声
爽やかな風が、そっと頰を撫でて過ぎ去った。
生暖かく、春特有の、命の息吹を感じさせる風。それは、穏やかな日常を約束するはずのものだったのに、私の胸には、ざわつく不安が広がる。あの事故から数日しか経っていないのに、こんな場所に一人で来てしまうなんて、自分でも馬鹿だと思う。
…でも、来ずにはいられなかった。確認したかった——あれが本当に起きたことなのか、それとも、死の淵で見た幻だったのか。
いつもと変わらない、見慣れた交差点。
けれど、注意深く観察すると、そこには、あの日の記憶を呼び覚ます、生々しい痕跡が残されていた。ガードレールに残された、歪な凹み。何かが激しく衝突した跡だ。心臓が早鐘のように鳴り始める。あの瞬間、銀色の車が突っ込んでくる光景が、フラッシュバックのように蘇る。体が震え、足が竦む。息が浅くなり、吐き気がこみ上げてくる——あの痛み、絶望が、再び体を蝕む。
けれど、ちゃんと見なきゃいけない…勇気を振り絞る。
事故後、業者が付着した血液を洗浄したと聞いた。しかし、その痕跡は、完全に消し去ることはできない。被害者の受けた傷の深さと、ガードレールの破損状況が、どうしても一致しない。事故処理にあたった警察官たちが、首をひねっていたのも無理はない。現在も、捜査は継続中だという。
私の心の中では、疑問が渦巻く。あの傷、失われたはずの右手……本当に、ただの事故だったのか? それとも、何かもっと大きな力が関わっている?
捕まった高齢の容疑者の乗用車からは、私の毛髪と血液が検出された。
『女の子を撥ね飛ばした。死んだと思って怖くなって逃げた』
という、身勝手極まりない自白が決め手となり、轢き逃げ犯として逮捕された。両親の怒りは凄まじく、犯人を許さないと誓っていた。私自身も、胸に熱い怒りが込み上げる。あの男の顔を思い浮かべるだけで、拳が握り締まる。
…でも、それ以上に、奇妙な違和感が拭えない。車両の破損状況と、私の怪我の状況が、どうしても一致しないのだ。あの衝撃なら、即死でもおかしくない。助かったとしても、一生消えない、重篤な障害が残るはずだ。
……それなのに、私は、たった3日で退院した。
警察官に、
『君、本当に事故にあったの?』
と、疑いの眼差しを向けられた時は、さすがに腹が立った。平手打ちの一つでもお見舞いしてやりたかったが、ぐっと堪えた。
“中学一年生女子。公務執行妨害で逮捕”
…なんて、ニュースはゴメンだよ。
話を元に戻そう。
動かぬ証拠がある以上、犯人には、相応の制裁が下されるだろう。娘を轢き逃げされた両親は、鬼の形相で、徹底的に仇を取ると息巻いていた。あの時の両親の顔——心配と怒りが混じった表情が、胸を締め付ける。
私は、ただ生きているだけで、奇跡だと言われた。でも、心の奥底では、恐怖がくすぶる。この回復は、自然なものじゃない。
何かが、私を変えた。
そして、その「奇跡的に助かった被害者」である私が、今、この場所に立っている。鷺ノ宮満里奈、13歳。私立ひのきが丘中学、吹奏楽部所属の“美少女”だ。
※AIツールで生成した参考画像を基に、手描きで仕上げたオリジナルイラストです。AIの使用は構想段階のみで、最終作品はすべて手作業です。
……「自称」だろって?
……失礼しました。
でも、今はそんな冗談を言う気分じゃない。右手首に残る、薄い傷跡。あの時、失われたはずの右手首の切断面と、ぴったりと一致する。病院で意識を取り戻した時、繋がった右手を見た瞬間、頭が真っ白になった。
喜びより、混乱が先に立った。
これは現実?
それとも、夢の続き?
指を動かすたび、微かな痺れが走る。あの痛みを思い出すだけで、体が震える。
あれは、現実だったのか?
事故のショックで見た、悪夢だったのか?
…残された傷跡と、右手に残る、僅かな痺れ。……いいや、幻覚なんかじゃない。しかし、医者は、痺れはどこかにぶつけた影響だろうと、さほど気に留めず、傷跡も、昔の怪我の跡だろうと、まるで取り合ってくれなかった。誰も信じてくれない。家族にさえ、話せない。孤独感が、心を蝕む。でも、諦めきれない。この謎を、解かなければ。
……もう、誰かに信じてもらうことは諦めた。
そして……残念なことに、私の愛しい相棒、トランペットは、修復不可能と判断され、永遠の眠りについた。お花を添えてあげたいけれど、どう見ても、死亡事故現場に手向けられた花にしか見えないので、気持ちだけにしておく。
……今まで、本当にありがとう、パトラッシュ……。疲れたろう、私も…いやいや、今のはナシ。縁起でもない…。
あのケースが潰れた瞬間、夢が砕け散る音がした。部活の仲間たちの顔が浮かぶ。みんな、ごめんね。もう、吹けないかも。でも、諦めたくない。新しいトランペットを手に、いつかステージに戻る——そんな決意が、胸に灯る。
「…体の具合は、ドーですカ? センセー♪」
……センセー?
背後から聞こえてきた、鈴を転がすような、透き通った声。どこかで……、そうだ、あの時、意識が薄れていく中で聞こえた、あの声だ……! 心臓が飛び跳ねる。
喜び? 恐怖? 混じり合った感情が、胸を締め付ける。私は、弾かれたように振り返った。体が熱くなり、息が荒くなる。あの声の主——ついに、会えるのか?
道路脇に佇む、小さな石のお地蔵様。その丸い頭の上に、信じられないことに、私と同じくらいの年齢の少女が、つま先立ちで立っていた。両手を後ろ手に組み、悪戯っぽい笑みを浮かべ、こちらを見下ろしている。
……心なしか、お地蔵様が、驚いているように見え…
どっかで見たツラだなおい! もしかして生きてる!?。
…それより、ちょっと、何やってるの!?
罰当たりだよ!? そんな場所に立つなんて、常識外れ。でも、それ以上に、驚きが勝る。どうやって? いつから? 疑問が次々と湧き上がる。
……というか、いつの間に、どうやって登ったの? 物音一つしなかったのに……。それに、その驚異的なバランス感覚は何? 微動だにしないなんて、まるで人形みたいじゃない。体が浮いているみたい——まさか、あの事件、ワシントンのニュースで見た。あれと関係ある? 心の奥で、警戒心が芽生える。
……そして、改めてよく見ると、その少女は、驚くほど美しい。金色の髪は、まるで太陽の光を受けて、複雑な輝きを放っているクリスタルのようだ。瞳は、澄み切った青空を閉じ込めたような、深い碧色。その姿は、まるで、ファンタジーRPGの世界から飛び出してきた、エルフの姫君のようだ。息を飲む。こんな美しさが、存在するなんて。嫉妬? いや、畏敬に近い。自分との差に、圧倒される。
…いつの間にか、少女の周りには色とりどりの蝶が集まり始めた。春の柔らかな日差しの中で、アゲハ蝶が優雅に舞い、モンシロ蝶が軽やかに戯れる。まるで、彼女の放つ絶対的な美しさに引き寄せられたかのように、色彩豊かな蝶たちが、彼女の周囲を静かに、しかし華やかに彩っていた。
私の周りにも蝶が……って、なんで蛾の大群が押し寄せるんだバカヤローッ!!
……正直に言おう、完敗だ。私の、存在意義が、根底から覆されるような、圧倒的な敗北感……。燃え尽きた……、真っ白な灰に……。自嘲の笑いが漏れる。でも、それでいい。彼女は、特別だ。あの声の主——。
「…どーしたんですかセンセー? 真っ白になってマスよ?」
少女は、ふわりと、まるで羽根が生えているかのように、軽やかに地上へ舞い降りた。着地の衝撃すら感じさせない、その身のこなしは、まるで、物理法則を無視した、国籍不明機……UFOの動きが脳裏に蘇る。心がざわつく。彼女は、人間じゃない? 宇宙から来た? 疑問が、興奮と恐怖を煽る。
……そうだ、今は、敗北感に打ちひしがれている場合じゃない。この声には、確かに聞き覚えがある。そして、聞きたいことが山ほどある。助けてくれたのか? 右手の謎、胸が高鳴る。ようやく、答えが得られるかも。
……それに、「センセー」って何!? 私は、こんなにも美しい、宇宙人のような少女を、知らない。小一時間、問い詰めてやる! 決意が固まる。
彼女の碧い瞳を見つめ、息を吸い込む——これから、何が始まるのか。




