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外伝短編|音だけが、生きる理由だった

作者: 安剛
掲載日:2026/03/13

 目が見えない。

 それは、私にとって特別な出来事じゃない。


 光が消えた日を、私は今でも音で覚えている。

 病室のカーテンが擦れる音。点滴の液が落ちる間隔。靴底が床を叩く乾いたリズム。

 誰かの声が「大丈夫」と言った。優しい温度のはずなのに、言葉の端がわずかに揺れていた。


 その揺れを聞いた瞬間、私は理解した。

 世界は暗くなるんじゃない。

 暗くなるのは、外じゃない。

 自分の中の、何かだ。


 それでも私は生きてきた。

 見えないなら、聞けばいい。

 聞けば、分かる。

 息の速さ。語尾の逃げ方。沈黙の置き方。

 人の感情は、目より先に、声に出る。


 だから私は、コールセンターにいる。



 朝のフロアは、音で満ちている。

 椅子が滑る音。紙コップが触れ合う小さな鈍い音。ヘッドセットのプラスチックが指先に伝える軽さ。


 キーボードの打鍵は、雨みたいに降る。

 速い人は迷いが少ない。

 遅い人は、途中で間が伸びる。


 私はそれを聞くだけで、誰の心が今どこにあるか分かる。


「先輩、おはようございます」


 隣の席。新人のミナが、声を少し高くして言う。

 高い声は元気に見える。けれど、揺れは隠せない。喉の奥が固い。呼吸が浅い。


「おはよう。今日も入電、多そうだね」


「……怖いです。昨日、怒鳴られて」


 怒鳴られることは、珍しくない。

 怒りは、ある種の助けの信号だ。

 困っている。焦っている。どうしていいか分からない。

 その全部が、声に詰まって出てくる。


「大丈夫。怒ってる人ほど、理由がある」


「理由……」


「うん。理由が分かれば、出口も分かる」


 私はそう言って、ミナの机の端にあるメモの角を指先で整える。

 紙の端は、少しだけ湿っていた。指の汗。緊張の証拠。


「先輩って、怒鳴られても平気なんですか」


「平気っていうより……嬉しい時もある」


「え……?」


「怒りは感情でしょ。感情がある限り、人は人だよ」


 ミナが息を吸う音がした。少しだけ深くなった。

 その変化を聞いて、私の背中の奥が静かに温まる。

 この瞬間のために、私はここにいる。



 最初の入電。

 コール音が鳴る。私はボタンを押す。ヘッドセットの向こうに、男性の息が乗る。


「お電話ありがとうございます。ご用件をお伺いします」


「……あ、えっと、注文が届かなくて」


 声が揺れている。怒りじゃない。不安だ。

 息が短い。言葉が途中で切れる。頭の中が混線している時の音。


「ご不安ですよね。状況を確認します。注文番号を伺ってもいいですか」


「はい……すみません、私、こういうの苦手で……」


 謝る人は、怒っているんじゃない。

 怒りの矛先が、自分に向いているだけだ。


「大丈夫です。ゆっくりでいいですよ」


 私は相手の呼吸に合わせて話す。相手の言葉が、少しずつ整っていく。

 番号。住所。配達状況。原因。

 最後に、相手が小さく笑った。


「助かりました。ありがとうございました」


 声の温度が、さっきより柔らかい。

 受話器を置いたあと、胸の奥に、ちゃんと何かが残る。

 それが仕事の手応えだった。


 私は、この仕事が好きだった。

 見えない代わりに、私は人の心に触れられる。


 怒りも、焦りも、嘘も、全部、音として触れられる。

 だから私は、怒鳴られることすら嫌いじゃなかった。



 違和感が混じり始めたのは、いつからだろう。


 コール音。

 ボタン。

 接続。


「要点だけでいいです」


 女性の声。まっすぐで、平ら。

 怒っているわけじゃない。焦っているわけでもない。

 ただ、感情の輪郭が見えない。いや、聞こえない。


「状況を確認させてください。ご契約内容によってご案内が変わります」


「確認は不要です。条件を満たしていないなら不可。満たしているなら可。それだけ教えてください」


 言葉は正しい。

 無駄がない。

 論理は通る。


 通るのに、私の指先がほんの少し固くなる。

 ヘッドセットのスポンジを押す圧が、わずかに強くなる。


「……規約上は不可です」


「了解。ありがとうございました」


 終わり。

 短い。あまりにも短い。


 受話器を置いたあと、胸の奥に何も残らない。

 まるで、空気だけが通り過ぎたみたいに。


 私は自分の呼吸が浅くなっていることに気づく。

 理由は分からない。

 ただ、音が薄い。



 昼休み。

 休憩室の自販機が鳴る音。缶が落ちる鈍い音。開封の乾いた音。

 ベテランのユウキが、椅子に深く沈む気配がした。


「最近、変わったよね」


 ユウキの声は低い。いつもは安定している。

 でも今日は、語尾のところが少しだけ擦れていた。疲れだ。


「怒鳴る人、減りました」


「代わりに、感情が減った」


 その言い方が、妙に正確だった。


「電話も減ったしね。チャットが増えて、AIが増えて」


「……それでも、電話の人は残ると思ってました」


「残るよ。残るけど、残り方が違う」


 ユウキは笑う。でも笑いが軽い。

 音が上滑りする。


「理屈が通じる人が増えた。理屈が通じるから、すぐ切る。余白がない」


「余白……」


「余白がなくなると、私たちの仕事もなくなる」


 私は返事ができなかった。

 できないんじゃない。

 言葉が、胸の中で形にならない。



 休憩室の外で、誰かが荷物をまとめる音がした。

 段ボール。テープ。引き出しの中身。

 誰かが辞める音だ。

 最近は、その音をよく聞く。


「また辞めるんですか」


「うん。今月で3人目」


 3人目。

 数字で言われると、現実になる。


「理由、聞きました?」


「聞かない。聞いても、みんな同じこと言うから」


「向いてない、とか」


「別の仕事、とか」


 でも、本当の理由は声に出ない。

 声に出ないまま、音だけ残る。

 引き出しが閉まる音。机が空になる気配。

 その空白は、フロアに残る。



 午後。


 ヘッドセットをつける。

 コール音が鳴るまでの時間が、少し長い。


 以前は、呼吸する間もなく鳴っていた。

 今は、音が途切れる時間がある。


 空調の一定の風。キーボードの雨が、ところどころ止む。

 止むと、フロアが広く感じる。

 人が減ったからだ。


 コール音。

 ボタン。


「規約は読みました。この条件なら対応不可ですよね」


 若い男性の声。丁寧で、理性的で、完璧。

 息が整いすぎている。言葉の間が均一。


 感情があるのに、表に出していない、ではない。

 最初から、表に出す前提がない。


「はい。規約上は、その通りです」


「了解です。ありがとうございました」


 通話は30秒もなかった。

 完璧で、無駄がなくて、正しい。


 正しいのに、私は自分の喉が少しだけ鳴るのを感じた。

 飲み込む音。小さな摩擦。

 その摩擦が、どこにも行けないまま胸に落ちる。



 そして、その日が来た。


 管理画面のタイマーが告げる。


 「待機 10:00」


 鳴らない10分間。


 最初は、ただの空き時間だと思った。

 でも、音が違う。

 この10分間は、仕事の間じゃない。

 世界の穴だ。


 誰も話さない。

 キーボードも止まる。

 空調の音だけが、正確に流れ続ける。

 正確すぎる音は、逆に不安を増やす。


 ミナが小さく椅子を揺らす。

 揺らすリズムが一定じゃない。落ち着かない時の足。


「先輩……電話、鳴らないですね」


「そうだね」


 私は、声の温度を保って返す。

 保てているかは分からない。

 自分の声は、自分には少し遠い。


 ミナが笑う。

 でも、笑いが浮いている。


「楽でいいって思っちゃいました」


「……うん。そう思うのも自然だよ」


 自然。

 その言葉を口にした瞬間、私の指先が机の縁をなぞる。


 木目のざらつき。小さな欠け。

 触れることで、私は自分が今ここにいることを確かめる。


 鳴らない10分間。

 この静けさは、便利だ。

 効率的だ。

 誰も怒らない。

 誰も泣かない。

 誰も余計な話をしない。


 それでいい。

 そう言える人が増えるのは、分かる。


 でも私は、この静けさが怖い。


 なぜなら私は知っている。

 静けさは、人を削る。

 ゆっくり、気づかれない速度で。


 タイマーが進む。

 残り 07:12。

 私は無意識に息を数える。


 吸う。吐く。

 吸う。吐く。


 呼吸は続いている。

 視界はない。

 でも、音はある。


 なのに。

 私の中の「今」だけが、少しずつ薄くなる。


 残り 04:38。


 私は耳を澄ます。

 誰かの咳。紙が擦れる音。遠くのプリンター。

 フロアは生きている。

 それなのに、感情の音がない。


 残り 02:05。


 私は思い出す。

 光が消えた日のことを。


 世界は静かになった。

 でもそれは外じゃなかった。

 静かだったのは、私の中だった。


 あの日、私は失った。

 その代わり、私は手に入れた。


 声で世界を触る方法を。

 声で、人の心に触れる方法を。


 だから、この仕事は天職だった。


 なのに今、声が平らになる。

 要点だけが残る。

 会話は用件として切り分けられていく。


 その変化は、正しい。

 社会にとっては便利だ。


 誰も傷つかない。

 誰も怒鳴らない。


 それでいい。

 そう言える人が増えるのも、分かる。


 でも私は、分かってしまう。


 怒りが減ったんじゃない。

 怒りの出し方が、消された。


 不安がなくなったんじゃない。

 不安を言葉にする前に、切られた。


 そして何より。

 私の中の、反応が減っている。


 残り 00:19。


 私は気づく。

 今の私は、怖いと思えている。

 まだ、怖い。


 それは救いだ。

 怖いという感情が残っているうちは、私はまだ人だ。


 タイマーが 00:00 になる。


 同時に、コール音が鳴る。


 私はボタンを押す。

 息を整える。

 声の温度を、ほんの少し上げる。


「お電話ありがとうございます」


 向こうの声は、平らだった。


「要点だけでいいです」


 私は一瞬、喉が鳴る。

 でも、飲み込む。

 逃げないために。


「はい。承知しました」


 私は仕事をする。

 正しい案内をする。

 完璧に終える。


 通話は短い。

 受話器を置く。


 そのあと、私は気づく。

 何も感じなかったことに。


 ——ああ。


 この感覚も、

 あの日と、よく似ている。


 光を失った日の、静けさに。


 鳴らない10分間が終わっても、

 私の中の静けさは、まだ続いている。


 私は机の縁を、指先でなぞる。

 ざらつきが、そこにある。

 欠けが、そこにある。


 それだけが、今の私にとっての世界だった。

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