名前
満里奈は少し呆れたように肩をすくめ、小さくため息をついた。
その吐息は、春の柔らかな陽気の中に溶けて消えていく。心の奥で、疲労と諦めが混じり合う——この宇宙人、名前すら単純すぎる。超能力者なのに、こんなところで常識外れ。呆れるのも無理ないかも。
「オー、よく分かりましたね。すばらしいデスよ」
満里奈は皮肉めいた口調で褒めそやす。内心では、その単純さに呆れ果てていた。笑いが込み上げてくるけど、抑える——先生として、威厳を保たないと。
満里奈「あっちの言語が“ぺ”一文字で統一されてるからね...大体想像ついたわ...」
春の柔らかな日差しがアスファルトに落ち、光と影のモザイク模様を描く通学路。いつもと変わらない朝の風景。満里奈はいつもの時間に、いつもと変わらない道を歩いていた。
ただ、隣に白いワンピースを纏った、人形のように整った顔立ちの、完璧美少女としか言いようのない存在がいるという点を除いては……。彼女の存在が、日常を少しずつ歪めていく。胸にざわつく違和感——この子と一緒にいるだけで、周囲の視線が気になる。普通の生活が、遠のいていく気がする。
満里奈は彼女について、あまりにも重要なことを尋ねていなかったことに気が付いた。それは、まるでドラマの最終回を見逃したような、重大な見落としだった。
名前だ。
宇宙人を弟子にするという非日常に思考を奪われ、肝心な事を失念していた。
初対面の人とまず交わすのは挨拶と名前の確認だ。
先生として、基本的な社会常識を忘れてては示しがつかない。心の中で自嘲する——私、こんな大事なこと見逃すなんて、先生失格かも。でも、今からでも遅くない。
そして、名前を聞こうとした瞬間、ペペペペはまるで子猫のように、無邪気で屈託のない笑顔を浮かべ、満里奈の顔を覗き込んだ。その笑顔は、まるで太陽のように眩しく、満里奈は一瞬、心を奪われそうになる。無邪気さが、愛らしいけど、油断できない——この子、力を持ってるんだから。
ペペペペ『当ててミテくださーい。金髪美少女のおはようクイズでスネ♪』
(うう…否定はできないけど、自分で美少女って言っちゃうんだ……)
満里奈は内心で苦笑する。しかし、先生として、ここで間違えるわけにはいかない。この異星人の種族は、向こうでは「ぺ」という音しか使わないのだから、名前もきっと単純に違いない……。まるで、一本道の迷路のように……。となると……。
満里奈『ペペペペでしょ』
予想通り、あまりにも単純な正解の返答が返ってきた。超能力を当たり前のように使いこなす種族なのに、名前も言葉も、あまりにも安直で雑すぎる。まるで、高級食材をインスタントラーメンのスープで煮込んだような、アンバランスさだ。こんな調子では、文化が発展するはずもない。
いや、もしかしたら、超能力があるからこそ、文化など必要としなかったのかもしれない。彼らにとって、文化は、人間にとっての蛇足のようなものなのかもしれない。そうなると、文化に強い興味を示すペペペペは、故郷ではかなりの変わり者なのかもしれない。どこにでも、異端児はいるものだ。彼女の好奇心が、少し羨ましくなる——私も、そんな自由に生きられたら。
しかし、このまま「ペペペペ」という名前を使うわけにはいかないだろう。それでは、まるでペットに「イヌ」と名付けるようなものだ。ここは先生として、地球で通用する、まともな名前を考えてやらなければ……。
満里奈「ペペペペ。私がこっちで使うあなたの名前を考えてあげる。その名前じゃ、みんなから笑われるからね……」
ペペペペ「そうデスネ...実は、ワタシもそれは思ってましタ。だから、自分で名前の付け方を勉強して考えてみました」
満里奈「へえ…ちゃんと考えてたんだ。どんな名前なの?」
満里奈は少しだけ感心した。彼女の努力が、意外で、少し胸が温かくなる——成長してるかも。
ペペペペ「びちぐそ珍珍子デスネ」
満里奈「いやちょっと待て!! どう勉強したらそんな下品で汚物的な名前ですらないわいせつな物になるの!?」
満里奈は思わず叫んだ。その声は、春の陽気に反して、凍り付くように冷たい。顔が熱くなり、恥ずかしさと怒りが混じり合う——こんな名前、絶対ダメ!
びちぐそ珍珍子「森で少年誌の単行本拾いマシタ。エドに来た異星人とサムライ達が戦うお話デ、それを教本にしましたヨ」
満里奈「...これじゃペペペペのほうがまだマシだわ...やっぱり、私が考えてあげる。だから、そのわいせつ物は使用禁止だよ」
満里奈は深くため息をついた。まるで、底なし沼にはまったような気分だ。彼女の学習方法が、危なっかしくて、心配になる。
ペペペペ「ハーイ」
名前の件は解決したが、次の案件が残っている。名前と同じくらい大事なそれは……。
ペペペペは、あの忌まわしい交通事故が起きた交差点で、まるで忠犬ハチ公のように満里奈を待っていた。通学路は人通りが少ないとはいえ、時間帯によってはそれなりに交通量がある。中学の制服を着た少女と、まるで異世界から迷い込んできたかのような白いワンピースの金髪碧眼の美少女。その組み合わせは、シュールレアリスム絵画のように、周囲の目を引くには十分すぎるほどだった。
“…一体、どこの子だろう?学校には行っていないのかな?”
車を運転する大人たちの訝しげな視線が、毎日痛いほどに突き刺さった。まるで、肌をチクチクと刺す針のようだ。心臓がざわつく——バレたら、どうなる?
まずい状況だった。朝の忙しい時間帯、運よくパトカーには遭遇していなかったが、このままでは時間の問題だった。周囲の人間が不審に感じて、学校や警察に通報するのは、火を見るよりも明らかだったのだ。
名前も重要だが、それ以上に、ペペペペの存在を学校関係者に知られるのは、絶対に避けなければならない。それは、満里奈にとって死活問題だった。
もしも存在がバレたら……
[満里奈の危惧①]
ぺぺぺぺ『センセー、ワタシの事、警察にチクりましたね!?コノ裏切り者!!』
満里奈『ちょっと待て!!落ち着いて話を…』
ぺぺぺぺ『問答無用デスヨ!!』
(配管工兄弟死亡BGM)
………絶対に避けなければ。恐怖が、胸を締め付ける。想像するだけで、冷や汗が出る。
そこで、満里奈は別ルートを行くことにした。森林の中に整備された遊歩道で、いつもの通学路と比較すればやや遠回りになるが、実家を早く出れば時間的に間に合わないことはない。人通りもほとんど無いので好都合だ。そのことで、このぶっ飛んだ宇宙人が、満里奈との“朝の散歩”とやらの時間が伸びることが嬉しいそうだ。
“朝の散歩”とは、この宇宙人が勝手に決めたものであり、登校する満里奈の横にくっついて歩くという単純なものだ。そして、ぺぺぺぺは満里奈の生活や学校の事、日本の文化について色々と質問してくる。
いちいち答えなければならないのは面倒なのだが、先生としての役割を引き受けた以上、無下にはできない。そして、もしも不手際がありそのことで怒らせたら地球の命運に関わることになるかもしれない……。
もしもぺぺぺぺを怒らせたら……
[満里奈の危惧②]
ぺぺぺぺ『センセー、よくも私の知的好奇心を侵害してクレマシタネ!?』
満里奈『ちょっと待て!!落ち着いて話を…』
ぺぺぺぺ『問答無用デスヨ!!』
(洞窟探検家死亡BGM)
……私が原因で地球滅亡…そんな事態を想像するだけで脂汗がダラダラでてくる……。無力感が、心を蝕む。でも、避けられるなら、避けたい。
ぺぺぺぺ「…センセーどうしたんデスカ?心拍数が急激に上がってマスヨ? …ははーん…もしかしてウ〇〇でスカ? それならそこの草むらで盛大にやって下サイ。ワタシ以外誰もイマセンから、大丈夫デスヨ♡」
満里奈「違うわ!!可愛い顔して〇〇コとか平気で口にしたらダメ!」
ぺぺぺぺ「ハイ。分かりました。センセーの野糞に訂正いたしマスヨ」
満里奈「野糞言うな!!」
……いつもこんな調子だ。礼儀作法や慎みといった事を教えなきゃ、騒音の原因を教官から質問されて◯◯ャの放屁だとか平気で口にしそう……。苛立ちが募るけど、彼女の無邪気さが、憎めない。
ぺぺぺぺ「……あれ、センセー。あそこ…」
満里奈「……ん?」
ぺぺぺぺが指指した先…遊歩道のベンチに澪奈が座っていた。満里奈とぺぺぺぺを見つけると、無駄のない動きで立ち上がりこちらへ歩いてきた。
澪奈の家は満里奈の家とは反対側にあり、当然通学路も反対側だ。この時間帯にこちらへ来ることはまずありえない。しかも、この遊歩道に入ることは無い筈なのだ。
満里奈の頭上に“?”マークが踊りまくる。心臓が早鐘のように鳴る——どうして澪奈がここに? バレた?
澪奈「……おはよう二人とも。ここで待っていれば通ると思っていたぞ。やはり、そちらのお嬢さんは観光客ではなかったみたいだな……」
ぺぺぺぺ「……」
満里奈「澪奈…どうしてここに?」
澪奈「フッ……」
澪奈は不敵な笑みを浮かべた。緊張が、空気を張り詰めさせる。
*
【昼休み 図書館】
満里奈は、名前に関する資料を探すため、職員が設置した良い香りが漂う図書館に足を運んだ。しかし、名前に関する書籍といえば、どうしても赤ちゃん関連のものに限られてしまう。中学校の図書館に、宇宙人にふさわしい名前が載っている本など、あるはずがない。当然、お目当てのものは見つからなかった。
仕方なく、満里奈は手近にあった雑誌や偉人伝などの本を手に取り、パラパラとページをめくる。まるで、砂漠で水を探すように、必死に何か手がかりを探した。何か、使えそうなものはないだろうか……。焦りが、胸を締め付ける。
「あら、満里奈が昼休みに図書館に来るなんて珍しいわね……」
満里奈「あ、恵……」
声をかけてきたのは、同じ一年生で、吹奏楽部でパーカッションを担当している、七瀬恵だった。流行に敏感で、ファッションには人一倍気を遣っている、今どきの中学生、という感じの女の子だ。まるで、ファッション雑誌から抜け出してきたような存在感がある。彼女の明るさが、少し心を和らげる。
満里奈「……そういう恵こそ珍しいじゃない。いつもなら教室でファッション雑誌広げて、友達とコーデの話で盛り上がってるのに、今日はどうして図書館に?」
恵「宇宙人のこと調べてるのよ」
満里奈「宇宙人…?」
その言葉を聞いた瞬間、あの金髪の、人形のように美しい顔が脳裏に鮮やかに浮かんだ。満里奈は慌てて頭を横に振り、そのイメージを振り払う。まるで、しつこいハエを追い払うように。
恵「どうしたの?顔色悪いわよ」
満里奈「なんでもない…ワシントンUFO事件?」
恵「そうそう。アメリカ政府が、遺体が見つかっていない宇宙人に関する、とんでもない額の懸賞金を出すって話、知ってるでしょ?あれ、狙ってるんだけど、ネットの情報だけじゃ、どうも、どうも決め手に欠けるから、図書館にUFOに関する本がないか、探しに来たの」
満里奈「あー…それなら、牧野くんたちが、目ぼしい本はほとんど借りてっちゃったよ。宇宙人だ、UFOだって、大騒ぎしてたもん」
恵「えー、マジか…。先を越されちゃったか…。しょうがない、部活が終わったら、書店にでも行ってみるか。満里奈も一緒に行かない?」
満里奈「ごめん。今日はちょっと、別の用事があるから」
恵「……偉人伝?もしかして、懸賞金が掛かった宇宙人よりも、もっと大事な用事なの?」
恵は、まるで探偵のように鋭い視線を満里奈に向けた。視線が刺さる——ごまかさないと。
満里奈「ま、まあね……」
まさか、お探しの宇宙人に名前を付けている最中だなんて、口が裂けても言えるわけがない……。そういえば、ペペペペは、あのUFOに乗っていたのだろうか?ほぼ間違いないとは思うけど、今度、聞いてみよう。好奇心と不安が、混じり合う。
恵「そっか。じゃあ、また部活でね。用事、頑張って」
満里奈「うん…さて、と。探すとするか……。お、これは…いいかも……」
満里奈は、ある本のページに目が留まった。希望の光が、心に灯る。
*
【近所の公園】
部活が終わると、満里奈はあらかじめ決めておいた、人通りの少ない公園で、ペペペペと落ち合った。夕暮れ時、空はオレンジと紫のグラデーションに染まっている。穏やかな景色が、少し心を落ち着かせる。
ぺぺぺぺ「オルガ・ペルセフォネ・デルタ? …オー、イイですネ!スゴく、気に入りましたヨ!」
オルガは、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように目を輝かせた。無邪気さが、微笑ましい。
満里奈「そう。オルガは、古ノルド語で「神聖」「聖なる」「聖人」「素晴らしき」などの意味があるの。いいでしょ?ペルセフォネは、ギリシア神話における春の女神、花の女神のこと。私たちが出会った季節が春だったから、これを選んでみたよ。冥界の女神、なんて意味は無い設定で。デルタは、特殊部隊とかに使われている言葉で、強そうなイメージがあるから。あなた、超能力使えるし、強いからね。どう?」
満里奈は、まるで自慢の料理を披露するシェフのように、得意げに説明した。努力が報われるかも——少し誇らしい。
オルガ「……イイですね、さすが先生。すごくイイですよ。適当に繋いだだけじゃないんデスネ」
オルガは、満里奈の意図をしっかりと理解したようだ。
満里奈「ま、まあね……(そういう面もあるんだけどね)」
満里奈は、少しだけバツが悪そうに頬を掻いた。
オルガ「……デモ、少し、長いですネ。通常は、オルガだけにシマスよ」
満里奈「そ、そうね……」
満里奈は、少しだけ肩を落とした。せっかく考えた名前だったが、確かに長すぎたかもしれない……。
少し残念だけど、彼女が気に入ってくれたらいいか。




