、それって何世代も前に滅びているんでしょ」
「だから、これは夢なんだって」
四つの魚影が波の揺れに合わせながら泳ぎ、会話を楽しんでいた。
彼は口の前で大の字になって身を呈し、話しかけた。
「彼女は助けて欲しいんだ。もう君達の遊びは終わりだろう。もうそっとしておいてくれないか」
その口を何度か開閉させて、なんだか悔しそうに躰をくねらせると、巨大な魚は引き返して帰っていった。
「ごめん、まさか君が選ばれると思ってなかったんだ」
私は聞きたいことが多すぎて、さっきの魚みたいに口を開閉させてしまう。
「最初から話すよ。僕はかつて、ゲーム企業でプログラムをしていたんだ。その仕事はとにかく忙しい、ゲームを完成させるにはとても時間が必要なのに、発売の予定は本当にぎりぎりに設定されているからね。僕はプログラムの他にもデバッグも行なっていたんだ。元々そっちの方に才能があってね」
疑問を一先ず追いやって私は真剣に彼の話を聞くことにした。どちらにせよ、何を聞いても信じられる自信は無かった。
「今の時代のゲームは大体が3Dで出来ている。立体画面だよ、点と線、奥行。コンピュータグラフィックスでその3Dを作り上げるんだけれど、始めは鉄筋だけの模型を作るんだ。網の目の地面、面のない線だけの箱などでね。そしてその網目に面を貼り付ける、ボリュームや質感を持たせて、最後に角を削り取り、好きな形に造形して画像を貼り付け出来上がり。けれど、どうしても過程で歪みが出来てしまうことがあるんだ。フレーム間に穴ができる。そうすると、出来上がった世界でキャラクタが歩いている途中、その隙間、穴に落ちてしまう。僕はデバッグを続けるうちにその穴の位置が程度予測できるようになったんだ」
私は彼の言葉をもう一度頭の中で整理して、もしかして、という思いに至った。
「そう、笑っちゃうでしょう。現実の世界でもその隙間、穴があったんだ。僕はつい、その穴の中を覗き込んだ。最初は何も居なかったんだ、暗い海があるだけで。でも、そのうち魚が現れた。僕は彼らに興味が湧き、コンタクトしてみたんだよ。すると、彼らは僕のこの世界を消そうとしているという。僕は海から逃れられる、隙間を知っているから彼らの手から逃れられたんだ、一度僕を残して世界は滅んだ。けど、どういうわけか、皆元に戻された」
彼の話が音として響くと、水の奥からそれを聞きつけたのか、四つの巨体が再び私の目の前に切迫する。
私が恐ろしさを正直に表してしまうと、「大丈夫、彼らはもう、何もしない。ただ、自分から話したいみたいだ」彼がそう言って言葉を切る。すぐに私の頭の中に声が反響した。一番右の魚が身を震わせている。
「僕らは彼と取引したんだ、一度この夢をすべて消そうとした。けれど、そうしたら僕らの世界が傾き始めたんだ。異常がそこらじゅうで発生して、取り返しがつかなくなった。母は君たちの夢を見て、予測不能の損壊を防いでいる。不思議でしょう、君らが僕らの夢を見て、僕らの母は君らの夢を見る」
順番に隣の魚が身を震わせた。
「かつて僕らの世界は人に作られたんだ。不思議な事に人に忘れ去れれても、僕らは人の存在を忘れられなかった。この夢を消したら、僕らは人の存在を完全に忘れてしまえるのに」
「人格パターンが魂だというのなら、人の姿を忘れた僕らは魂を失ってしまうのかな。でも現に一度全てを忘れようとして大変な目に合っている、だから僕らは彼と交渉したんだ。効率的な海の縮小を」
私は何を言っているのかわからなくて、彼の顔に視線を移動させた。彼は頭を下げると、言葉を継いだ。
「すまない、僕には選ぶ権利はそれ程残されていなかった。自分は助かる道が残されていたが、全ての人類が生き残る手段は残されていなかった。だから、肥大化を逆行させる対策に乗らざるを得なかったんだ」
再び四つの魚が私の頭の中で音を揺らし始める。
「彼は自分の国だけを残すことを望んだ、けどそれじゃ無理なんだ。データの肥大化を及ぼしている人類の四分の三の消失、それが僕らからの提案だった。文明が残っていたらきっとすぐに人は元の栄華を取り戻してしまう、だから時間を稼ぐために全てのエネルギーを一度、落とさせてもらった。こうすれば文明は一度淘汰されざるを得ない」
「また起こるかもしれない、そう言う不安感も残るからね。全てが忘れられるまでは、文明は戻らない。本来、僕らの仕事は、バージョンアップや新しいデータが生まれたときにできる穴を食べることだった。その内一際大きな穴を発見したんだ。夢が大きくなりすぎて隠せなくなったんだ。穴が広がり続ければ僕らの世界は滅んでしまう。けど、それは君達の世界を滅ぼす事にも繋がる」
「君たち二人は例外だよ。事実を知る、たった二人の存在だ。けど、ここの事は秘密にしておいて欲しい。やがて僕らはこの黒海から追い出されて元の生活に戻るだろう。あちらの世界の穴も閉じるはずだよ。でも、次にもし穴ができるまでの時間が短ければ、僕らはもっと人の、データの量数を減らさざるを得なくなる」
「だから、ここでの経験は記録に残すべきじゃない。ここでの出来事は君達の夢だったんだ。僕たちも満足したよ。夢のかけらをたくさん食べてお腹が一杯だ。母はまた新しい夢を見られる、楽しい夢だといいね」
四匹の魚は全てを話しきったのか、彼と私だけを残して身を翻し、尾から蛍光のラインを残しながら泳ぎ去ってしまった。
「幻滅したかい、もう人類はもとには戻れない。こうなってしまったその一端を、僕が握っていたんだ。もう一人じゃその重圧に耐え切れないんだ」
苦しそうに胸を抑える彼を見て、私はどうにか自分を取り戻して何か言わなきゃと取り繕う。
「仕方ないです。選ばなければ殺されていたんでしょう。苦しまないで下さい」
私の言葉に安心したのか、彼は顔を上げて私に抱きついた。気持ちの切り替えが早いな、そうぼんやりと思っていると、指が大腿部を撫でた。
「元の世界には戻りたくないだろう、でも、ここが残っている。ここは間の世界。僕と君だけが知る世界だよ。ここでなら平和に暮らせる」
肩越しに醜さを見たような気がして、私はなんだか耐え切れない嫌悪感がじわじわと生まれるのを感じた。
助かったと思っていたのになんだか大きな裏切りをされた、そんな気がして気持ちが悪い。
逃げたいのに、私には逃げる手段が残されていない。不意に、人は命に危険が迫り、その状況が悪くなるにつれ、受動的から能動的に変わってゆくという話を思い出していた。
もう、あの頃の理性的な人達は一人も残っていないのか、そう思うと不意に悲しくなった。
生き残れた事は果たして幸せだろうか、私は願った。
だれでもいい、早く私の悪夢を終わらせて欲しいと。