潮風と淡い記憶
机に座った満里奈は、ふと窓の外を見た。
…何かが動いたような…上から下に景色が歪んで見えたような…。一瞬、遊歩道の空気が揺らぎ、透明な陽炎のようなものがちらりと見えた気がした。心臓が少し速くなる——オルガの光学迷彩? いや、まさか。学校に潜入するのは禁止したはずだ。
満里奈「…気のせいかな…」
ふと、目に入る海岸。
そこに伸びる遊歩道。
まばらに、人が歩く姿が見えた。
穏やかな海の景色が、満里奈の心を過去へ引き戻す。
あの春の日々、潮風に包まれた出会いと別れ…。
あの人の笑顔が、波のように蘇る……。
満里奈「………」
思考が時を遡る…あの日の光景が蘇る…。
*
ひのきヶ丘市は、太平洋に面した穏やかな港町だった。
街の名前の由来である檜の木々が連なる丘陵地帯が、街を優しく囲み、その向こうに広がる青い海が、訪れる人々の心を魅了する。
春の三月、雪解けの水が川を流れ、海に注ぎ込む季節、街は柔らかな光に満ちあふれる。海岸線は岩礁が点在し、波が打ち寄せるたびに白い泡を立て、遠くの水平線まで続く海面が、太陽の光を反射して輝く。空は淡い水色に染まり、時折、渡り鳥の群れが優雅に翼を広げて飛んでいく。
潮風が運ぶ塩の香りは、街全体を優しく包み込み、日常の喧騒を忘れさせる。
丘の斜面には野花が咲き乱れ、ピンクや白の小さな花々が風に揺れて、まるで街が生きているかのように息づいている。遠くの岬では、漁船がゆっくりと出港し、海面に白い航跡を残す。ひのきヶ丘の自然は、四季を通じて人々を癒し、特に春の訪れは、新しい始まりを予感させる。
この街の海岸には、よく整備された遊歩道が延びていた。
木製の板張りでできた道は、岩場や砂浜を避け、海沿いを蛇行しながら続く。手すりが設置され、ベンチが点在し、車椅子やベビーカーでも移動しやすい設計だ。遊歩道からは、海の眺めが抜群で、波の音が間近に聞こえ、遠くの岬に立つ灯台が見渡せる。春の陽光が道を照らし、道端に咲く野花が彩りを添える。
道の脇には小さな看板が立ち、街の歴史や海の生態について説明が書かれている。時折、散策する人々がすれ違い、軽い挨拶を交わす。遊歩道の途中には展望台があり、そこから見る海は圧巻で、波の動きが永遠のリズムを刻む。
潮の満ち引きによって、岩の間の潮だまりが現れ、そこで小さな生き物たちが活発に動き回る。こうした自然の細やかな美しさが、ひのきヶ丘の遊歩道を特別な場所にしていた。
満里奈は、そんなひのきヶ丘市で育った12歳の少女だった。
中学入学を控えた三月、彼女は毎日のように自宅近くの海岸遊歩道を、たこ焼きを食べながら散策するのが習慣になっていた。家は丘の麓にあり、庭先から海が見渡せた。
母親は地元の漁師の娘で、父親は街の小さな書店を営んでいた。
満里奈は明るく好奇心旺盛な性格で、髪を肩まで伸ばし、大きな青い瞳が印象的だった。彼女はいつも、ポケットに小さなノートを忍ばせ、海の風景や出会った人々をスケッチするのが好きだった。あの頃の満里奈は、世界が無限の可能性に満ちていると感じていた。
今日も、学校の春休みを満喫しようと、ウエストポーチにお菓子をしこたま詰め込み、白いワンピースを着て遊歩道へ向かった。足元はスニーカーで、木の板の感触が心地よい。
家を出る前に、母親に「海を見てくるね」と声をかけ、軽い足取りで丘を下った。
道中、檜の木々の間を風が通り抜け、爽やかな香りが鼻をくすぐる。満里奈はそんな日常の小さな喜びに、心を弾ませていた。ポーチから取り出したたこ焼きを頰張りながら、波の音に耳を傾ける——これが彼女の小さな幸せだった。
遊歩道は、街の誇る自然の散策路だった。
起点は街の公園から始まり、海岸沿いに数キロ続き、岩礁の間を縫うように進む。波は穏やかだが、時折大きなものが打ち寄せ、遊歩道の下の岩に当たって水しぶきを上げる。遠くの岬には灯台が立ち、夕暮れ時には赤い光を灯す。満里奈はベンチに座り、海を眺めながらぼんやりと未来を想像していた。
中学生活、友達、新しい出会い……そんな思いに浸っていると、
ふと、近くで異音がした。
木の板がきしむような音と、車輪の回転音が混じっている。好奇心から立ち上がり、周囲を見回すと、遊歩道の曲がり角で何かが止まっているのが見えた。
満里奈「えっ、何?」
視線を移すと、遊歩道の段差のある曲がり角で車椅子が立ち往生していた。乗っているのは、同い年くらいの少年。黒い髪が風に揺れ、眼鏡をかけた顔は少し青ざめていた。彼は車椅子の車輪を必死に回そうとしているが、道の傾斜と小さな段差で動かない。
満里奈は迷わず駆け寄った。
少年の表情には焦りと諦めが混じり、汗が額に浮かんでいるのが見えた。彼女は自然と声をかけ、手を差し伸べた。
満里奈「大丈夫? 助けようか?」
少年は驚いた顔で彼女を見上げた。
少年「あ、ありがとう……。ここ、段差があって、乗り越えられないんだ」
声は少し弱々しく、しかし礼儀正しかった。満里奈は車椅子の後ろに回り、力を込めて押した。
満里奈「ふんぬぅ!!」
木の板が少し滑るが、何とか段差を越え、平らな遊歩道へ導いた。少年は安堵の息を吐き、微笑んだ。
少年「助かったよ。ありがとう」
その笑顔は、穏やかで、眼鏡の奥の目が優しく輝いていた。満里奈は少し照れくさくなりながら、
満里奈「ううん、当然だよ。ここ、結構段差あるよね。気をつけないと」
と返した。
そして、満里奈はポーチからゴツいタフネススマホを取り出すと、Web画面を開き検索をはじめた。そして、鮮やかなタイピングでどこかに電話をかけはじめた。彼女の行動はいつもこう——問題を見つけると、すぐに行動に移す。少年は少し戸惑いながら見守った。
少年「…何してるの?」
満里奈「遊歩道に段差があるって市役所にクレーム。やかましく言わなきゃ」
少年「いや、良いよ」
満里奈「ダメダメ、こういうのは早く言わなきゃ。うちら税金払ってんだから、ちゃんと管理しとけって説教しとくから待っててね♡」
少年「は、はぁ…(税金払ってるのはご両親なんだけど…)」
そして、そこから満里奈の独演会が始まった。
〇び太のママのごとく、大げさに手を振り上げながら五分間喋りまくった。その動きはまるで動画の早送りのようであった。電話の向こうの職員は、きっと困惑しているだろう——少年はそう思い、苦笑した。
…通話を終わる満里奈。その表情は清々しく爽やかであった。少年は、電話の向こうの市役所職員を気の毒に思った…。
そこから二人は自然と会話を始めた。
少年の名前は悠斗。母方の実家がひのきヶ丘市にあり、休みを利用して帰省中だった。写真家を目指す彼は、首から古いカメラを下げていた。満里奈はそれに目を留めた。カメラは金属の光沢があり、古風なデザインが好奇心を刺激した。
満里奈「君の持ってるカメラ、変わった形してるね。なんでボタンとか液晶画面が無いの?」
悠斗は笑って説明した。
悠斗「これはライカのフィルムカメラだよ。今のデジカメとは違って、手動で操作するから、そんなものはないんだ」
彼はカメラを手に取り、丁寧に触れながら話した。満里奈はさらに興味を引かれ、目を輝かせた。
満里奈「フィルムカメラ……フィルムって何?」
悠斗「昭和の遺物さ」
悠斗は冗談めかして言ったが、満里奈は首を傾げた。
満里奈「昭和って……そんなの今でもあるんだ」
彼女の素直な反応に、悠斗はくすくすと笑った。
悠斗「うん。デジカメ全盛の今でも、フィルムカメラは人気があって、僕もその一人なんだ。デジタルみたいにすぐ見れないけど、それが面白いんだよ」
満里奈は興味津々で質問を続けた。
満里奈「それって、使うの面倒じゃない? ピントとかどうやって合わせるの?」
悠斗「面倒だよ。でも、フィルムにはデジタル写真にはない良さがあるんだ。古き良き時代というやつだよ。色合いが柔らかくて、思い出が染み込む感じがするんだ」
悠斗の目はカメラを見つめながら、夢見るように遠くを見た。満里奈はそんな彼の情熱に引き込まれる。
満里奈「へえ、すごいね。じゃあ、私も撮ってみていい?」
悠斗は少し躊躇しつつも、頷いてカメラを貸してくれた。
悠斗「うん、でも丁寧に扱ってね。フィルムが入ってるから」
彼はカメラを渡しながら、軽く操作方法を説明した。
満里奈は興奮気味にカメラを受け取り、じっくりと観察した。金属の冷たい感触が手に伝わり、ワクワクした。
満里奈「…これは何のボタン?」
少年は一瞬で顔色を変え、慌てて声を上げた。
悠斗「…あっ、それは!!」
しかし、遅かった。満里奈の指がカメラの背面にある小さなレバー状のボタンを無邪気に押してしまった。パチンという小さな音が響き、カメラの蓋がぱかりと開き、中のフィルムロールが明るい春の陽光にさらされた。
フィルムは黒い筒状のものから少し飛び出しており、感光面が白く光を反射して見えた。遊歩道の明るい日差しが、容赦なくフィルムに降り注ぐ。
これが何を意味するのか、謎の少佐が説明しようッ!
突然だがここでェーッ! フィルムが感光してはならない理由について、貴様にもよくわかるように説明してやるぞォォォ! ドイツの科学力をもってすれば、こんな簡単な理屈、貴様にも理解できるはずだァァァ!
フィルムとは光で刻印する記録媒体だァァァ!
フィルムカメラに使うフィルムはな、ハロゲン化銀という光に敏感な物質を塗布した感光材でできているのだァァァ! 貴様がカメラのシャッターを切った一瞬、レンズから入ってきた光が、このハロゲン化銀と反応して像を焼き付けているのだァァァ! これが写真の原理だァァァ!
撮影前の感光は許さんッ!
いいか、撮影前のフィルムはな、カメラの内部で光を遮断された暗闇に置かれている! これは、光がハロゲン化銀に勝手に反応しないようにするためだァァァ!
もし、貴様がうっかりカメラの蓋を開けようものなら、外の光がフィルム全体を舐め回すように照射し、ハロゲン化銀が一斉に反応して真っ白(または真っ黒)に塗りつぶされてしまうのだァァァ! こうなれば、もう写真の像はどこにも焼き付かぬ! 白紙のキャンバスに光の絵を描くはずが、すでに光に満たされていては描くことはできんッ!
取り返しのつかぬ損失ゥゥゥ!
デジタルカメラと違って、フィルムは現像するまで結果がわからん! 貴様が撮った大切な風景や、愛すべき者たちの姿が、すべて無駄になってしまうのだァァァ! 一本のフィルムには、せいぜい24枚か36枚しか撮れない! それを一瞬のミスで全て失うのだ!
フハハハ、ドイツが誇るライカのような精密機械を扱う者が、そんな初歩的な操作ミスを犯すとはな!
ドイツの科学をもってしても、タヌキのミスまでは防ぎきれんッ!
この損失は、貴様の思い出そのものも破壊するのだァァァ! 悠斗の精神的なダメージは計り知れんぞッ!
真のカメラマンは、ドイツの技術を使いこなし、決して無駄なショットは撮らぬ! そして何より、フィルムを決して光に晒さぬ!
わかったなァァァ!? さらばだぁぁーーッ!
満里奈「…………なんか、今変な声が聞こえた気が…?」
悠斗「あああああ…」
満里奈「?」
満里奈は悠斗の反応を見て、ポカンとした表情で固まった。大きな青い瞳がまん丸くなり、口を少し開けて困惑したまま動かない。彼女はカメラの中身を覗き込み、
満里奈「…なにこれ、中こうなってるんだ…。悠斗君、どうしたの?」
と無邪気に尋ねるが、内心では「え、何か悪いことした?」という不安がよぎり始めていた。好奇心から生まれたミスに気づかず、ただ悠斗の過剰な反応に戸惑うだけで、頰が少し赤らむほどの無垢なポカン顔だった。
とりあえず謝ることにする満里奈。
満里奈「…悠斗君ごめん、本当にごめんなさい!!」
悠斗「…いや、良いよ満里奈さん。僕がちゃんと説明しなかったのが悪かったんだ…」
そうして二人は遊歩道のベンチに座り、カメラの操作で話しながら、時間を忘れた。
満里奈の謝罪がきっかけで、会話は自然と深まり、悠斗はフィルムの交換方法を教えながら、自分のことを明かした。
車椅子なのは交通事故にあったのが原因だと話す。
満里奈は驚きつつも、「一緒に楽しもうよ」と励ました。二人は大笑いした。
海風が心地よく吹き、波の音がBGMのように響く。悠斗は車椅子で遊歩道を移動し、満里奈は並んで歩いた。ひのきヶ丘の海岸遊歩道は、夕陽が沈む頃に特に美しい。太陽が水平線に近づくと、海面が黄金色に染まり、道沿いの岩影が長く伸びる。
二人はそれぞれ家路についた。満里奈の心は、初めての出会いにワクワクしていた。ひのきヶ丘の夜空は星が満天で、遊歩道からの帰り道、潮の香りが残る。彼女は家に着くと、日記に今日の出来事を記した。悠斗のカメラの話、笑顔、ライカの幽霊、海の景色……すべてが新鮮だった。
*
翌日、満里奈は約束通り遊歩道へ向かった。
朝の光が海を照らし、波が穏やかに寄せる。遊歩道の脇には小さな潮だまりが見え、カニや貝がいる。道端の野花が朝露に濡れ、輝いている。満里奈は昨日の興奮を胸に、早足でベンチに向かった。
悠斗はすでに来ていて、車椅子でベンチの近くにいた。カメラを手に、風景を狙っている。朝陽が彼の顔を優しく照らし、眼鏡が光を反射する。
満里奈「おはよう! 早いね」
満里奈の声が明るく響く。
悠斗「おはよう。昨日楽しかったから、早く来ちゃった」
悠斗は微笑み、彼女を迎えた。
二人はすぐに打ち解けた。満里奈は悠斗の車椅子を押し、遊歩道を散策した。ひのきヶ丘の自然は多様だ。遊歩道沿いの丘には檜の森が広がり、風に葉ずれの音がする。海鳥が飛び交い、時折、イルカの群れが沖合に見える。
満里奈は「見て、イルカだよ!」と指さし、悠斗はカメラを構えて撮った。「いいショット!」と喜ぶ二人の声が、重なる。
悠斗はフィルムカメラの使い方を教え、満里奈にシャッターを切らせた。
悠斗「こうやって、ピントを合わせるんだ。デジタルみたいに自動じゃないから、集中力がいるよ」
彼は手を取り、丁寧に指導した。満里奈は興奮気味に質問した。
満里奈「わあ、面白い! でも、失敗したらどうなるの?」
悠斗「それがフィルムの醍醐味さ。現像するまでわからないんだ。ドキドキするよ」
二人は交代でカメラを扱い、互いの姿を撮り合った。満里奈が悠斗を撮ると、「僕、車椅子だから変じゃない?」と心配する彼に、「全然! かっこいいよ。写真家みたい」と励ます。
会話は尽きなかった。満里奈は「一緒に思い出作ろう」と提案した。彼女の明るさが、悠斗の心を軽くする。
日々が過ぎ、二人は毎日遊歩道で会った。
三日目には、道端の野花を摘んで花冠を作り、満里奈が頭に付けると、「似合うよ!」と褒めた。
四日目にはベンチに座って夕陽を眺めた。ひのきヶ丘の夕陽は壮大だ。太陽が海に沈む瞬間、空が橙から紫へ移ろい、海面が鏡のように反射する。波の音がリズムを刻み、遠くの船の汽笛が響く。
二人は肩を寄せ、静かに見入った。「きれいだね……」満里奈のつぶやきに、悠斗は「君がいると、もっときれい」と小さな声で返した。満里奈は頰を赤らめ、照れ隠しに笑った。
五日目、悠斗は満里奈のポートレートを撮った。彼女は花冠を頭に付け、白いオフショルダーのトップスを着て、遊歩道のベンチに立った。背景は波が打ち寄せる海と岩礁。風が髪をなびかせる。悠斗は車椅子からカメラを構え、「笑って!」と言った。満里奈の青い瞳が輝き、穏やかな笑顔が広がった。
悠斗「きれいだよ、満里奈さん」
悠斗の声は少し震えていた。満里奈は照れくさそうに、
満里奈「ありがとう。でも、君の写真の腕がいいんだよ」
二人は撮った写真について想像を膨らませ、現像の楽しみを共有した。
交流は深まった。悠斗は満里奈にフィルムの歴史を教え、
悠斗「昔の写真家たちは、暗室で一枚一枚現像したんだよ。魔法みたいだろ?」
と熱く語った。
満里奈は街の伝説を話した。ひのきヶ丘には、古い神話があり、海神が守るという。波が荒れる日は、神の怒りだとか。二人はそんな話をしながら、時間を忘れた。遊歩道の曲がり角では、海の眺めが開け、潮風が強く吹く。ベンチで休み、波音を聞きながら、心を通わせた。
六日目には、互いの家族の話をし、七日目にはお弁当を持ってピクニックをした。サンドイッチを分け合い、笑い声が遊歩道に響く。「君と話すの、楽しいよ」悠斗の言葉に、満里奈は頷き、「私も! 毎日が待ち遠しい」と返した。二人の絆は、日ごとに強くなっていった。
しかし、七日目。満里奈が遊歩道に行くと、悠斗の姿がない。待てど暮らせど来ない。波の音だけが寂しく響く。
翌週も……同じだった。満里奈は不安に駆られ、毎日遊歩道を訪れたが、悠斗は現れなかった。ひのきヶ丘の春は美しく、桜が丘に咲き乱れるが、満里奈の心は曇っていた。彼女はベンチに座り、悠斗のカメラのことを思い出し…涙ぐんだ。
*
中学入学式の朝、ひのきヶ丘市は春の息吹に満ちていた。
丘陵地帯の檜の木々が柔らかな風に揺れ、葉ずれの音が街全体に優しいメロディーを奏でる。空は澄み渡った青で、太陽の光が海面をキラキラと照らし、遠くの水平線まで続く波が穏やかに寄せては返す。
満里奈の家から中学校までの道は、桜の並木道で、この時期はピンクの花びらが舞い散り、地面を淡い絨毯のように覆っていた。彼女は新しい緑色の制服を着て、胸に小さなリボンを付け、鏡の前で何度も髪を整えた。黒の髪が肩に落ち、大きな青い瞳には期待と少しの不安が混じっていた。
満里奈「今日から中学か……悠斗くん、元気かな?」
心の中でつぶやきながら、家を出た。道中、潮風が頰を撫で、波の音が遠くから聞こえる。あの遊歩道の記憶が、胸を締め付ける。
学校は丘の上にあり、登り道の途中から海が一望できる。入学式の会場は体育館で、桜の枝が窓から覗き、新入生たちの興奮した声が響く。式は厳粛に進み、校長の言葉が未来への希望を語る。
満里奈は席に座り、周りの新しい顔を見回しながら、ふと悠斗のことを思い出した。あの遊歩道での日々、笑い声、カメラのシャッター音……。
式が終わると、クラスメートたちと軽く挨拶を交わし、友達ができそうな予感に心が弾んだ。
入学式が終わった後、ひのきヶ丘中学校の校庭は新入生たちの興奮したざわめきに満ちていた。桜の花びらが風に舞い、柔らかな春の陽光が地面を優しく照らす中、満里奈は体育館から出て、ゆっくりと校舎の方へ歩いていた。
新しい制服のスカートが軽く揺れ、胸にはまだ入学の余韻が残っていた。悠斗のことを思い出し、心に少しの影が差していたが、周囲の賑わいがそれを紛らわせてくれるようだった。
突然、満里奈の前に一人の少女が現れた。
吹奏楽部のチラシを手に、優雅な笑みを浮かべて立っていた。彼女は中学二年生とは思えないほど大人びた美少女で、黒く美しい長髪が背中まで流れ、艶やかな光沢を放っていた。肌は白く透き通り、目元は優しく弧を描き、全体としてどこかのお嬢様らしい気品が漂っていた。制服の上に羽織ったブレザーが、彼女の洗練された雰囲気をさらに際立たせている。
「お初にお目にかかりますわ。新入生の満里奈さん、でしたかしら? わたくし、吹奏楽部の副部長を務めております。うふふ、よろしくお願いいたしますわね」
彼女の声は柔らかく、特徴的なお嬢様言葉が自然に流れ出た。満里奈は少し驚いて立ち止まり、青い瞳を丸くした。こんな美しい先輩に声をかけられるなんて、予想外だった。
満里奈「え、はい……満里奈です。どうして私の名前を?」
彼女はくすりと笑い、チラシを優しく差し出した。
「あらあら、式の席であなたのお名前を伺いましたのよ。わたくし、記憶力には少し自信がございますわ。それに、あなたのその青い瞳が印象的でしたの。さて、本題ですわ。わたくしたちの吹奏楽部は、ひのきヶ丘中学校の誇る部活動ですの。これから輝かしい伝統を築き美しい旋律を奏で、皆で心を一つにいたしますのよ。あなたのような明るい新入生が入ってくださったら、きっと部が華やかになりますわ。どうかしら、一度見学にいらっしゃいませんこと?」
満里奈は手作りのチラシを受け取り、描かれた楽器のイラストを眺めた。吹奏楽……音楽の響きが、海の波音のように心地よさそうに思えた。小学校四年からトランペットをしていたが、悠斗の記憶がよみがえり、写真部か何かと考えていた。
だが、この先輩の優しい誘いに心が揺れた。トランペットのイラストが目に留まり、悠斗の「思い出を刻む」言葉を思い出す——音楽なら、波のように永遠に響くかも。
満里奈「えっと、ありがとうございます。考えてみます……。」
彼女は優雅に頭を傾け、黒髪がさらりと揺れた。
「まあ、嬉しいお言葉ですわ。わたくし、楽しみに待っておりますのよ。ふふ、きっとあなたにぴったりですわね」
そう言って、彼女は軽やかに去っていった。満里奈はチラシを握りしめ、校庭の風に吹かれながら、未来の選択肢が少し広がったような気がした。吹奏楽部……悠斗くん、君のカメラみたいに、私の心を刻むものになるかも。
帰り道、潮風が頰を撫で、波の音が遠くから聞こえてくる。ひのきヶ丘の春は、すべてを優しく包み込むようだった。桜の花びらが風に舞い、満里奈の制服に落ちる。彼女はそれを優しく払いながら、家路を急いだ。
家に着くと、母親が笑顔で出迎えた。
母「おかえり、満里奈。入学おめでとう。今日は特別にお赤飯作ったよ」
父親も書店から早めに帰ってきて、家族で小さな祝いの席を囲んだ。食卓には新鮮な海の幸が並び、窓から見える海が夕陽に染まり始めていた。しかし、満里奈の心には、悠斗の不在が小さな棘のように刺さっていた。「あの遊歩道、今日も行ってみようかな……」と思いながら、食事を終えた。
夕暮れ近く、郵便受けに一通の封筒が入っていることに気づいた。差出人の名前は「悠斗」。満里奈の心臓が激しく鼓動を打った。
満里奈「悠斗くんから……? どうして?」
手が少し震えながら封筒を開けた。中には、丁寧に包まれた写真が入っていた。あの遊歩道で撮られた満里奈のポートレート。花冠を頭に付け、白いオフショルダーのブラウスを着て、海を背景に微笑む姿。背景の波が優しく打ち寄せ、岩礁が夕陽の光を浴びて輝いている。写真の質感はフィルム特有の柔らかさがあり、デジタルでは出せない温かみが感じられた。満里奈は息を飲んだ。
満里奈「これ……あの日の私だ」
写真の横に、手紙が同封されていた。悠斗の直筆の文字は、丁寧だがところどころで筆圧が弱く、震えが感じられる。満里奈は玄関の階段に腰を下ろし、ゆっくりと読み始めた。外では、ひのきヶ丘の海風が優しく吹き、波の音が遠くから響いてくる。桜の花びらが庭に落ち、静かな夕暮れの風景が広がっていた。
「満里奈さんへ。
中学入学おめでとう。この写真は、僕のライカで撮った君の姿だ。お祝いに送るよ。あの遊歩道で、君が花冠を付けて笑ってくれた瞬間。海の青さと君の瞳が重なって、本当にきれいだった。フィルムの現像を待つ間、ずっとこの写真のことを考えていたよ。
本当のことを話すね。僕は交通事故じゃなくて、生まれつきの難病なんだ。医者から、余命があとわずかだって宣告された。君に会ったあの春、僕の人生はもう終わりかけていた。でも、君に心配をかけたくなくて、黙っていたんだ。車椅子の生活は、病気のせい。毎日の痛みや疲れを、君の前では隠していたよ。あの遊歩道での時間、波の音を聞きながら話したこと、すべてが僕の宝物になった。君の好奇心旺盛な質問、笑顔、すべてが僕を生きる力にしてくれた。ありがとう、満里奈さん。君と出会えて、僕は幸せだった」
手紙を読み進める満里奈の目から、涙が一筋落ちた。外の海は夕陽に赤く染まり、波が岩に打ち寄せて白い泡を立てる。潮風が窓を叩き、檜の葉ずれの音が遠くから聞こえる。彼女の心は、衝撃と悲しみでいっぱいになった。
満里奈「悠斗くん……どうして言ってくれなかったの? 私、もっと一緒にいたかったのに…」
手紙の続きを、声を抑えて読み続けた。
さらに、別の手紙が同封されていた。悠斗の母親からのもの。文字は優しく、感謝の気持ちが滲み出ていた。
「満里奈さんへ。
突然のお手紙、失礼いたします。私は悠斗の母です。息子が亡くなる前、この手紙と写真をあなたに送るよう、遺言のように頼まれました。悠斗は最期まで、あなたのことを話していました。あのひのきヶ丘の遊歩道で出会った少女、満里奈さん。あなたが息子に与えてくれた時間は、彼の人生の最後の光でした。難病に苦しみ、余命を宣告された息子は、笑顔を失いがちでしたが、あなたと過ごした春の日は、毎晩楽しそうに話してくれました。フィルムカメラを握り、海の風景を撮る姿が、生き生きとしていたのを思い出します。
あなたがあの子の初恋の女性だったそうです。息子は恥ずかしがって直接言えなかったようですが、手紙に記しておきます。この写真は、悠斗の生きた証です。どうか、受け取ってください。ひのきヶ丘の美しい自然の中で、息子が最後に見つけた幸せを、忘れないでいただければ幸いです。ありがとうございました」
次に、兄弟からの手紙。悠斗の弟らしい、幼い文字で綴られていた。
「お姉ちゃんへ(満里奈さん)。
兄ちゃんが大好きだったお姉ちゃん。兄ちゃんはいつも、お姉ちゃんと遊歩道で遊んだ話をしてくれました。カメラで撮った写真を見せて、『きれいだろ?』って自慢してたよ。兄ちゃんは病気がつらくて、時々泣いてたけど、お姉ちゃんの話の時は笑ってた。ありがとう。お姉ちゃんも、元気でね」
満里奈は手紙を読み終え、写真を胸に抱きしめた。涙が止まらず、肩が震える。玄関先で膝を抱え、泣き崩れた。
外では、ひのきヶ丘の夕陽が海に沈み、空が紫に変わっていく。
波の音が、悠斗の声のように優しく響く。桜の花びらが風に舞い、庭に降り積もり、すべてが儚い春の記憶を象徴するようだった。
満里奈の心は、悲しみと感謝が入り混じり、悠斗の初恋が永遠のものとなった瞬間だった。
潮風が涙を乾かし、海の香りが彼女を包む。ひのきヶ丘の自然は、変わらず雄大に、彼女の喪失を優しく見守っていた。
*
それから、満里奈は教室から遊歩道を眺めるたび、悠斗を思い出した。ひのきヶ丘の自然は変わらず雄大だ。夏の海は青く輝き、温かい風は葉を舞わせ、波は力強い。
満里奈は吹奏楽部に入り、両親をおねだり倒してフィルムカメラを手に入れ風景を撮った。悠斗の影響だ。トランペットを吹くたび、波の音のように心を響かせる——悠斗の「思い出を刻む」言葉が、彼女の音楽への情熱を燃やした。
あれから、満里奈はちょっとだけ大人になったが、あの淡い初恋は、心の奥に残る。
ひのきヶ丘の遊歩道で、波が永遠に語りかけるように…。




