ただの幼馴染だと笑っていた婚約者が、その女性と一夜を過ごしていました。もう嫉妬深い婚約者は必要ありませんね
「彼女は妹のようなものだよ。君は、少し嫉妬深すぎる」
婚約者がそう言うたび、私は自分の言葉を思い返していた。
言い方が悪かったのだろうか。
幼いころからの友人を大切にする人に、心の狭いことを言ったのだろうか。
十一月の慈善舞踏会で、イルゼ様が胸元の青い石を撫でるまでは。
「あら、アーデルハイト様も同じものを?」
細い銀の蔓に、三つの青い石。
私とルドルフ様が、婚約五周年の記念に選んだ首飾りと同じ意匠だった。
「ルドルフが贈ってくれたんです。私の好きな色を、まだ覚えていてくれたのね」
イルゼ様は、私の隣に誰もいないことを確かめるように目を動かした。
「今夜はご一緒ではないの?」
「領地に急用がおありだと伺っています」
「まあ。お忙しいのね」
私の首飾りは、宝石箱に入ったままだった。
今夜は着けていなかったのに、彼女は私も持っていると知っていた。
胸元に伸ばしかけた手を、私は下ろした。
*
ルドルフ・フォン・バルテンシュタインと婚約したのは、私が二十歳、彼が二十三歳のときだった。
両家の望んだ縁組だったが、私は彼を好きになった。
初めて会った日の帰り際、彼は玄関の外まで追いかけてきた。
私が忘れた手袋を届けるためだった。使用人に持たせればよいものを、と父に笑われても、少し息を切らして、次も会えますか、と尋ねた。
私は馬車の中で何度も頷いてしまい、帰宅してから恥ずかしくなった。
結婚式は来春と決まっていた。
長く続いた伯爵家の領館の改修が終わり、私を迎える支度が整うからだ。
バルテンシュタイン伯爵領には、収穫が少ない年の蓄えと、それを売り急がずに済む仕組みが足りなかった。
父は婚約の話と並行して、将来、共同で穀物倉庫を整備する案を出していた。
クラウゼン侯爵家を継ぐのは兄だが、私は兄の下で領地の帳簿を見ていた。結婚後も、伯爵領の事業に関わりたいと考えていた。
ルドルフ様は、よく私を領地へ案内してくれた。
麦畑の向こうに見える古い風車と、夕方になると赤く染まる丘。
ここで暮らすのだと思うと、知らない風景まで懐かしく感じた。
イルゼ・フォン・ハルデンが王都へ戻ったのは、今年の五月だった。
八年前、十八歳だった彼女は、母親の療養に付き添って王都を離れた。
母親の体調が落ち着き、八年近くを過ごした南の領地から戻ってきたのだという。
ルドルフ様とは、子供のころから家族ぐるみの付き合いがあった。
初めて紹介された茶会で、彼女は私に両手を差し出した。
「ルドルフの婚約者に、ようやくお会いできたわ」
一つ年上のイルゼ様は、人の緊張をほどくのが上手だった。
私の服を褒め、父の話を聞き、王都で変わった店を教えてほしいと言った。
私は、仲よくできそうだと思った。
彼女がルドルフ様の腕を軽く叩いても、そのときは気にならなかった。
子供のころの失敗を笑って話す二人に、長い時間を共有した人の親しさを感じた。
自分が知らない彼を知っている人。
少し羨ましくはあったが、それだけだった。
七月になって、私との約束が変わり始めた。
庭を歩くはずだった午後、彼が来なかった。
使いが来たのは、約束の時刻を一時間過ぎてからだった。
イルゼ様が王都の店に詳しくないので案内していたら、思ったより長くなったという。
「彼女は一人で不安だったんだ。君は王都に慣れているだろう」
次に会ったとき、彼はそう説明した。
「案内なさることは構いません。ただ、私が待っているなら、先に知らせてほしかったの」
「ああ、悪かった。次からそうする」
それだけで済むはずだった。
二週間後には、私と観劇する約束を、彼女の誕生日の集まりを忘れていたからと断られた。
知らせが来たのは当日の朝だった。
「前から決まっていたのなら、そう教えてください。別の日にできますから」
「そんなに怒らなくてもいいだろう」
私は怒っていないと言いかけて、やめた。
怒っていたのだ。
会えないことより、私の予定はいつでも変えられると思われていることに。
「次の予定を決める前に、確かめていただきたいだけです」
ルドルフ様は、椅子に背を預けた。
「イルゼに張り合う必要はないよ。彼女は妹のようなものだ」
その言葉を聞いたのは、あれが初めてだった。
*
九月、私たちは婚約五周年の贈り物を選んだ。
店に並ぶ品の中で、私が手に取ったのが、銀の蔓と青い石の首飾りだった。
「君は、もっと大きい石のほうがいいかと思っていた」
ルドルフ様は驚いた顔をした。
「こちらの、石の間に空いているところが好きなの。襟の刺繍も隠れないでしょう」
「そうか。じゃあ、それにしよう」
久しぶりに二人で同じものを見て、同じ話をした。
そのことが嬉しかった。
既製品ではなく、留め具の長さを調整して仕立てることになった。
受取先は侯爵家、代金はルドルフ様の負担。
注文者として彼と私の名前を記した控えを、私は持ち帰った。
十日ほどして届いた品は、綺麗だった。
彼からは、気に入ったかと短い手紙が来た。
私はすぐ礼状を書いた。
その週末、一緒に昼食を取れないかとも尋ねた。
返事には、従妹の祝いで用事があると書かれていた。
私は首飾りを箱に戻し、次に二人で出かける日に着けようと思った。
そのころから、イルゼ様に会うのが苦手になった。
彼女は茶会で、私が知らない週末の話をした。
川沿いの店で食べた菓子、馬車の車輪が泥にはまったこと。ルドルフ様が助けてくれたのだと、楽しそうに話す。
「お二人で、いらしたのですか」
私が尋ねると、彼女は少しだけ目を丸くした。
「昔からこうですもの。今さら、付き添いが必要かしら」
周りの人が、曖昧に微笑んだ。
私も笑わなければ、場を壊すのだろうか。
そう思った自分を、あとで恥じた。
その日の帰り、私はルドルフ様に伝えた。
「人目のない場所へ二人きりで出かけることは、控えていただきたいです」
「また、その話か」
「幼馴染であることと、婚約中の振る舞いは別でしょう」
「君は、男女が親しくしていれば何かあると思うのか」
そんなことは言っていない。
そう説明しているうちに、私の声ばかりが大きくなっていった。
彼はため息をついた。
「嫉妬深いな。もっと落ち着いてほしい」
私は唇を閉じた。
帰宅してから、何を言えばよかったのか考えた。
会うなと言ったわけではない。
私だけを見てほしいと泣いてすがったわけでもない。
それでも、同じ要求を何度も言えば、口うるさく聞こえるのだろうか。
書きかけた手紙を、私は途中で破った。
代わりに、次の約束の日と時刻を手帳へ書いた。
せめて自分は忘れないように、少し太く数字をなぞった。
*
十一月の舞踏会で首飾りを見た夜、私は一人で帰宅した。
車窓に街灯が流れていく。
イルゼ様の胸元の青い光と、彼の手紙の文字が、何度も頭に浮かんだ。
たまたま同じ意匠の品を選んだだけかもしれない。
祝いの贈り物だったのかもしれない。
首飾りだけで、二人の関係は決めつけられない。
それでも、確かめたいと思った。
確かめたいとさえ思ってはいけないのだろうか、と考えるのはやめたかった。
翌朝、私は注文の控えを取り出した。
手元にあった最初の一枚は、確かに一組になっている。
宝石商へ、私たちの共同名義の注文について、最終の控えをもう一度送ってほしいと依頼した。
届いた書面には、後日の追加注文として、同意匠を一組、別送する旨が記されていた。
追加分はルドルフ様本人の署名で、同じ注文に加えられている。
別送先の個人情報を求めるつもりはなかったし、店からもその詳細は示されなかった。
私は、二組という数字だけを見た。
青い石を、まだ覚えていてくれた、とイルゼ様は言った。
私が店で選んだとき、彼が驚いた顔をしたことまで思い出した。
その午後、父と兄に時間をもらった。
話し始めると、何から説明すればよいかわからなくなった。
「彼が、ほかの方に贈り物をしたことだけが嫌なのではなくて」
父が、私の前へお茶を寄せた。
「順番に話せばよい。結論を急がなくていい」
私は七月の約束から話した。
兄は途中で一度、何度くらいあったのかと尋ね、私が手帳を開くと黙って待った。
十月には、父を交えた共同事業の打ち合わせも、ルドルフ様の急用で流れていた。
「十月十八日。伯父上の領地へ、一泊で様子を見に行くと伺いました」
私が言うと、兄が顔を上げた。
「その日程の変更なら、私のところにも来ている」
兄の書類には、日帰りの移動ではなく、宿泊を伴う視察で欠席するという連絡が残っていた。
ルドルフ様が送ってきた手紙にも、領館に泊まるとある。
私は同じ日付を指で押さえた。
父は、しばらく考えてから言った。
「まず、本人に尋ねなさい。私は伯爵に、事業の協議をどう進めるか照会する。婚約と切り離せる話ではなくなっている」
父は私を叱らなかった。
そのことに、ほっとしてしまった。
私はまだ、自分が度を越したことをしているのではないかと恐れていたのだと気づいた。
*
ルドルフ様と会ったのは、二日後だった。
侯爵家の応接室で、兄に同席を頼んだ。
彼は兄を見て、面倒そうに眉を寄せた。
「ずいぶん大ごとにしたんだね」
「首飾りについて、伺いたいことがあります」
私は最終控えを卓上に置いた。
「同じものを、イルゼ様にも贈られたのですか」
「誕生日に何も渡せなかったから、遅れて贈ったんだ。それがいけないか」
「七月には、お誕生日のお集まりがありましたね」
「集まりに出たことと、贈り物は別だろう」
彼の言葉には、答えられるところだけを答える癖があった。
私は今まで、それを見過ごそうとしていた。
「私と選んだ記念の品と同じものを、知らせずに贈った理由は?」
「気に入ったようだったからだよ。君だって、友人と同じ品を買うことくらいあるだろう」
私は書面を引き寄せた。
この問いで、欲しかった答えはもう得られないと思った。
「十月十八日には、伯父上の領館にお泊まりでしたか」
「そう言ったはずだ」
「イルゼ様もご一緒でしたか」
ルドルフ様が、私を見た。
「どうして彼女の名が出る」
「お二人で出かけることが増えていたので、確認しています」
「それをいちいち報告しろと言うのか」
兄がそこで口を開いた。
「共同事業の協議を欠席した理由にも関わります。領館への視察だったのですね」
ルドルフ様は、兄に向き直った。
「ええ。父に伝えればわかります」
父へ伝える。
彼は自分でそう言った。
私は、その言葉を聞いた瞬間の胸の冷え方を覚えている。
正式に確かめれば済む。それを大げさだと責められても、もうやめるつもりはなかった。
*
伯爵からの返答は、父への親書で届いた。
共同事業の協議を欠席した件は、伯爵自身も息子から視察と聞いていたという。
ただし、伯父の領館に確認すると、その日の宿泊はなかった。
父は私と兄を呼んで、その部分を読んだ。
「伯爵が、ご自分の家の記録を調べるとおっしゃっている。調査を続けてもよいか」
私は頷いた。
手帳の十月十八日には、二本の線で消した約束があった。
私はその夜、兄と二人で予定していた資料を読み直し、ルドルフ様にいつ見てもらえるか考えていた。
彼が領地のために働いていると、疑わなかった。
数日後、バルテンシュタイン伯爵が、ルドルフ様と共に来訪した。
卓上に置かれたのは、従者の旅程記録の写しだった。
伯爵が管理する馬車と従者の出張費を整理するための記録で、伯爵本人が確認し、この面談への提示を許可したものだという。
十月十八日、ロートの町に到着。
宿泊先は、街道沿いの宿。
イルゼ・フォン・ハルデン同行。
兄が、領館へ向かった形跡はないのですか、と尋ねた。
伯爵はないと答えた。
「従者は、お前に命じられた旅程を正しく記録していた。私に報告した視察が嘘だったのだな」
伯爵の問いに、ルドルフ様は顎を引いた。
「……急に、行き先を変えたのです」
「変更を私へ報告せず、侯爵家にも領館に泊まったと言い切ったのか」
ルドルフ様は答えなかった。
私は記録から目を離した。
同行したことと、同じ宿に泊まったこと。
それだけなら、まだ言い逃れはできるのだろう。
けれど、もう言い逃れを聞き続けたくなかった。
「イルゼ様と、一夜を共にされたのですか」
ルドルフ様が顔を上げた。
父も兄も口を挟まなかった。
「彼女にも、名誉がある」
ようやく出てきた言葉に、私は息を止めた。
「私には、ありませんか」
自分でも驚くほど低い声だった。
「私が尋ねるたびに、嫉妬だとおっしゃいました。こちらの協議を断った理由についても、嘘をつかれた。私には、確かめる権利もないのですか」
伯爵が、息子を見た。
「アーデルハイト嬢に、答えなさい」
長い沈黙があった。
私には、暖炉の薪のはぜる音がよく聞こえた。
「……一緒にいた」
ルドルフ様は、私のほうを見なかった。
「男女の関係を、持ちましたか」
彼の指が椅子の肘掛けを掴んだ。
やがて、小さく頷いた。
「その夜だけ?」
「……九月からだ」
私は、膝に置いていた手帳を閉じた。
九月。
記念の首飾りを選んだ月だった。
「君と別れるつもりはなかった。結婚は、予定通りでいい」
私は彼を見た。
何かが、ようやく終わった気がした。
「予定通りには、いたしません」
「一度の気の迷いで」
「私には嘘をつきながら、繰り返しお会いになった。それを、気の迷いで済ませないでください」
言うと、彼の顔が歪んだ。
私が冷静に話すほど、彼が苛立っていくのがわかった。
「君の前では、何を言っても試されている気がしたんだ」
「試す?」
「帳簿を見れば数字を直せと言われる。領地の話をすれば、根拠は何かと訊かれる。イルゼは、そんなことを言わない」
彼は胸の前で手を動かした。
「僕がいなければ困ると、言ってくれた。君は、何でも一人でできるだろう」
私は五年間、彼に聞いてほしかった話を思い出した。
見知らぬ土地で暮らす不安。
事業の負担を、私が引き受ける範囲。
子供のころ彼が遊んだ川へ、一度、一緒に行きたいという願い。
仕事の話も、そうでない話もあった。
返事をもらえないうちに、次の用件ばかりがたまっていった。
「私が困っているとき、気づいてくださいましたか」
彼の手が止まった。
「約束にいらっしゃらなかった日も、次は知らせてほしいと頼みました。二人きりでのお出かけを控えてほしいとも、何度もお伝えした。それでも、あなたはお続けになった」
「……悪かった。それでも、婚約を解消するほどのことか」
「私が嫉妬深かったのではなく、あなたが嘘をついていたのですね」
ルドルフ様の口元が動いた。
私は続けた。
「婚約を解消いたします。ご本人の認めた不貞を理由に、正式に申し入れます」
父が頷き、伯爵に向き直った。
伯爵は、異存はないと答えた。
当事者の証言を書面に残し、以後は両家の代理人を通して話を進めることになった。
ルドルフ様は、立ち上がりかけて、父親に止められた。
「帰るぞ。これ以上、お前の都合だけを申し立てるな」
私は頭を下げた。
彼が私に何を言ったのか、最後のほうはよく覚えていない。
扉が閉まったとき、手帳を持つ手が震えていた。
兄が、それを受け取った。
「よく話したな」
私は首を振った。
平気な顔で終えたかったのに、目から涙が落ちた。
「好きだったの」
それしか言えなかった。
兄は手帳を卓上に置いて、私の隣に椅子を寄せた。
「そうだろうな」
私が泣きやむまで、兄はそばにいた。
*
婚約解消が成立したのは、十二月だった。
五年前に交わした婚約契約には、不貞により継続できなくなった場合の精算が定められていた。
代理人がそれに従って処理し、来春の結婚は取りやめになった。
親しい家への通知には、ルドルフ様の不貞を理由として解消したと明記した。
彼自身が認めた事実を、私の嫉妬による破談に変えられたくなかったからだ。
首飾りは、ほかの婚約の贈答品と一緒に返した。
同じ意匠の品を見ても悲しくなくなるまで持っている、という選択はしなかった。
あれは私が選んだ形だったが、彼との記念として受け取ったものでもあった。
もう、次に二人で出かける日は来ない。
父たちが進めていた共同倉庫の計画は、未締結のまま止まった。
私たちの婚姻と、結婚後に私が伯爵領の事業を担当することを前提にした案だったからだ。
既に出資した事業から、資金を引き抜いたわけではない。
農家と締結済みの取引にも変更はない。
けれど、新設する倉庫の建設費と、その稼働までの運転資金を見込んでいた伯爵家は、計画を組み直さなければならなくなった。
「息子の家督継承を、そのまま進めるわけにはいかない」
父への親書には、伯爵の決断も記されていた。
家督継承の優先権を保留し、実務の成績と領内の信用を確かめる。
ルドルフ様には、領地に戻って、農地ごとの収支をまとめる仕事が命じられた。
彼が面倒だと言って私へ回していた種類の仕事だった。
冬の資金繰りをどうするか、倉庫の規模をどこまで縮めるか。
これまで私の父と兄が用意した案へ頷いていた彼が、今度は自分で説明をしなければならない。
私は伯爵家の問題を、以前のように手帳へ書かなかった。
気にならないわけではない。
ただ、何とかしてやらなければと思うたび、婚約解消の通知を読み返した。
私はもう、あの家の嫁になる人ではなかった。
*
一月、イルゼ様から面会の申し入れがあった。
私は断った。
すると今度は、慈善会の事務局を通じて、責任者の夫人を交えて話し合いたいと連絡が来た。
私とイルゼ様は、秋の舞踏会の収益を学校へ届ける催しに、それぞれ出席を予定していた。
事務局の責任者であるホルン伯爵夫人は、両家の通知で事情を知っていた。
「あなたに我慢を頼むためではありません」
父を通して連絡すると、夫人は書状でそう答えた。
「ご自身のなさった説明を、同じ相手の前で訂正していただきたいのです。同席が負担でしたら、私が直接話します」
私は、どんな説明かを尋ねた。
返ってきたのは、イルゼ様が複数の会員へ、ルドルフ様は婚約解消後に自分へ求愛したのであり、それ以前は友人だった、と話しているという内容だった。
私が過去の交友を疑って怒り、婚約を壊したとも。
誰にでも弁明して回りたいわけではなかった。
けれど、私が寄付を届けに行く学校でまで、そんな話を前提に気遣われるのは嫌だった。
私は父に相談し、伯爵夫人が主催する面談に応じた。
当日、伯爵夫人の応接室へ行くと、イルゼ様の父親であるハルデン男爵も来ていた。
夫人が、関係する家の当主として説明を求めたのだという。
私の父も同席した。
イルゼ様は淡い桃色の服を着ていた。
青い首飾りは、襟の下に隠すように掛けられていた。
「アーデルハイト様。こんな形になってしまって、申し訳ありません」
彼女は椅子から立ち上がった。
「でも、ルドルフは元から私を大切にしていて。あなたとのご婚約が、うまくいっていなかったのも存じています」
私は座る前に、彼女を見た。
「婚約中に関係を持ったことを、お認めになるのですか」
彼女は私から父親へ目を動かした。
男爵が、答えなさい、と言った。
「……はい。でも、そのころには、もう」
「私は九月に、婚約五周年の品を彼と選びました。結婚式の準備も、続けていました」
イルゼ様が唇を引いた。
伯爵夫人は、小さな書面を手に持っていた。
「婚約解消後からの関係だと、私にもおっしゃいましたね。それは訂正なさいますか」
「……いたします」
彼女の返事を受け、夫人は頷いた。
「同じ説明をお聞きになった方には、あなたから訂正していただきます。それが済むまで、春の催しの取りまとめは別の方にお願いします」
「私を、お外しになるの?」
「人を紹介し、寄付のお願いをする役目です。経緯を偽ったまま、その役を任せることはできません」
イルゼ様は、私を見た。
私に取りなしてほしいのだとわかった。
私は何も言わなかった。
男爵が、娘の代わりに謝罪した。
王都での滞在をいったん切り上げ、家族で話し合うという。
「ルドルフとの結婚についても、話は別だと伯爵から回答を受けている。お前は、それを知っていたのか」
イルゼ様が、父親を見返した。
「今は家が大変だから、落ち着いたらと」
「時期の返答ではない。結婚の約束はしていないという返答だ」
私は、彼女の指が首飾りの上で止まるのを見た。
私との婚約がなくなれば、彼女がその場所へ入れる。
そういう話を、彼はしていたのだろうか。
「そんなはずはありません。だって、私を好きだと」
「その話は、私のいないところでお願いします」
私が言うと、全員の視線が集まった。
私はイルゼ様を見た。
「私の婚約中の関係だったことを認め、説明を訂正していただく。それが今日、私が伺った用件です。あなたの縁談を、私が一緒に相談することはできません」
伯爵夫人が、静かに頷いた。
父が私と共に立ち上がった。
扉を出る前、イルゼ様が私の名を呼んだ。
「あなたは、あの人をわかっていなかったのよ。頼られたかっただけなのに」
私は一度だけ振り返った。
「それなら、私を裏切る前に、ご本人から話してほしかったです」
廊下へ出ると、父が私の肩に上着を掛けた。
私は歩きながら、ようやく息を吐いた。
もう誰かの言葉から、彼の本心を推し量る役目は引き受けたくなかった。
*
その月の終わりに、ルドルフ様から、父宛てに書状が届いた。
謝罪の機会をいただきたい、私との関係を再考していただきたいというものだった。
私は父に頼み、自分から短い返答を出した。
婚約を結び直す意思はないこと。
今後、そのための面会も求めないでほしいこと。
五年分の気持ちを書くことはしなかった。
返答を送った数日後、イルゼ様が屋敷へ来た。
玄関の応接室で、父と一緒に会った。彼女は翌日、父親と領地へ発つという。
「ルドルフから手紙が来たの」
座るなり、彼女は封筒を見せた。
「今は結婚を考えられない、期待させたなら申し訳ない、と。私が聞きたいのは、そんな言葉ではなかったわ」
私は返事をしなかった。
イルゼ様は、ほとんど独り言のように続けた。
「あなたに戻ってきてほしいと書いたんですってね。伯爵から父に、正式に縁談を進めないと説明があったわ」
私は初めて、ルドルフ様の書状を彼女が知ったとわかった。
彼女は私の返事を確かめるように顔を上げた。
「お戻りになるの?」
「いいえ」
即座に答えると、彼女は少し黙った。
「それなら、どうしてこんなことになったのかしら」
私は彼女の封筒を見た。
その問いを、私へ向けないでほしかった。
「私が譲ると言えば、彼があなたとの結婚を決めるわけではありません。最初から、私には決められないことです」
イルゼ様は封筒を握った。
爪が紙に食い込む前に、彼女は手を緩めた。
「昔は、本当に優しかったの」
その声だけは、私にもわかった。
玄関で手袋を渡してくれた彼を、私も覚えている。
けれど私は、彼女とその記憶を慰め合うことはできなかった。
父が、馬車を用意すると告げた。
イルゼ様は立ち上がり、一度、頭を下げた。
私はそれを見送った。
窓の外に、雪が降り始めていた。
私は侍女に頼み、昨日のうちに予約した王立図書館行きの馬車を、そのまま出してもらった。
彼女と話したからといって、今日の予定を全部手放す必要はなかった。
*
二月の半ば、手帳の後ろのページを切り取った。
中止になった婚礼の準備に使っていた一覧だ。
招く人、仕立ての予定、領館へ送る本。
線で消すだけでは、めくるたびに目に入った。
切り取った紙は、捨てずに封筒へ入れた。
見たくないならしまっておけばよいと、侍女に言われたからだ。
無理に燃やさなくてもいい。
忘れられない自分を、叱らなくてもいい。
新しいページには、兄から頼まれた帳簿の整理と、見に行きたい音楽会の日を書いた。
音楽会の欄を見て、私はしばらく迷った。
仕事なら、一人で出かけても平気だった。
楽しみのために出かけて、隣の椅子が空いているのを見るのは、まだ怖かった。
結局、従姉に手紙を書いた。
夕方、喜んで一緒に行くという返事が来た。
彼女も同じ演奏家が好きだったことを、私は初めて知った。
当日、舞台の幕が上がる前に、従姉が私を覗き込んだ。
「その刺繍、ご自分で選んだの? 可愛いわ」
上着の襟には、小さな青い花が並んでいた。
首飾りを着けても隠れないと、私が宝石商で話した花だ。
私は襟に触れて、頷いた。
終演後、従姉と馬車の中で好きだった曲を話した。
途中で笑いすぎて、どの曲の話をしていたかわからなくなった。
帰宅してから、手帳を開いた。
音楽会の日の下に、楽しかった、と書いた。
五文字しかない感想だったが、何度も読み返した。
*
三月、兄から農業改善の試行事業について相談を受けた。
王都近郊の数領が共同で、収穫物の保管と集荷の方法を見直す。
侯爵家も参加し、私は兄の補佐として、費用の取りまとめを担当することになった。
共同倉庫という言葉に、少しためらった。
以前の婚約とは関係がなく、対象の領地も別だったが、使っていた図面の色まで思い出した。
「気が進まなければ、ほかの者に頼む」
兄にそう言われて、私は渡された資料をもう一度見た。
各村から集めた要望に、細かい字で注記がある。
紙の上では近く見える二つの村でも、間の橋を渡れない時期がある。そう書かれていた。
「この注記は、どなたが?」
「ヴァイセン家のテオバルト殿だ。現地の調査を担当している」
テオバルト・フォン・ヴァイセン。
公爵家の次男で、三十歳。農業施策の実務に携わる人として、会合で何度か名前を聞いていた。
挨拶を交わしたこともあったが、長く話したことはない。
私は資料を机に広げた。
「まず、説明を伺いたいです」
兄は頷き、次の打ち合わせの日時を教えた。
*
テオバルト様は、手袋を外すのに手間取っていた。
事務室の入口で何か引っかかっているらしく、片方を何度か引っ張り、ようやく抜き取ると、小さく息を吐いた。
「お待たせしました」
机に置かれた手袋は、指の縫い目が少しほつれていた。
公爵家の方の持ち物としては意外だと思った。
「買い替えるのを、忘れていまして」
私が見ていたことに気づいたのか、彼は苦笑した。
「地図のこちら側に、冬場も渡れる橋があります」
挨拶のあと、彼はすぐに本題へ入った。
私は用意してきた費用の一覧を見せた。
既存の倉庫を一棟改修して拠点にすれば、新築を複数建てるより安く済むという案だった。
説明を終えると、テオバルト様は地図の端を指した。
「この三つの村から運ぶ費用は、どこへ含めていますか」
「従来の運賃を基準に、こちらへ」
「集荷の日に馬車を使える家が、村ごとに違います。個別に手配するとなると、この金額には収まらないと思います」
彼は調査書を出した。
所有する荷馬車の台数、借りられる曜日。
村ごとの聞き取りが、並んでいた。
「先に資料をお渡しするべきでした。私の説明が足りませんでした」
「……でしたら、村に小さな集荷所を残す案を、比べる必要がありますね」
私は計算の横に印をつけた。
テオバルト様が頷く。
「はい。ただ、その案にも管理する人が要ります。一人に頼ると、休めなくなる」
「人件費を削って安く見せても、続きませんものね」
話しながら、私は意外なことに気づいた。
自分の案が通らないのに、腹が立たなかった。
彼が私の性格ではなく、足りない費用について話していたからだ。
「この二案で、試算をやり直してもよろしいですか」
「お願いします。調査書は今日中にお渡しします」
「いつごろになりますか」
「午後四時までに。遅れる場合は、三時の時点でお知らせします」
私は顔を上げた。
彼はもう、次の頁を開いていた。
特別な気遣いをした顔ではなかった。
私は、わかりました、と答え、手帳に四時と書いた。
資料は三時半に届いた。
封筒には、聞き取りが済んでいない項目は空欄にしてあると添え書きがあった。
私は空欄を数え、次に確かめることを決めた。
何もわからないまま、人を待ち続ける必要はなかった。
*
四月、現地へ行った。
兄と、領内の実務を担当する人たちも一緒だった。
大きな倉庫にまとめたほうが安いと、私は考えていた。
地図の上で見た距離を、馬車で移動したときには、まだそう思っていた。
だが、一軒の農家で、実際に使っている荷車を見せてもらうと考えが変わった。
「これを使わない日は、向かいの家へ貸すんです」
農家の主人が言った。
「そちらの家で使う日は?」
「収穫の時期は同じですからねえ。順番で、待つしか」
主人は笑った。
笑って言えるほど、いつものことなのだろう。
私は調査書の数字だけでは、その待ち時間を理解していなかった。
帰り道、テオバルト様に尋ねた。
「私の案は、実情を知らなさすぎましたね」
「私も、最初は同じことを考えました」
「本当ですか」
「はい。一年前に、ここで同じ荷車を見ました」
彼は川沿いを指した。
「次は、人を増やせば済むと考えました。ところが、雇おうとした人も、自分の畑が忙しかった」
私は頷いた。
よい案を一つ出せば、全部よくなるわけではない。
紙の上で一度書き損じるより、はるかにたくさんのやり直しが要る。
村に集荷所を残す場合は、建物を借りる案で進めることにした。
すべての村を同じ形に揃えるのはやめ、運べる曜日も合わせて決める。
私はその日の夜、宿の食堂で、費用を書き直した。
兄たちは先に部屋へ戻り、侍女が少し離れた席で待っていた。
テオバルト様が通りかかり、机の上を見た。
「今日は、ここまでにしませんか」
「あと、この欄だけ」
「それを埋める数字は、明日、村長に聞かないと出ません」
「……そうでした」
鉛筆を置くと、手が疲れていることに気づいた。
彼は向かいの椅子を指し、座ってもよいかと尋ねた。
私は頷いた。
窓の外では、どこかの家の灯りが消えた。
テオバルト様は、小さく旋律を口ずさんでいた。
私が二月に聴いた演奏会の曲だった。
「その曲を、ご存じなのですか」
尋ねると、彼が少し驚いた。
「お好きですか」
「ええ。王都で、聴きました」
「私は楽譜を買いました。実際に聴くと、違いますか」
「全然。二曲目の途中で、一度、音が途切れたように感じるところがあるでしょう」
「はい」
「あそこで、会場がしんとして。誰も動かないの」
言ってから、手を止めた。
彼は私を見ていた。
領地の費用の話より、少し楽しそうな顔だった。
「続けてください」
「……ずいぶん曖昧な説明ですけれど」
「聴きに行きたくなりました」
私は、会場の話をした。
従姉が隣でこっそり涙を拭いていたことは話さなかったが、帰りの馬車で二人とも同じところを褒めたとは言った。
彼はときどき尋ね、笑い、私が話し終えるまで待った。
部屋に戻ると、侍女が私の上着を受け取りながら言った。
「お疲れが取れたお顔になりましたね」
私は鏡を見た。
確かに、食堂へ降りる前より、少し顔色がよかった。
*
五月、試行する村を決める会議があった。
すべてを一度に変えるだけの予算はなく、初年度は範囲を絞ることになった。
私は、運ぶ距離が最も長い村を優先したいと考えた。
テオバルト様は、最初に必要な建物が使える村から始める案を出した。
「困っている村ほど、後回しになりませんか」
「途中で事業が止まれば、そこまでに使った資金も戻りません。初年度の結果を確かめて、来年度へ広げたいのです」
意見が合わなかった。
私は調査書を開いて、距離の数字を示した。
彼は建物の改修費を示した。
兄が、一度、休憩を入れると言った。
廊下へ出ると、私は自分の頬が熱いことに気づいた。
また、強く言いすぎただろうか。
テオバルト様が、水の入った杯を持ってきた。
「喉が乾いていませんか」
「ありがとうございます」
受け取ると、彼は窓のほうを向いた。
「輸送の一部だけでも、今年から始める方法はないか考えています。倉庫の改修とは別に」
「私も……遠い村へ何の説明もないまま、次の年まで待ってほしいとは言いたくなくて」
彼は頷いた。
その横顔を見ながら、私は恐る恐る尋ねた。
「さっき、怒っていらした?」
「少し、急いでいました。今日中に決めたいと思っていたので」
「私に、腹を立てたのではなく?」
テオバルト様がこちらを向いた。
「意見が違うのはわかりました。あなたが黙って賛成するはずだとは、思っていません」
私は杯に視線を落とした。
彼は、すぐには続きを言わなかった。
「……そうね。そうでした」
私がそう答えると、彼はまた窓へ向き直った。
「ただ、私も引き受けられないことには、引き受けられないと答えます」
「はい。私も、もう一度考えます」
会議では、今年度の倉庫改修を一か所に絞り、遠い村については集荷の試行だけ先に始めることになった。
追加の運賃を捻出するため、私は別の支出を見直した。
彼も手配をやり直した。
どちらかが全部を呑み込んだわけではなかった。
帰宅する馬車の中で、兄が言った。
「今日の君の指摘は、必要だったと思う」
私は、自分の杯を持った手を思い出していた。
「でも、最初の案だけでは通りませんでした」
「それで、直しただろう」
私は頷いた。
帳面を閉じ、窓の外を見た。
何かを言ったあとに、一人で全部を悔やまなくてよい日だった。
*
六月の終わり、テオバルト様が打ち合わせに遅れた。
予定の半時間前に使いが来て、道で荷馬車が動けなくなったので、到着は一時間ほど遅れる見込みだと伝えた。
私は手帳を見た。
次の約束まで、一時間半しかない。
その日は従姉と、音楽会の次の公演の席を選びに行くつもりだった。
以前なら、その予定を断ったかもしれない。
待っていれば、相手が喜ぶと思っていたからだ。
「今日の打ち合わせは、別の日にお願いしたいと伝えて。こちらから、明朝、候補日を送ります」
私は使いにそう頼んだ。
使いは承知しましたと答えた。
責められることも、詳しい理由を求められることもなかった。
翌日、彼から詫び状と、候補日への返事が来た。
添え書きに、荷馬車は無事、道の脇へ移せたとある。
次に会ったとき、私は先に言った。
「その日は、ほかの約束があって」
「はい。変更に応じてくださって、助かりました」
「……私が待たなくても、お困りではなかった?」
「お待たせしたあとで、急いで説明するほうが困りました。昨日、順序を整理し直せたので、今日は短く済みます」
私は、思わず笑った。
彼も理由を尋ねず、資料を広げた。
打ち合わせは、約束の時刻より少し早く終わった。
彼は帰り支度をしてから、もう一度こちらを向いた。
「別の用件なのですが」
「何でしょう」
「次の音楽会には、もう席をお取りですか」
私の指が、鞄の留め具の上で止まった。
「夜の公演は、従姉と。でも、昼の回は、まだ」
言ってから、昼の回があるか調べたのは、自分も彼を誘いたかったからだと認めた。
テオバルト様の顔が明るくなる。
「では、そちらへご一緒できませんか」
私は頷いた。
帰宅して、七月の手帳に、公演の名を書いた。
時刻を書くとき、指が少し震えた。
太くなぞる必要は、なかった。
*
七月の音楽会には、侍女を伴って出かけた。
入口で、テオバルト様が待っていた。
前に見たものとは違う手袋を持っている。
「新しくなさったのですね」
私が言うと、彼は一瞬、手元を見た。
「はい。今度こそ、忘れないうちに」
それだけのことが、なぜか嬉しかった。
いつもと同じ人なのに、仕事の机を挟まないと、どこを見てよいかわからない。
席に着いてから、彼は舞台の左右の楽器を見比べた。
私が尋ねる前に、初めて生で見るものがあると打ち明けた。
「お詳しいのに」
「本に書いてあることだけです。音の出る瞬間を見るのは、少し緊張します」
私は笑って、彼の視線の先を見た。
奏者が椅子に腰を下ろす。
会場が静かになった。
途中、あの曲が始まった。
食堂で私が話した、音が途切れたように感じる箇所。
私は舞台を見ていたが、隣で彼が息を止めるのがわかった。
公演が終わり、広い廊下へ出ると、彼はすぐにその話をした。
「おっしゃっていたことが、わかりました」
「言葉では、うまく伝えられなかったでしょう」
「話を聞いていたから、待てました。あの静かなところを」
私は、何と返せばよいかわからなくなった。
嬉しいというだけでは、足りない気がした。
馬車を待つ間、彼は私のほうを向いた。
侍女は、少し離れた柱のそばにいた。
「今日は、お誘いしてよかったです」
「私も。来たかったの」
「また、お誘いしてもよいですか」
私は頷きかけて、彼を見た。
その言い方の慎重さが、私にもわかった。
ただ仕事の相手と公演を見る話ではない。
「あなたは、私と会いたいと思ってくださっているのですか」
尋ねたとき、胸が痛いほど鳴った。
勘違いなら笑って済ませられる聞き方は、できなかった。
テオバルト様は、まっすぐに頷いた。
「はい。仕事の予定とは別に、アーデルハイト様と会いたいです」
私は息を吐いた。
それから、頷いた。
「私もです」
彼の表情がほどけた。
私も、笑っていたと思う。
馬車が来たのに、話を終えたくなかった。
「父へ、お話ししてもよろしいでしょうか」
私が言うと、彼は、もちろん、と答えた。
正式な交際の申し込みは、その週のうちに届いた。
婚約を解消してから、七か月。
嘘を確かめるために手帳を開いた日から、八か月が過ぎていた。
*
交際を始めても、仕事で意見が違うことはあった。
会議では彼の案に反対し、その週末には一緒に音楽を聴いた。
最初は不思議だった。
何か言ったせいで次の約束がなくなるのではないかと、帰宅してから手紙の封を確かめる癖も、すぐには抜けなかった。
ある日の散歩では、私が昔から好きな舞曲の話をした。聴くだけでなく、その曲で踊るのが好きなのだと話すと、彼は曲の名前をもう一度尋ねた。
八月のある日、彼が、古くからの女友達の話をした。
王都で働き始めたころからの知り合いで、今は別の地方で学校の運営に関わっているという。
「今度、王都へ来るので、昼に会うつもりです。お話ししておきたくて」
私は少し黙った。
彼は、その沈黙を笑わなかった。
「お一人でお会いになるの?」
「共通の友人も来ます。彼女から、あなたにもお会いできればと言われていますが、急ですので、無理には」
「……予定を確かめて、お返事します」
帰宅してから、私はその話をもう一度考えた。
気持ちが全く揺れなかったわけではない。
けれど、彼は私との約束を変えたのではなかった。予定を隠してもいない。私が尋ねたことに、そのまま答えた。
私は昼食に参加した。
女友達は、テオバルト様の若いころの失敗を、本人の許しを得てから話した。
私は笑った。
彼女と彼が知っている昔の時間に、自分を押し込もうとは思わなかった。
帰り際、彼女が私に尋ねた。
「次に王都へ来るとき、音楽会の予定を教えていただけますか。彼は楽譜の店ばかり勧めるので」
私は喜んでと答えた。
テオバルト様は、楽譜の店もよい店です、と小さく抗議した。
彼女と別れてから、私は彼を見た。
「楽しかったわ」
「はい。私もです」
「少し、緊張していたの」
「そうでしたか」
「でも、今日、会えてよかったと思います」
彼はほっとしたように息を吐いた。
その顔を見て、私だけが、間違えたくないと思っているわけではないのだと知った。
*
十月、試行事業の最初の収穫期を迎えた。
予定通りにいかないこともあった。
集荷の日を変えてほしいという連絡が重なり、同じ建物を使う組合と、利用する時刻を調整し直す必要もあった。
私たちは記録を残し、来年、何を変えるかを話した。
遠い村から、最初の荷が届いた日。
私は、その荷札を見ながら、五月の会議で開いた調査書を思い出した。
あのとき黙っていなくて、よかった。
それだけで十分だと思えた。
テオバルト様は、荷の確認が終わるまで待っていた。
私が振り向くと、彼は帽子を直した。
「少し、歩きませんか」
村の外れの道へ出る。
収穫を終えた畑に、夕日が差していた。
私は手袋をした手を、自分から彼に差し出した。
彼はその手を取り、歩く速さを少し落とした。
長い沈黙のあと、私の名を呼んだ。
「来年も、その先も、あなたとこうして歩きたいです」
私は立ち止まった。
彼も止まり、こちらを向いた。
「私と、結婚していただけますか」
家名も、事業の費用も、そこでは言わなかった。
それらを話し合う必要があることは、二人とも知っている。
彼がまず、私自身の返事を待ってくれていることが嬉しかった。
「はい」
答えると、彼の手に少し力がこもった。
「あなたと一緒にいたいです」
それから私は笑ってしまった。
彼も、釣られたように笑った。
「父には、帰ってからお話ししましょう」
「はい。私からも、改めて伺います」
「兄は、仕事の引き継ぎを心配すると思います」
「それは……ご相談しましょう」
急に真面目な顔になった彼を見て、私はまた笑った。
相談すればよいのだ。
この人となら、そう思えた。
*
十一月、同じ慈善舞踏会の招待状が届いた。
昨年、イルゼ様の青い首飾りを見た会場だった。
出席の返事を書く前に、一度、窓の外を見た。
去年と同じように、木の葉が落ちている。
あの夜を思い出さなくなったわけではない。
でも、今年の予定まで譲りたくはなかった。
当日、私は青い花の刺繍のある襟を選んだ。
首飾りは着けなかった。
鏡の前で仕上がりを確かめ、侍女に頷いた。
迎えに来たテオバルト様が、玄関で私を見た。
「その花の色が、お好きなのですね」
「ええ」
私は迷わず答えた。
彼に贈られた色でも、誰かから取り戻した色でもない。
私がずっと好きだった色だった。
会場では、両家の了解を得て、婚約を正式に披露した。
伯爵夫人が私の手を取り、よかったわ、と言ってくれた。
昨年、私が一人で馬車を待った入口を、二人で通った。
楽師が、次の曲の準備をする。
テオバルト様が私に手を差し出した。
「一曲、お願いできますか」
「喜んで」
広間へ出ると、彼は少し緊張した顔になった。
踊れないわけではないが、最初の一歩に慎重になるのだと、練習した日に教えてもらった。
私は、重ねた手を軽く握った。
「大丈夫。まだ、始まっていません」
「そうですね」
彼が笑った。
音楽が流れ始める。
私たちは一緒に、一歩を踏み出した。
彼の肩越しに、昨年イルゼ様が立っていた場所が見えた。
今夜、彼女はいない。
男爵家の領地で暮らしていると聞いたきり、私は近況を尋ねていなかった。
ルドルフ様からも、あの返答以来、面会を求める手紙は来ていない。
私は視線を、目の前の人へ戻した。
彼が、何か言いたそうに微笑んでいた。
「どうなさいました?」
「いえ。お好きな曲でしょう」
「覚えていてくださったの」
私が好きだと話した曲だった。
散歩をしながら、彼に曲の名を伝えた日を思い出した。
彼は頷いた。
「お誘いできて、よかったです」
私は笑って、一緒に向きを変えた。
襟の青い花が、広間の灯りを受ける。
曲が終わるまで、私は入口の時計を見なかった。
もう、来ない人を待ってはいなかった。
~完~




