第42話 ここからが本番だ
空間が淀む。
ただ単純に汚染された空気が混ざっただとか、嫌な臭いがするだとかそういったレベルじゃない。私たちがいる空間そのものが淀んだと一瞬で理解できるほどの嫌悪感と威圧感だった。
思わず体勢を崩しそうになった私の両肩をアズラニカが支える。
そのしっかりとした感触はすぐに私を安心させてくれた。
「ゼシカ、ここからが本番だ」
「ええ、わかったわ」
「儀式を強行するならば、私はギリギリまでここでゼナキスを引き付ける」
そして古代の神から人間を守ろう、とアズラニカは付け足す。
古代の神が復活するフェーズに入ったのなら、もう鎮圧を待たずに儀式を開始するしかない。一段落つくまで待っていたらどれほどの被害が出るか予想もできないわ。
しかし儀式にはどうしても時間がかかる。
その間、ゼナキスが大人しく放っておいてくれるとは限らない。
前線から下がって準備をしても見晴らしのいい場所だからいつかは見つかるだろうし、戦と関係のないことをしていると知ってもゼナキスに焚きつけられた人たちは魔族憎しの気持ちだけで攻撃をしてくる可能性が高い。
そして古代の神を鎮められるまで、サヤツミは刺激しないように姿を隠すことになる。つまりそのぶん戦力が減ってしまうわ。
それはなるべく人間を殺さないように気を配りながら戦うことが難しくなるということでもあった。
――正直言って心配だった。
アズラニカのことも、人間のことも、魔族のことも。
そしてこれからのことも。
けれど、こうして迷って時間を消費していること自体がアズラニカを不利にする。
「……アズラニカ」
私は一呼吸置いてアズラニカの首に腕を回し、軽く口づけると両手を握って正面から彼を見据えた。
当のアズラニカはぽかんとしているけれど、きっと言葉は耳に届くだろう。
「待ってるわ、必ず私たちのところへ来てね」
「も――もちろんだ、もちろんだとも」
こくこくと頷く可愛い姿を見つめ、アズラニカが慌てて呼んだ騎士団長のドラゴンに乗り移って後方へと移動を開始する。
上空の魔法陣からは黒くてどろどろに溶けた巨大な塊が全容を現していた。
ゲームで目にした古代の神より更に醜悪に見えるのは実際に目の前に存在しているからかしら。
一言で表すなら溶けたまま生きている巨大なカエルだ。
うっすらと開かれた瞼らしきものの奥からは瞳孔が縦の格子状になった金色の目が覗いていた。
たったそれだけで私たちとはルーツの異なる生き物なのだと思い知らされる。
……こんな得体の知れないものを相手に儀式が通用するんだろうか。
私ですら感じたその疑問は他の仲間たちには更に強く感じられたようで、準備を進める動きが一瞬鈍った。
そこへはっきりとした声が届く。
「僕たちが盾になって守ってみせます、みなさんは儀式に集中してください!」
そう言い放ったクランが空中で矢を斬り落とした。
本来なら勇者であり主人公だったはずの声。
その声は仲間の心をしっかりと支えるのに十分だった。出会ってから一番成長したのはクランかもしれないわね。
私たちは頷き合うと目立たないように様々なルートから後方へと下がり、待機していた儀式用の物資を積んだドラゴンたちと合流する。
見晴らしはいい。けど高い位置から見ない限りは目に入りにくい場所。
けれど巨大な古代の神からはしっかりと見える場所でもある。
事前に決めた手筈通りにそれぞれの持ち場で土台を組み上げ、その傍らで調理を開始した。戦場の間近でやるとなると包丁を握る手が震えてしまったけれど、要のひとつなので丁寧に進めていく。
その間に現地で調理しなくても持ち運びできるもの――例えばパン類や乾物類を先に大きなテーブルへと並べておいた。
あとは完成したものから順にテーブルの上へ追加していくだけよ。
調理のスピードは特訓しただけあって驚くほど速い。
ベレクを筆頭に担当者はみんな前線で戦う戦士ばりの気迫と集中力で挑んでいた。
そうしている間に遠くから歓声とも悲鳴とも取れる声が響く。
見れば古代の神が地面へと着地し、大きく息を吸い込んだところだった。
古代の神の足元ではゼナキスが歓喜し、その様子から古代の神を味方だと思った人間が喜んでいるらしい。
それでも一部の人間は古代の神の禍々しさに怯え、魔族側が召喚した恐ろしい生き物だと思っているようだけれど……その人たちはゼナキスの様子を見て戸惑っているようだった。
あれは人間の味方なんかじゃない。
その証拠に古代の神は遠目からでもわかるほど大きな体を動かすと、まるで汚物でも見たかのような目で王都の一部を薙ぎ払った。
ちょうど寄ってきた虫をはたいたような雰囲気だ。
そのまま大きく咆哮を上げ、黒い炎の球をいくつも生み出して街と人間を両方とも攻撃する。
思わず息を呑んでいるとアズラニカが雷魔法を応用して炎の球の軌道を逸らしているのが見えた。
すべては防げないため人間を狙っているもののみだったけれど、仲間の魔導師も助力してなんとか成功したらしい。
「……! あれっ、どうして……」
激昂した古代の神が辺りをめちゃくちゃに破壊しながら突進する。
その先には人間だけでなく魔族もいた。
古代の神は魔族を愛しているようだったけれど、躊躇いはまったく見られない。
戦場なら仕方のないことかもしれないけれど、と違和感に眉を顰めていると突然上空から降りてきたサヤツミが私の目線に合わせて前のめりになりながら言った。
「我を失ってる。汚らわしいものを見たからってレベルじゃないぞ、あれは封印前になにかあったな」
「だから魔族ごと……?」
「かもしれないね。というか見えてすらなさそうだ。――これじゃ身を隠している意味がないし……」
サヤツミはにやりと笑う。
「まずは正気に戻さないとね!」
そう言うなりサヤツミは足音もさせずに走り出し、古代の神へと向かっていった。
神なら神のやり方で正気に戻すことができるのかも。
そう考えているとサヤツミはホップステップの勢いで大ジャンプし、そのまま古代の神の横っ面を力の限り殴りつけた。
思わぬ一撃に地響きをさせて地に伏せた古代の神に向かってもう一発、二発、三発と叩き込んでいく。
簡単に言うとボコボコにしていた。
……想像していたより大分、その、物理的な方法だったわね。
「み、みんな、今のうちに進めましょう!!」
この調子だと古代の神が我に返るのもすぐかもしれない。
そう思ったのはみんな同じだったようで、私の言葉に頷くと更に急ピッチで準備が進められた。
遠くから響き続ける音に背を押されながら。




