鯨の夢
おおむね殴り書きのような、2時間足らずで書き上げた作品のため、世界観等おぼつかないところがございます。
私の母が死んでから、途方もないような長い永い時間が経ちました。
それがどのくらい前なのか、私には知る術がありませんけれども、今目の前に見えているサンゴ礁がもっともっと大きく見えていた時でした。
私の身体が成長して大きくなったということなのでしょう。きっと、私の身体がここまで大きくなるまでに、何億もの魚さん達も、その生を費やして……それぞれ、何かを成してきたのでしょう。
それくらい、私は長く永く生きてきました。
だけれど、そんな海で私は何を成せばいいのでしょうか?
何をすれば、私は幸せになれるのでしょうか?
……私はようやく。ええ、ようやく。寿命が近いころになってそんなことを考えていました。
例えば、私のすぐ斜め上を泳いでる鮭さんは、なんと川を登って卵を産みに行くそうです。
何代も昔の鮭さんにそれを聞きました。
その為に鮭さんは、人間さんの作った狭くて薄暗い下水道だったとしても、流れの急な滝だったとしても、必死に登って。生まれ育った川にたどり着くまでに、なんと何も食べずに過ごしていくそうなのです。
こんな小さな体なのに。パンパンに膨らんだお腹の中には沢山のイクラが詰まっているのに。
私が代わりに持てればいいのに、なんて事をこれまで何千回だって何万回だって思ってきました。そんなことを、私に出来るわけなんてないのですが。
私はクジラです。大きな大きな身体ではありますが、幼い魚や、彼らの餌であるプランクトンさえ食べられれば生きていけます。──もちろんこれは私の話で、世の中には肉食のクジラさんもいらっしゃいますが──
しばらく昔に子供も産みました。ですが卵ではありません。
だって私は人間さんと同じような、哺乳類ですからね。小さな幼少期を過ごしてからは、離れ離れ。
私の子供も当然ながらクジラですから、守ってあげる必要もありません。
だって天敵なんて、この綺麗な海には余程の大きな魚しかいません。そしてそんな魚がこの海にいるのでしたら、先に親である私が食べられています。
では。──そんな私の、この世界での役目ってなんなのでしょうか?
私の、生きる意味とは……何なのでしょうか?
私のお母さまが亡くなる前に、一度だけ聞いてみたことがあります。
「ねえ、お母さま。どうしてこんなに海は綺麗なの?」
「それはね、私たちが生きているからなのよ」
お母さまとの最期の会話はそれでした。
次にお母さまを見た時、その大きな身体は海の底に沈んでいたのです。今の私と同じように、寿命だったのでしょう。
母さまだったその身体は穴ぼこだらけで、かつて目のあった其処から小魚が泳いできました。
ぽっかり開いた口の中には、たくさんの魚が住んでいましたし、カニさんだってそのハサミでお母さまの身体を切り取っていました。
私も、死んだら『こうなる』のでしょうか?
死んだクジラは朽ちて死ぬだけなのでしょうか?
私たちは『こうなる』のが嫌だから、死にたくないから、その気持ちだけで生きているのでしょうか?
それは、なんだか違うような気がしたのです。理由はありません。老いたクジラの直感です。
私は久しぶりに、大きな口を開けてみました。
……べつに、お腹が空いてプランクトンを食べたくなったのではありません。
私もおばあちゃんですが、目についたものを全部口に運んでしまうほどボケてはいません。
すぐ斜め上を泳いでいた、お腹を膨らませた鮭さんに、声をかけてみたかったのです。
「すみません、鮭さん。鮭さんは何のために生きているのですか?」
「難しい質問だね」
鮭さんは、続けて言いました。「いつの時代になったとしても、僕の子供達が生きてくれるためかな」
私はたまらず、間髪入れずに言いました。
「そんな生き方は、楽しいのでしょうか?」
「楽しいさ」
鮭さんはこれまた間髪入れずに言いました。
「だって、僕の生まれた責任を果たせるんだからね」
『責任』?……責任って、なんだろう
私の責任って……なんだろう?
「僕はもう行かないと。クジラさんも、お元気で」
……私は、何をすればいいんだろう?
老いたクジラは、一人ぼっちになってしまいました。
私はその一心で、重い身体を引きずりながらではありますけれど。
遠く遠くに泳いでみることにしました。
今からでは遅すぎるかもしれない。けれど、残り少ない寿命ですから、せめて自分のために生きてみようと考えたのです。
そのブヨブヨしたヒレはもう若い頃のように動きません。
あちこち岩肌にぶつかって、私の口の横に傷をつけました。
けれど感覚はありません。きっと、死が近いのでしょう。
しかし気づけば、そこは広い海。今まで生きてきた海とは別のところなのでしょう。
初めて見る景色だったというのに、それはとても……決して喜ばしいものではありませんでした。
……こんなに広いのに、どうして海の底には何もないのでしょうか。
今までずっと私が暮らしてきたのは綺麗な海だったのに、どうして此処には何もないのでしょうか?
一面に広がる黒い岩肌は、何も答えてくれません。
海の底。一人ぽつんとうなだれているカニさんに、声をかけてみたくなりました。
この黒い中、たった一匹でいたからです。
私は身体を下に向けて、海の底へ沈んでみました。
けれど、それがいけなかったのでしょうか?傷ついた身体は、私の老いた大きな身体は、水温や水圧の変化に耐えきることができませんでした。
──冷たい。背中の骨が冷えました。そこから頭の下、お腹まで、冷えていきました。
どんどん、沈んでいきます。
深い海だからでしょうか?いいえ、きっとコレは違う。
私の寿命が、来てしまったのです。
薄暗い意識の中で、私は質問を繰り返しました。答えがないのですから、自問自答というわけには行きません。
お母さま。結局私は、何を成せたのでしょうか?
私の『責任』とは何だったのでしょうか?
くらくらり、意味を持たない言葉の羅列が頭に浮かんでは消えていきます。
黒い岩肌の表面に沈んだことすら、私の意識は感じることさえ出来ませんでした。
ぐらり、ふらふらり、と。
なにもかんがえることのできないまま
わたしのたましいは、どこかにひっぱりあげられていきました──
……そうしてしばらく経った頃、私の意識に光が生まれました。
閉じたまぶたの隙間から、まばゆい光が飛び込んできました。
ぷかぷか浮かぶような、感触。今まで苦しんでいた老いたクジラの体なんかじゃなくて、今私は自由になったんだと思えるような。そんな感覚。
私の身体は、ぷかぷかと浮かぶ一つの光の玉になっていました。辺り一面は光の国。真っ白で、だけれど温かい。
そして、私の目の前にはお母様がいました。
先程声をかけた鮭さんも、その横にいました。
「おめでとう、私の娘。此処は天国よ」
「おめでとうクジラさん、僕もなんとかここに来ることが出来たよ」
この身体は……魂?なのでしょうか?
丸い光の玉になって、私達は今ここにいます。
しかしそれよりも。聞きたいのは先程かけられた言葉でした。
「ここは、天国なの?私は何もしていないのに、どうしてここに来れたの?」
私の何度目かの質問に、今度は母さまから答えが返ってきました。
「あなたが泳いでいるだけで、その近くには危ない魚が来れないの。だから、あなたが生きてきた海は綺麗なのよ」
私は今までに、天敵といえる生物に会ったことがありませんでした。
それで良かったのかもしれないけれど、その理由が、「私がいるから」だったなんて。唖然とする私に、母さまは続けて言いました。
「だからあなたは、ただ生きているだけで良かったの」
生きて、泳いで、そこにいる。それが私の『責任』だったのでしょうか。
私はふと怖くなって、こんな事を聞きました。
「じゃあ、死んだら責任を果たせません。死んでしまった私は、本当に天国にいるべきなのですか?」
鮭さんは、何も言わずに下を指さしました。そこには、老いぼれたクジラの身体……きっと、死んだ私なのでしょう。それが、海の底に沈んでいました。
けれど一つだけ違うのは、私の体の周りの海はとても綺麗でした。
サンゴ礁は色とりどりで、カニさんの家族は一人だけだったのが、今では列を作っている。その近くを沢山の鮭の群れが通り過ぎていきます。そして──
「あ……!」
私が産んだ子クジラ。彼が、口を開けて通り過ぎました。そうだ、生きていたんだ。天敵が居ないんだから当たり前ですが。私は目を見開きました。
あんなに冷たくて黒かった海が、どうしてこんなに綺麗なのでしょうか。
そして、そんな綺麗な海で私の子が泳いでいるのは何故なのでしょうか。
その答えは、すぐそばにありました。
「私の身体を、みんなが食べてるんだ」
鮭さんだった光の玉は、コクリとうなずくように揺れました。
そのとき、私の脳裏に。昔の景色が過ぎります。
あの時暗い海に沈んでいた母さまの身体。
穴だらけで、皆に食べられていたあの身体。まるで雑に食い荒らされたように見えていた、ソレだったのですが……
今になってソレが、とても誇らしく神聖なものに思えてきたのです。
私がこの海で幸せでいられた理由は。この海が、母さまや、その前のクジラがくれた平和な海だったからなのでしょう。
私たちクジラから海の生態系は始まるのです。
生態系から綺麗な海は広がっていって、その綺麗な海でクジラは生きることが出来るのです。
「わかったかしら」
母さまが、優しい目を私に向ける。「あなたは、責任を果たしたのよ。だから、ここにいていいの」
光の玉が漂う天国で、海の仲間達だった魂たちが、私を迎えてくれる。
私の大きな身体が、私が生きている間嫌いだったあの大きな身体が、ここに居るみんなを守っていたんだ。
だから、私はここにいてもいいんだ。
……彼女が顔を上げて、たくさんの光の玉を見上げて言おうとしたその言葉。
「お……教えてくれてありが──」
しかしその「ありがとう」は、今までずっと彼女に与えられることのなかった、もっともっと多くの「ありがとう」に包まれた。
クジラの夢はここで終わる。
もしも人間が同じ場所に行きたいなら、どうすべきでしょうね。