井戸からオワコン 〜Revenge〜
放課後の教室は、夕暮れ特有のアンバー色の光に満たされ、静寂が支配していた。部活動の喧騒も遠のき、校舎には生徒たちの気配もまばらだ。
そんな中、吹奏楽部の部室ではなく、誰もいない教室で一人、トランペットの自主練習に励む満里奈の姿があった。
「ふぅ……ここ、やっぱり難しいな」
一息つき、トランペットを丁寧にクロスで拭きながら、満里奈はスマホを取り出した。コンクールの課題曲、特に苦手なソロパートのプロによる演奏動画をチェックするためだ。
画面をタップし、動画サイトを開く。
お気に入りの奏者のチャンネルを見つけ、再生ボタンを押す。
『♪〜』
流麗なトランペットの音色がスマホのスピーカーから流れる。満里奈は画面を食い入るように見つめた。
「へぇ……ここのブレス、こうやって取るんだ……」
しばらくの間、彼女は動画を再生しては巻き戻し、指使いや息継ぎのタイミングを熱心に確認していた。画面の中の奏者は完璧な演奏を続けており、満里奈は感心したようにため息をつく。
「すごいなぁ……やっぱプロは違うわ……」
もう一度、指使いを確認しようと画面をタップしようとした、その時だった。
ザザザッ……
突然、スマホの画面が砂嵐のように乱れた。
「えっ……? 何これ? 電波悪い?」
満里奈が眉をひそめると、ノイズ混じりの画面が歪み、そこに映し出されたのは、見慣れた演奏動画ではなく――鬱蒼とした森の中にある、古びた石造りの井戸だった。
どこかで見覚えがあるような、古めかしいホラー映画のワンシーンのような光景。
「……は?」
次の瞬間、井戸の中から、何かが這い出てきた。
長く伸びた黒髪で顔を覆い、泥にまみれた白いワンピースを着た人影。それは、かつて日本中を恐怖のどん底に陥れた、あの「呪いのビデオ」の怨霊――に酷似した姿だった。
「ひぃっ!?」
満里奈は思わずスマホを取り落としそうになる。
画面の中の怨霊は、ゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって這い寄ってくる。画面の枠を超え、まるで現実世界に侵食してくるかのように。
そして――。
ズズズッ……。
スマホの画面から、本当に黒い髪の束が溢れ出し、続いて白い手が、そして頭部が、ぬるりと抜け出してきた。
「うそっ……!? 出てきた!?」
満里奈は悲鳴を上げ、椅子ごと後ろに転倒しそうになる。
目の前には、スマホから這い出した等身大の怨霊が、ゆらりと立ち上がっていた。長い黒髪の隙間から覗く瞳は、この世のものとは思えない怨念に満ちている……。
「…………」
怨霊は、無言で満里奈を見下ろしている。そのプレッシャーは凄まじい。恐怖で喉が引きつり、声が出ない。
しかし。
満里奈の脳裏に、ふと冷静な思考がよぎった。
この姿、この登場の仕方……。
(これって……『ダサコ』……だよね?)
ダサコといえば、かつて一世を風靡したホラー映画のキャラクター。ビデオテープという、今や骨董品レベルのメディアを介して呪いを拡散させる、20世紀末の恐怖の象徴。
満里奈は現代っ子だ。
ビデオテープなんて実物を見たことすらない。配信動画やSNSが当たり前の世代にとって、テレビ画面から這い出てくる怨霊なんて、もはや「古典」の域を出ない。
恐怖よりも先に、奇妙な違和感と、ある種の「古臭さ」を感じてしまった満里奈は、震える声で、思わず口にしてしまった。
「ダ、ダサコ……もう古すぎてオワコンじゃん……」
その言葉が、静まり返った教室に響いた瞬間。
ピクッ。
怨霊――ダサコの肩が、大きく震えた。
「え?」
次の瞬間、ダサコは髪を勢いよく振り上げ、バッ!と顔を上げた。そこには、怨念に満ちた形相ではなく、どこか「やってしまった」というような、あるいは「見てろよ」と言わんばかりの、妙に人間臭い意志の光が宿っている目が髪の間から見えた。
そして…
ダサコは、ポケット(?)からスマホを取り出し、素早い手つきで操作し始めた。
教室のスピーカーから、突如として大音量で流れ出したのは、最新のJ-POPヒットチャートを賑わす、アップテンポでダンサブルなナンバーだった。
ズンチャッ、ズンチャッ、ズンチャッ!
「!?」
満里奈が呆気にとられる中、ダサコはリズムに合わせて体を揺らし始めた。
そして、サビに入ると同時に、キレッキレのダンスを踊り始めたのだ!
長い髪を振り乱し、白いワンピースを翻し、プロのダンサー顔負けの鋭いステップと、しなやかな動きで教室中を舞い踊る。
「な、なにこれぇぇぇ!?」
満里奈は口をあんぐりと開け、ポカーンとするしかなかった。恐怖の怨霊が、目の前で最新のダンスを踊っている。
しかも、めちゃくちゃ上手い。
一曲踊り終えると、ダサコは「どうだ!」と言わんばかりにドヤ顔でポーズを決める。その表情はどこか満足げだ。
しかし、満里奈の困惑はまだ終わらなかった。
ダサコは再びスマホを操作し、今度は別の曲を流し始めた。
流れてきたのは、軽快でコミカルな、しかしどこか哀愁漂うイントロ。
「こ、この曲は……!」
そう、それは動画サイトで一時期爆発的な人気を博した、某ロボットアニメのMAD動画で使用されたあの曲だった。
「♪~」
ダサコは、その曲に合わせて、今度はコミカルでリズミカルな、独特のダンスを踊り始めた。腕を大きく振り、腰をくねらせ、まるでアニメのキャラクターが乗り移ったかのような動き。
「あの時、あの改札で君と出会わなければ……」
(…宇宙って自由ですかのあれーーーッ!?…)
歌詞(空耳)が聞こえてきそうなほど、その動きは完璧にシンクロしていた。キレのある動きの中に、絶妙な脱力感と哀愁が混じり合い、見ているだけで笑いがこみ上げてくる。
満里奈は、もはや恐怖など微塵も感じていなかった。ただただ、目の前のシュールすぎる光景に、ツッコミを入れざるを得なかった。
「井戸の底でどんだけ練習してたんだよっ!?」
満里奈の鋭いツッコミが静寂な教室に響き渡る。
スマホから流れる哀愁漂う曲に合わせて、完璧な決めポーズ(右手を天に突き上げるアレ)をとっていた怨霊――ダサコは、その体勢のままピクリと動きを止めた。
「……」
無言で満足げに決めるダサコ。長い黒髪の隙間から覗く瞳が、満里奈を見据えている。
一瞬の間の後…
ダサコはハッとしたように頭を振った。スマホの音楽再生アプリを乱暴にスワイプして停止させる。
そうだ。私はダンスを披露しに来たのではない。
あの日、理不尽な力によって愛する井戸を「物理的に」粉砕され、住処を奪われた恨み……。
そして、その破壊神のような金髪の小娘と一緒にいた、この少女への復讐……。
それこそが、黄泉の国から舞い戻った(Wi-Fi経由で)真の目的だったはずだ!
「………オォォォォ……」
低く、地の底から響くような怨嗟の声が漏れる。
さきほどまでのキレキレダンサーの雰囲気は霧散し、本来の禍々しい怨霊のオーラが教室を支配する。空気が重く淀み、窓ガラスがガタガタと震え始めた。
「えっ……ちょ、ちょっと? ノリ良かったじゃん? なんで急にマジモード!?」
満里奈が後ずさる。
ダサコは白いワンピースを翻し、蜘蛛のように床を這う姿勢をとったかと思うと、人間離れした速度で満里奈に襲いかかった!
「……キェェェェッ!!」
「ひぃぃぃぃっ!?」
満里奈が悲鳴を上げ、顔を覆ったその瞬間――。
轟ッ!!
空気を切り裂く鋭い音が、ダサコと満里奈の間に割って入った。
「!?」
ダサコは本能的な恐怖を感じ、襲撃の軌道を無理やり変えて、後ろへと大きく飛び退いた。怨霊としての直感が、けたたましい警鐘を鳴らしていたのだ。
『触れれば、消滅する』
と。
満里奈の前に、一人の少女が立っていた。
夕陽に輝くプラチナブロンドの髪。ひのきヶ丘中学の制服を着崩した華奢な体躯。そして、その碧く緑の瞳は今、金色に妖しく発光している。
オルガ・リピンスキー。
「……センセーに、ナニをしようとしてイマスカ?」
鈴を転がすような声だが、その響きは絶対零度のように冷たい。
「オ、オルガ!?」
満里奈が安堵と驚きで声を上げる。
オルガは満里奈を一瞥もしないまま、ゆらりとダサコに向き直る。その立ち姿は、ただ立っているだけではない。
左腕をだらりと下げ、力を抜いてブラつかせる。
半身に構え、右腕はあごの横へ。
重心を低く落とし、上半身をゆらゆらと揺らす独特のリズム。
それは、かつて彼女が「文化学習」と称して読み漁ったボクシング漫画で目にした、とある死神の構え――。
デトロイトスタイル、またの名を「フリッカー」の構え。
「……死にぞこないのユーレイ風情が。ワタシのセンセーに指一本でも触れようものなら……」
オルガの左腕が、鞭のようにしなる予備動作を見せた。
「そのエクトプラズムごと、素粒子レベルで分解シテあげマスよ?」




