2話
効率と秩序を何より尊ぶこの土地では、人もまた「機能」として扱われがちだ。
歯車が噛み合えば評価され、外れれば見捨てられる。警察組織も例外ではない。正解を早く出す者、空気を乱さない者が「良い刑事」とされる世界だ。
そんな愛知県警の中で、小松椿はいつも少し浮いていた。
事件を前にしても声を荒げることはなく、資料を睨みつけるより先に、現場に立って黙り込む。
仏教書を読み耽り、因果や道理といった言葉を自然に口にするその姿勢は、捜査効率を重んじる同僚たちからすれば、遠回りで、非合理に映る。
だが椿は、答えを急がない。
人がなぜそこに至ったのか、その過程を無視して、結論だけを求めることこそが、真実から最も遠ざかる行為だと知っているからだ。
一方で、仙田平太郎は真逆の場所に立っていた。
若く、優秀で、上の指示にも忠実。だがその目は常にどこか暗く、感情を切り離したような冷たさを帯びている。
過去に何があったのかを語ることはなく、必要以上に人と関わろうともしない。彼はこの街で生き延びる術として、「考えすぎないこと」を選んできた。
そんな二人が、同じ現場に立つことになったのは偶然だった。
あるいは、椿の言葉を借りるなら、避けられない縁だったのかもしれない。
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「――少し待ってください」
規制線をくぐろうとした鑑識を、小松椿が制した。
その声は小さかったが、不思議と通った。
彼女は遺体に近づくこともせず、ビルと遺体の間、ちょうど落下地点の少し手前で立ち止まった。そして突然、その場にしゃがみ込む。
「先輩、何してるんですか」
仙田の声には、戸惑いが混じっていた。
椿は答えず、アスファルトに溜まった雨水へ指先を伸ばす。水面を軽く揺らし、しばらくその広がりを見つめていた。
「……おかしいです」
そう呟いて、今度は立ち上がり、ビルの外壁に手のひらを当てる。
濡れたコンクリートを確かめるように、ゆっくりと撫でる仕草は、まるで祈りに近かった。
「小松巡査長?」
現場責任者の刑事が眉をひそめる。
椿は壁から手を離し、ぽつりと言った。
「人は、落ちる瞬間に、必ず何かに触れます。恐怖、後悔、助けを求める衝動。しかし――」
彼女は遺体のほうを見た。
「この人は、掴もうとしていませんよね」
「……は?」
誰かが小さく声を漏らした。
仙田は慌てて遺体を見直す。
爪の割れ、壁の擦過痕、指先の損傷――確かに、転落事故にありがちな痕跡が、異様なほど少ない。
小松はさらに奇妙な行動に出た。
遺体の足元に立ち、目を閉じる。
数秒。
十秒。
雨音だけが、その場を支配する。
「ここに来る前、この人は“戻る場所”を考えていた」
目を開けずに、澄玲は言った。
「逃げるためじゃない。確かめるために」
仙田は息を呑んだ。
捜査でも、推理でもない。証拠もない。ただの感覚論――のはずなのに、なぜか否定できない重さがあった。
「先輩、それ……勘ですか」
「いいえ」
澄玲はようやく目を開け、久世を見る。
「道理です。行為の流れを辿っています」
周囲の刑事たちは、困惑と失笑を隠せずにいた。
だが仙田だけは、その場から目を離せなかった。
小松椿は、事件を“見て”いない。
事件の前と後、その間にある人間の心を、なぞっている。
――変わり者。
そう呼ぶには、少しだけ、怖すぎた。
「……小松巡査長、遊びはそこまでだ」
低く抑えた声が、雨音を割った。
中区署刑事課長・稲垣航太が、規制線の内側へ踏み込んでくる。
現場を一瞥しただけで、眉間に深い皺を刻んだ。
「鑑識、通常通り進めろ。事故の可能性が高い」
「待ってください」
椿は即座に言った。声を荒げることはないが、一歩も引かない。
「転落位置と遺体の距離が合いません。足元の水たまりも、跳ね返りが不自然です」
「だから何だ。そんなのは後でいい」
稲垣は苛立ちを隠そうともしない。
「目撃者もなし。ビル管理会社も事故扱いを望んでる。余計な波風を立てるな」
その言葉に、仙田はわずかに身を固くした。
“望んでいる”。それは、事実よりも空気が優先される合図だ。
鑑識の一人が、椿に小声で言う。
「小松巡査、手順があります。触らないでください」
「触っていません。ただ、見ているだけです」
「それが問題なんです」
ぴり、と空気が張り詰める。
椿は静かに稲垣を見た。
「課長。この人は、ここで死ぬつもりじゃありませんでした」
「根拠は?」
「根拠は、行動です」
稲垣は鼻で笑った。
「行動? 死体が何を語るっていうんだ」
「死体は語りません。でも、その人が生きていた動きは残ります」
一瞬、誰も言葉を挟めなかった。
それは捜査会議の言葉ではない。だが、澄玲の声には奇妙な確信があった。
「……もういい」
稲垣は背を向けた。
「遺体は司法解剖に回し、その結果で判断をする。わかったな」
「課長」
椿は一歩、前に出た。
「ありがとうございます」
稲垣の表情が硬くなった。
「お前は刑事だ。坊主じゃない」
「だから、見逃せないんです」
沈黙。
雨が強くなる。
稲垣は短く息を吐いた。
「……鑑識、最低限でいい。余計な線は引くな」
そう言い残し、現場を離れた。
鑑識たちは困惑したまま作業を再開する。椿の視線を避ける者もいた。
仙田は、椿の隣に立ったまま、動けずにいた。
「……小松さん、正直、無茶です」
「私は、そうは思いませんが?」
椿は、再び遺体に目を向けた。
「因果は道理を選びません。選ぶのは人間です」
仙田はその横顔を見て、はっきりと理解した。
この人は、評価されるために刑事をやっていない。
守るためでも、勝つためでもない。
ただ――“見過ごさないため”に、ここに立っている。
その在り方が、この街では最も厄介で、最も危険なのだと、仙田はようやく知った。




