1話
愛知県は、日本でも稀有な「車の街」を抱えた土地だ。
巨大な工場群が昼夜を問わず稼働し、無数の部品が組み合わされ、正確無比な工程の末に一台の車が生まれる。
効率、合理性、数字――この県の空気には、常に「正しさ」が求められている。
名古屋市中区栄もまた、その延長線上にある。碁盤の目のように整備された道路、流れる交通量、無駄を嫌う街のリズム。
人も街も、決められたレーンから外れないことを暗黙に求められる場所だ。
だが、どれほど精密に管理された街であっても、はみ出す者は必ずいる。
役割を失った部品のように、行き場をなくした人間たちは、ビルの隙間や路地の影に沈み、やがて誰にも数えられなくなる。
雨は、理由もなく降るものではない――小松椿はそう信じている。
名古屋市中区。繁華街の喧騒から一歩外れた雑居ビルの裏路地に、規制線が張られていた。
ビルの壁面を伝って落ちる雨水が、地面に小さな水たまりをつくっている。その中心に、ブルーシートで覆われた人影があった。
灰色の空から落ちる雨粒が、アスファルトに無数の円を描く。その一つひとつに因があり、縁があり、結果がある。
「先輩、濡れますよ」
背後から声をかけたのは、配属されてまだ一年の仙田平太朗だった。刑事にしては細い体躯に、どこか疲れ切った目。まだ若いのに、人生に期待していない人間の目をしている。
「被害者はこの辺の住人でしょうか」
「身元不明。所持品はほとんどなし。近隣じゃホームレスとして知られていたみたいです」
淡々と報告する仙田の声は、雨音に溶け込みそうで、どこか緊張を孕んでいた。配属されて一年、現場には慣れたはずなのに、転落死という言葉にはいまだ慣れない。
「転落ですかね」
椿はビルを見上げた。五階建ての雑居ビル。老朽化した外壁、非常階段の錆びた手すり。事故だと片付けるには、あまりに条件が整いすぎている。
「落ちたのでしょうか? 落とされたのでしょうか?」
「目撃者はいません。防犯カメラも死角です」
椿は遺体の位置、靴の向き、散らばった私物を静かに眺めた。そこには争った形跡も、派手な外傷もない。
ただ、ひとつだけ、不自然な点があった。ポケットから出てきた、一枚の名刺の残骸。
「これは……」
「クシャクシャで何も見えませんね」
椿はその残骸を手袋越しに受け取り、目を細めた。
「因果のない結果はありません。彼がここにいた理由も、この名刺も、必ず繋がりがあります」




