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The Hole  作者: 黒漆
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納屋の節穴

 月明かりに照らされ、二つの体が絡み合っていた。

 肌に浮いた雫が輝いて流れ落ちる。

 振り乱される白い髪が柔らかな弧を描きながら妖艶に空を踊った。

 きめ細やかな唇から風のような声が漏れる。やがて、緑の蛍光が二つの体の間にほとばしり、一度の終わりを迎えるが、続きを予感させる笑みが女の唇に貼りついていた。


 公道を走り街を抜け、やがてなだらかに建物と人の姿、行き合う車の数が減り始めて、道は狭まり車一台程度しか幅のない山道に至る。けれど、それでもなお止まらず走り続ける。

 できれば日暮れ前にたどりつきたい、思いつきで向かったものだから泊まる先も考えず、ただ、何とかなるだろうという、頼りない考えだけを前面に掲げて車を走らせていた。

 出身地の市までの道のりは難無く越えられたものの、そこから先となると朧気おぼろげにしか風景も思い浮かばず、行先で見かけた人に道をたずねながらの旅だった。


 向かう先は私の旧家だ。しかし、数年前に廃村となったそうで、恐らく今帰ってもその土地には泊まれる施設などないことは容易に想像できた。けれども、一目だけで良い、確かめたい場所があった。

 親が村を離れた時も、旧家は取り壊さずに戸締まりだけをして、そのまま残してきたと聞いていた。それから十数年経つが、朽ちてはいても、何か家の痕跡くらいは残されているはずだ。

 しばらくして車の動作が、がたつき始める。

 アスファルトが整備を行われていないからか、ひび割れ、端から崩れ始めていた。それが原因で上手くタイヤが、かみ合わないのだろう。ぼうぼうと伸びきった草薮くさやぶが道先の景色をさえぎる中、両脇の葉を強引にバンパで押し広げつつ進むうちに唐突に藪がひらけ、村が姿を現した。


 「懐かしい」一目見てその言葉が口からこぼれた。

 村役場と学校を兼ねた木造施設、張り巡らされた畦小川、段を成す石垣の姿。

 本当に久方振りの帰郷だった。故郷は村人最後の老人がどうにか粘って住んでいたものの、高齢からか家を離れざるを得なくなり、廃村となったそうだ。

 かつて畜産農業で栄えていた山村も、輸入業に押され、交通も容易ではない不便な土地に有ることからか廃れ始め、典型的な末路を辿ってしまった。

 今では珍しい木造住宅が、棚切りとなった土地の上に立ち並ぶ懐かしい風景も、人の手が入らなくなり荒れ果ててしまえば懐かしさよりも、どこか薄ら寒さを感じてしまう。

 両親も亡くなって久しいというのに、なぜ私は突然の郷愁きょうしゅうに捕われてこの地に足を運んだのか、理由は他にもあるが、その一つはかつて勤めていた職を辞したからだった。


 管理職につき、仕事の一大計画を完終させた時、私の中で何かが終わってしまった。

 これまでの支えや仕事に対する意欲が全て吹き飛んで、途端に何もできなくなってしまったのだ。

 医者からは精神病だと診断され、会社の中でなぜその時期にと疑われ、単に仕事が嫌になっただけだろうと中傷されもした。けれど、私自身なぜそんな状況に陥ったのかがわからなかった。


 いつまでも治らない病気に上司が苛立ちを表し始め、それを察した私は仕事場から離れた。

 蓄えは充分とは言えないまでもそれなりにはある。

 不思議なことに決意したとたん、それまでの重苦しい鬱屈感や頭痛、長年連合ってきた胃痛が嘘のように晴れて消えた。

 医師は「精神病は治りかけが一番危ない、治ったかどうかの明確な判断ができないからだ。軽く見て下手に薬を止めてしまえば、反動で自殺衝動にかられる可能性もある」と言っていたが、構わず私は薬を止めてしまった。

 痛みや不眠がなくなった以上、必要がないからだ。


 人生の再出発を迎えて、私は自分の原点とも言えるこの山村に、どうしようもない程の得体のしれない欲求衝動に駆られ、戻りたくなった。

 どの道独り身で養う者がいるわけでもなし、何人かの女性とも付き合ったが上手くいかず、何故か数ヶ月程度で別れてしまっている。

 彼女たちは口を揃えて珍しい香水を使っていると口にしていたが、私は一度も香水など使ったことはなかった。

 一度、自分の体臭が悪いのではないかと気になったが、そのうちに気が付けばそれもどうでもよくなり、独り身に慣れてしまっていた。そうして完全にあらゆる束縛から離れた私は、こうして行動を始めている。


 一番の切っ掛けは夢だった。

 幼い頃に私が経験した記憶の欠片かけら

 数年ぶりに時間を気にせず眠った際に過去の朧気な思い出が、ふいに頭の中で再生されたのだ。

 これまで数えきれないほどの夢を繰り返し見てきたはずなのに、その夢だけは忘れることができず、ずっとこびりついたように頭の中に残り続けていた。


 私が幼い頃に住んでいた家は、当時では珍しくもない木造平屋で、玄関の木戸を開ければ薪風呂、窯が土間に構えているような今では考えられない一昔前の家構えだった。

 不思議なのは現在の空調管理がより良くできている家よりもあの頃の、煤け、うす汚れた板張りの家の頃の方が冬暖かかく、夏は涼しかったような気がすることだ。

 けれども私は、そうした通常の過去への立ち返りのような懐かしさを求めて旧家に向かっているわけではない。

 今思い起こしても、それが現実にありえたことなのか、それとも幼心が抱いた幻だったのかがわからない、そんな出来事と、その結末をはっきりと思い出すためだった。


 私の旧家には本宅以外に家畜小屋と納屋があり、それぞれが別の位置に建てられていた。

 今思い返せばあの頃の家は暖かさに満ちていた、人や動物との距離がとても短かった。

 牛や鶏、ねずみよけの猫、兄弟三人に両親、祖父祖母と随分と賑やかだったものだ。

 幼子の頃、末っ子の私はいつも誰かしらの後をついて歩いていた。五つ上の兄と三つ歳上の姉は私が家を離れた後も数年その家で過ごしたが、高度成長の波には逆らえず、やがて農業をやめて私と同じく都会へと出ていった。

 祖父、祖母、父が亡くなり、牛は売られ、最後の同居人であった猫が寿命を全うすると、母は旧家を離れ、兄の家庭へと入った。


 そうした経緯も私は兄や姉から聞いたに過ぎず、結局十代の頃家を出て以来、一度も帰らずにいた。

 多忙を極め、充実した日々。

 押し流されるように急速に過ぎ、成長してゆく時代に取り残されないよう、必死だった。

 そのうち帰る、が、いつか帰るに変わり、そうこうしているうちにいつしか旧家は無人となってしまった。


 私が孤独を愛し始めたのはいつの頃からだっただろうか。兄と姉が学校に上がり、私が学校に上がる頃には三歳という年の差は大きくなり始め、兄と姉は私とあまり遊ばなくなってしまう。

 そうなると私のする遊びと言えば一人遊びか動物とじゃれ合うのが精々で、物の取り合いなどすれば、私が負けることはとうに解りきっていたから、気が付けば一人でいることが多くなり、それが当たり前となっていた。


 いつしか私は、庭の納屋に詰め込まれた藁のちょっとした合間を自分の場所と決め、良く出入りしていた。そんな時に気がついたのが、納屋の板壁にある節に空いた穴だった。

 私には穴の先は区切られた額の中の世界があって、同じ世界であるのに何か別の世界があるように見えていた。

 あの頃はそんな当たり前でさえ、どこか不思議で、魅力的に思えてしまうものだ。

 結局は同じ世界のはず、けれどもある日から、本当にこちらと穴の向こうの世界では、違って見える傾向が表れ始めた。


 それこそが夢に現れた場面だった。

 節穴から旧家を覗くと見える、人のようで人ではない何か。

 植えられている松や南天、百日紅さるすべりの庭木に紛れて立ちすくむ、茶がかった体色の何かは、いつも決まって本宅の方角を庭木に隠れるようにして眺めていた。

 そのうち、その位置に植えられているけやきの木がその別の何かに変わって見えていることに気がついた。

 思い起こせるのはその程度で、それから重要なことをその何かと話した憶えがするのに、一向に思い出せない。

 この歳になって、その何かが裸身のとても美しい女性の姿をしていたことを知る。

 幼い頃の私にとってはどうでも良かった事柄なのだけれど、一体あれは何だったのか、本当に現実だったのか。

 それらの疑問が私を故郷へと向かわせた本当の動機だった。


 草生くさむした田畑を横目に、曲がりくねる灰色のセメント道を上り、朽ち崩れかけた石垣を超えてゆくと私の旧家が存在していた山際の姿が見え始める。

 やがて視野に私の旧家があったはずの場所が入り込むと、私は息をのみ、ただ唖然としてしまった。


 家の裏庭、かつて申し訳程度の植木しかなかったその場所に、見たこともない巨木が葉を茂らせていたからだ。

 神社の鎮守の森の大木さながらに、存在感を携えて。やがて私は道に崩れ落ちた石垣の前に車を止め、降りるとその木の元へと向かった。

 幼い頃駈けた土の道がそのままに残されている、その道のりを陶然とした心を抱えて、葉の細かな堂々たる大木の根元へと走る。あれは欅、そう、あの欅だ。


 確かに家の裏手の庭にあった一メートル程の木、それがたった十数年でこれ程に大きくなれるものなのか、十数メートルはあると思われる欅は、隆々とその身に生命の輝きを湛えて、濃厚な緑を茂らせ、枝を広げていた。

 ざざざと風に震え、葉がざわめきたてる。鳥や虫の鳴き声が止まり、不意に口腔内に濃厚な森の香りが充満した気がして、私は息をはきだした。


 欅は家を侵食していた。

 太く大きく成長した幹が上框にめり込み、半ば家を持ち上げる形で時間が静止したように留まっている。

 それでも梁が丈夫なのだろうか、かつての形を大部分残したままで、それを目の当たりにし私の頭中で亡き父や祖父、祖母、そしてあの頃生活を共にしていた皆の思い出がかえった。


 幼い日の何気ない日常の風景、皆が顔を揃える食事でのでの出来事だった。

 「なぜかはわからんけど、あんた怖いよ」

 突然に私は、姉にそう言われる。責めるような眼差しが身を突く。学童となって、まだ間もない頃だったように思う。

 「なんでお前、弟にそんな事言えるん。家族やろ、そやけど言われてみたら、こん子、どこか変わった気もするわ」

 母が姉をたしなめ父が不思議そうに言葉を継ぐ。

 「そうか? 俺にはどこも変わらんように思えるが」

 「なんでじゃ、なんもかわっとらんで。わからんわ」

 私は必死で否定する、何か大切なものが奪われる、そんな気がして。

 「うちにもわからんけど、でもこの子、学級中でも女の子に嫌われてるみたいやわ。何か悪かもんに憑かれとるん違うやろか」

 そうだ、そんなやりとりが確かにあった気がする。なぜ忘れていたのだろうか、その会話の後、何か大変なことがあった、それは間違いないのに思い出せない。


 長い時間、そうして家を見上げ、ただ立ち続けていたように思う。

 頬をなでる風に冷たさが加わる頃になると私は気を取り戻し、辺りを見回した。

 すると、随分と朽ちかけた本宅とは違い、あの納屋だけは昔と全く変わらず残っていると気がついた。

 正面からでは木に隠されて見えなかった納屋が、なぜか忌まわしいものに見えてしまう。

 けれども私は確かめなければならなかった。童心の抱いた夢であればそれにこしたことはない、そうだ、下らない、何を恐れているのか。


 納屋に入ると、中はわずかに農機具が残されているだけで、すっかり何も無くなってしまっていた。

 だが、穴は依然としてある。変わらずあの頃のままで、今では屈まないと覗くことが叶わない低い位置に。

 奇妙な高揚と不安を胸中に抱えたまま、私はその穴を覗き込んだ。


 日暮れの赤々とした日の光が庭を照ら出していた。

 穴の中の風景は夢と変わらない。かつての家と家畜小屋、そして目の前にあったはずの大木は消え、代わりに夢の中の女性が佇んでいた。

 艶のある四肢、翡翠ひすいのような緑目、白く透きとおる髪、夕日に照らされ赤く燃える長い髪を手に取り、細やかな指でいている。

 彼女は穴を覗いている私を見ていた、家ではなく、私を。


 きゃらきゃらと小川を流れる水のような音が辺りに澄み渡る、それは彼女の口から発せられていた。

 その音を耳にするうちに、私は忘れていた幼い日の記憶を全て取り戻した。


 私は彼女の姿を見つけてから何かあるたびに納屋へと向かった。

 兄弟喧嘩をした時、親に怒られた時、学校で失敗をした時、寂しさを感じた時。そんな時に何時も納屋の節穴を覗いて彼女を眺めていた。

 一度目に話しかけたのはいつだったか、確か一方的に私が己に起こった事の、不平を捲し立てていただけに思える。

 長い罵倒ばとうの末にぐずっていると穴の向こうの彼女から空気に混じり合う笛のような、透明な音色が発せられていた。

 私はその音を聞いて穏やかになり、やがて藁にもたれて眠っていた。

 それから幾日も彼女に会いに行っていた。あの頃の私に恋愛の感情があったとは言えず、どこか親に甘えるような感覚でその日あったこと、辛いこと、将来の夢などを語った。

 それを続ける内いつしか、彼女との間に言葉がなくとも簡単な感情程度ならば、顔を向き合わせるだけで理解できるようになっていた。


 人ではない彼女にも感情はあった。

 そもそもあの頃の私はきっと世界にはこういった変わった人が沢山いるのだと思っていた。

 知れば知るほどに彼女は人間的で、晴れた日は嬉しそうにし、風が強い夏の雨の日は悲鳴を上げそうなほど辛そうで、雷が鳴れば震え、虫の存在を恐れていた。

 そうして私は知る、彼女が家を見ているのではなく、山を見ているのだと、彼女は自分の家、つまり山に帰りたがっていた。

 けれども私は彼女を失いたくないばかりに、そうした仕草や感情に幼さを盾に気がつかないふりをしていた。


 やがて二年が過ぎ、長い夏の季節が終わる頃、破綻は突然に訪れる。


 姉から私が何かおかしいと話されてから数日後、私はついに納屋での行いを父に知られてしまう。

 友人も作らず、一人で何をしているのか把握されていなかったので時折、父が私を監視していたのだ。それから私は全てを父に話した、板壁の穴の事、その向こうに存在している何かの事、そしてその何かと意思疎通ができること。

 父は慌てて祖父の元へ行き、あらましを伝えると、私は家の物置に閉じ込められてしまう。

 声をだして泣き腫らし、やがて泣き疲れて眠った。目が覚めた頃、不意に隣の座敷で父と祖父が話しているのを聞いた。ぼそぼそとした聞こえにくい声、それを耳が拾う。鈍い脳が、言葉の内容に触れると、一瞬で明晰さを取り戻した。

 「なあ親爺、ありゃ一体なんじゃ。俺はあんな綺麗なもん初めて見た」

 「あれはきめかみさんじゃ、えらいもん拾うたわ」

 「親爺、きめかみさんじゃって、そら作り話違うたんか」

 私は急いで布団から這い出ると、慎重にふすまに耳をつけた。

 「俺も久しく見とらんかったけん、じゃけど作り話と違う、きめかみさんはおるんじゃ、ただ昔ほどは良う見んようになった。あれは葉の間からしか見えず、男にしか見えない、わからんが、木目が同じように働いてるんと違うか、そじゃけえあん子にも見えたんじゃ」

 「じゃけど親爺が見たんは山ん中じゃ無いか、何でこんな場所におるんじゃ」

 「実はな、あの庭の欅、山で拾うたんじゃ。あんまりにも立派じゃったで、つい、な」

 「それで余計な神さんまできんさったか。親爺、どうするんじゃ」

 「どうもこうも、戻す他ないな。なに、一度抜いて持ってこられたんじゃ、大した仕事じゃあない」

 それを聞いて私は動揺した、あの子が消えてしまう、私の前から去ってしまうのだと。

 「それはそうと、あん子は大丈夫じゃろうか。きめかみさんに気に入られたら連れて行かれる言うとったじゃ無いか」

 「腑に落ちんのはそこじゃ、けども、あん子はまだ童子じゃけ、相手にされんかったんじゃろ。どちらにしても連れて行かれずにすんどるけ、大丈夫じゃろ」

 恐ろしさと寂しさ、恋しさが心のなかで絡まり合って舞っていた。

 「そうか、親爺。あれを捨てるんか、あれを。一度見ただけで忘れられないんじゃ、親爺、どうしたら良いんじゃろうか」

 「どうした? まさかお前まで憑かれたんじゃないじゃろな。いいか、余計なことを考えんことじゃ。あれは人の住んどる所に有るべきもんじゃないけ」

 私は火照る頭をそのままに、息を潜めてその話を聞いていた。


 きめかみさん、肌理神、木女神、それとも木目神と書くのか、わからないが、そこでようやくこれまで相対していた相手が私達人間と同じではなく、容易ならない存在だったと知った。

 それでも私は彼女が失われることを恐れた。

 祖父が座敷から出てゆく気配を感じた時は本当に息が詰まる思いだった。

 日が変わればもう会えない、次の日を迎えれば彼女はいなくなってしまう。


 しかし、そうした心配は結果的に言って無駄に終わった。

 納屋には近づくなと言われたものの、裏庭の欅の木は依然として植えられたままだった。

 何故だろう、彼女はどうしただろうか、また会いたい、話を聞いて欲しい。

 そんな欲求を抱えたまま数夜を過ごし、夜にならば彼女に会えるのではないかと密かに考え、私は幼いながらも無理をして、寝ずに夜を待った。

 半分眠りかけたものの、引き戸の滑る音で目が覚めた私は、戸の隙間から覗き、家の外に影がうごめいているのを見た。

 奇妙な影形のそれは恐れを抱かせるに十分だったが、表戸を抜ければあの影と対面せずに納屋に行けることを考え、勇気を振り絞って外に出てひっそりと納屋に駆け込んだ。


 そうして木目の穴から外を覗くと、何かの獣が二体、体を絡み合せ、踊っている姿が見えた。

 青白い光に照らされたそれはまるで一体の獣のようで、私は言葉を失い暫くの間じっと、その行為を覗き続けていた。

 そのうち一つがきめかみさまで、もう一つが頬を紅潮させ、息も荒い父だと知った時、私の中で途轍もない嫌悪感が立ち上がり、目を外らすと二度と見ることができなかった。


 翌日の朝、父は普段道理の姿で現れたが、強烈な樹木の香りを体から発していた。別の日に同じ香りを祖父からも感じ、私はあの夜以来納屋に近づくことを止め、二度と穴には触れず、故郷の地を離れた。


 あの夜の出来事以来、私の父と祖父は徐々にやせ細っていった。普段と変わらない日常の中で、隆々たる筋肉をもつ、かしの木ように強健であった二人が枯れゆくさまは、悲しく、恐ろしくもあった。

 それだけの変化を体現しながら、二人は平然としていた。いや、寧ろ活き活きとしていたと思う。

 それと引き換えに欅の木は有り得ない速度で成長していった。そうだ、その頃からだ、家庭内で不和が続き、徐々に壊れていったのは。私は知っていながら目を逸らし続けたのだ。知られてはならない、去らせてはならない、そればかりを想って。やがて成長と共に忌わしさを覚え、全てを忘れてしまうとは知らずに。

 傍目から見ても病気だとわかる頃になると、父と祖父は常に寝ているか、苛立っているかのどちらかで、私達兄弟や母にあたることもしばしばだった。

 母はいつの頃からか父や祖父がいない合間に庭の欅を恨みがましく見つめるようになり、いつか切り倒してやろうと口にしていた。こうして欅が現存している以上、結局母の願いは叶わなかったのだろう。


 そうしてそれ以上家に残る事が辛くなった私達兄弟は、家から一人たりとも残る事無く、都会へと出ていったのだ。そんな経緯を、私は全て忘れてしまっていた。辛く悲しい幼い日の思い出は、忘れられるべくして忘れられていたのだ。それなのに、全ての始まりである彼女は忘れる事ができなかった。


 こうして彼女の姿を目にすると、あの日の記憶をありありと思い出せる。

 父と絡み合う彼女の姿、その表情は、かつて私が覗き見ていたものとは違ってしまっていた。

 あの無垢で純心を絵にしたような美しさは、どこか汚らわしい獣じみた淫靡さに、あの頃の私はその彼女の姿に嫌悪を抱いたけれど、今の私は違う。

 恐らく彼女は私も虜にしていたのだ。

 鼻をくすぐるくらいの欅の香りが、体からずっと離れないのはそうした所に原因があるのだろう。

 逃げられない、それでもいいか、そう思うとさらに体と心が軽くなった気がした。


 私は縄を手にしている、通勤時代からずっと車に積んでいた首吊り用の縄を。

 車から降りた時から握っていた縄、私は無意識で死に場所を求めていたのかもしれない。それに今なら認められる、醜かったのは彼女ではない、嫌悪は嫉妬の裏返しだったのだ。

 あの瞬間、父と彼女のあの瞬間を見たとたん、私の中で醜い嫉妬が芽生えた。

 幼い私にはそれが認められなかった、ただ、苛立ちと嫌悪を感じ、それに立ち向かうこと一切を止めてしまった。私は縄を握り、彼女に近づいた、大木である彼女に。やっと永遠を共にする事が叶う。



 誰もいない山里で透明な音色が行き渡る。

 月灯りの下で女性が一人、寂しげに口から笛の音を響かせていた。


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