八話:新しき詰所、懐かしき窓
その朝、王都の空に――白と青の影が、音もなく舞い降りた。
陽光をまとった主力艦ホーク級が、静かに高度を落としながら、飛行艇港へと滑り込む。滑らかに降下するその機体には、王国の紋章が誇らしく輝き、一瞬、空の片隅に光の輪が浮かんだ。
ストーリア南東部での任務を終えた飛行艇団の帰還。それは王都にひとつの節目を告げるものであり、まさに時代の一幕を刻む光景でもあった。
そして、その艦首に立つ男の姿が、誰よりも印象的だった。
燃えるような橙髪が風に踊る。制服の襟元を整えるその仕草に、彼の快活な気質がにじむ。その名は、飛行艇団団長――ラクティス・ジーニア。
「ふぅ、予定通り。今日ばかりは遅れるわけにいかないからな」
肩の力を抜いた声が空へと溶けていく。彼は、王城を見据え、歩を進めた。向かうは、ひとりの少女が旅立ちを迎える、運命の始まりの場――聖騎士任命式であった。
* * *
王城正殿、大広間。白き石で築かれた床に陽光が差し込み、静けさと荘厳さが同居する空間に、今日という日の重みが満ちていた。
本来であれば数日前に執り行われていたはずの任命式は、王都東方の村――ゼストの沈黙により、延期を余儀なくされた。だが、単身その地へ赴き、任務を完遂した少女は、今ここに帰還を果たしていた。
壇上に並ぶは、王妃シルビア・アルファード、王子レクサス・アルファード、そして王――アリスト・アルファード。ストーリア王国の威信を体現する三人のまなざしが、新たなる聖騎士を見守る。
その下段には、近衛騎士団長イスト・スタウトの姿。整然と佇むその様は、式の一瞬一瞬をも律するかのようであった。
そして、空間の中心――
聖騎士の礼装を纏い、静かに立つ少女がひとり。
その名は、ノア・ライトエース。
白銀と淡青を基調としたその装いは、まるで春の空気をまとうかのように、清らかで凛とした気配をまとっていた。彼女の前には、王国の封蝋が施された証書と、銀の印章ペンダント。聖騎士としての正しき証が据えられている。
「ノア・ライトエース」
王の呼びかけに、ノアは姿勢を正し、一歩進み出る。
銀の印章が首元にかけられたその瞬間、まばゆい陽光が、礼装の青をひときわ輝かせた。
「王国はここに、聖騎士ノア・ライトエースが、正位に達し、独立任務を担うに足ると認定する。――この証書と印章を授け、以後、王国の名をもって君を聖騎士として認める」
アリスト王の声は、静かにして確かな威厳をたたえ、場を包んだ。
それに続き、レクサスが一歩、そっと前へ進み出る。
証書を両手でノアへ渡す、その丁寧な仕草に、彼の想いがにじむ。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
その囁きに、ノアは言葉を返さぬまま、深く一礼する。
瞳に宿るのは、使命を担う者の静かな覚悟――そして、それを支える意志の光であった。
印章を授けられた瞬間、ノアの胸に浮かんだのは、過ぎし日々の記憶だった。
訓練の日々、すれ違った不安、幾度となく剣を構え、傷つけ、傷ついたこと。
――けれど今は、もう迷わない。
この身を、誰かのために。それだけが、聖騎士としての歩みを支える礎だった。
穏やかな拍手が広がっていく。顔を上げたノアの視線の先には、参列席の最前列に立つ両親の姿があった。
ユーノスとローザ。ふたりのまなざしが、静かに娘を見つめ、そっと頷く。
その傍らには神官長イスズ、近衛騎士団長イスト、そして飛行艇団団長ラクティス――
「いやぁ~! 立派になったなぁ、ノアちゃーん!」
その中で、場に不釣り合いなほど大きく響く声と拍手が、張り詰めた空気を和らげた。
肩を揺らして笑うイスズと、無言で眼鏡を持ち上げるイストの姿が、ささやかな余白を刻む。
* * *
式から幾ばくかの時を経て――
王城西棟の一角。かつて訓練騎士の宿舎として使われていた建物が、新たに“聖騎士詰所”として整備され、その扉を再び開いていた。
白い廊下を並んで歩むのは、ノア・ライトエースとレクサス・アルファード。
「ここが、君の新しい場所だよ。これからは、ここを拠点に動くことになる」
「……なんだか、実感が湧きません」
「ゆっくりでいい。けど、君にはきっと似合うと思ってた」
穏やかなやり取りの末に、扉が開かれる。整然と整えられた室内――机と椅子、書棚。
その机の上には、ガラスのリンゴの文鎮が静かに置かれていた。
「……これ」
「少しだけ、準備に関わらせてもらったんだ。君が落ち着けるようにって」
ノアが振り返る。レクサスの顔は、どこか照れくさそうで、それでもその瞳は真っ直ぐだった。
「ありがとう、レックス。本当に、嬉しい」
言葉の奥に、ふたりの過ごしてきた時間と、言葉にはならない想いが滲む。
ノアはそっと手を伸ばし、そのリンゴに触れた。
ひんやりとした感触と、光を孕む硝子の中に、懐かしさと希望が溶けていた。
――その空気を破ったのは、勢いよく開いた扉だった。
「お〜〜っす! おじゃましまーす! 聖騎士様の詰め所開設と聞いて、団長ラクティス参上だ!」
陽気な声とともに現れたその姿。
窓明かりを浴びた橙髪が、まるで炎のようにきらめいていた。
「ラクティス団長……!」
「硬いなぁノアちゃん! こんな日くらい肩の力抜けって~」
肩を抱かれた瞬間、ノアはわずかに目を瞬いた。
昔からこういう人だと知ってはいても、今は少しだけ、困ってしまう。
(……あんなふうに、触れられるんだな)
隣で見ていたレクサスの胸に、ふとした違和感が芽生える。
ただ――その無遠慮な仕草が、妙に気になってしまったのだ。
「おっと……なんか、邪魔だったかな?」
ラクティスは肩をすくめる代わりに、軽く手を上げて茶化すように笑う。
「ま、詰所の視察って名目は果たしたし? あとはおふたりで、ごゆっくり~ってな!」
そう言いながら踵を返したかに見えて――
扉の前で、ふと立ち止まる。
「……それにしても、ノアちゃんがもう“詰所の主”か~。感慨深いなぁ。な? レク坊?」
「……その呼び方、そろそろやめてください」
言葉とは裏腹に、声色にはどこか慣れた響きが混じっていた。
「えー? 可愛いのに?」
ラクティスは肩をすくめ、からかうような笑みを返すだけだった。
昔から変わらないその反応に、レクサスもそれ以上は何も言わない。
「……じゃ、またな~!」
冗談めいた笑みを残し、ラクティスは軽やかな足音を響かせて、廊下の向こうへと消えていった。
ラクティスの姿が消えたあとも、レクサスはしばらく扉のほうを見つめていた。
無遠慮に肩へ触れたその手。それを、ノアは拒まなかった。
どこか胸の奥に、言いようのない感情が残った。
嫉妬、というには幼く、独占欲というには儚い。
(……僕は、“特別”なんかじゃないのかもしれない)
それでもいい。
ノアが笑っていてくれるなら。
その想いを、レクサスは静かに息とともに沈めた。
そっと彼女の横に立ち、変わらぬ穏やかさで微笑む――それが、自分にできるすべてだった。
残された静けさの中で、時間がゆるやかに流れていく。
棚に並ぶ書物へと目を向けるノアに、レクサスがふと口を開いた。
「……そうだ。もうひとつ、案内したい場所があるんだ」
扉を開き、導かれるままに進む先。そこには控えめな装飾が施された一室があった。
「聖騎士としての詰所とは別に――君の“私室”も用意しておいたよ。少しだけ、静かに休める場所があったほうがいいと思って」
室内には、簡素ながらも温かみのある調度が並び、窓の外には懐かしい中庭の光景が広がっていた。
「……なんか、ここ懐かしい感じがする。窓から見える中庭も……やっぱり、好きかも」
「だよね。あそこ、昔よく一緒に遊んだもん。……ノアが木に登って、落ちかけたときとか」
「ふふっ。あったね。レックスが下で慌ててた」
「……ちゃんと受け止めたよ。僕なりに、必死だったんだから」
思い出と、今とが静かに重なるひととき。
春の風が窓をすり抜け、カーテンをやわらかく揺らした。
そのぬくもりは、ふたりの記憶と未来を、そっと結びつけていた。
風に揺れるカーテンの先、春の光が中庭の花々を照らしていた。
ノアとレクサス、その肩越しに、未来という名の景色がそっと顔を覗かせていた。
一方その頃――
ラクティスが詰所を後にし、艇庫へ向かう廊下の角を曲がったその瞬間――空気が変わった。
壁際に立つ、壮年の男。鉄灰の髪をきっちりと撫でつけ、鋭い青の眼差しがこちらを射抜く。
王国騎士団長――ユーノス・ライトエース。
「……ラクティス飛行艇団長殿。任務帰還直後もお元気のようで何よりだ」
「え、あっ、はい!? あの、お久しぶりで――」
ラクティスの軽い調子は、その声に遮られた。
「……ひとつだけ、念を押しておこう」
ユーノスは、微動だにせず、ただ淡々と――けれど明確な“威圧”を込めて言い放った。
「私の娘に、妙な気を起こすことがあれば……それ相応の覚悟はしておけ」
「…………ッ! いやいやいや、まさか! ないです! ほんとに!」
「……そうか。ならば、よい」
くるりと背を向け、無言で去っていくその姿には、王国最強の剣士としての風格と、娘を想う父の“無言の圧力”が重なっていた。
(あれ……笑ってなかったよな? ていうか、目、笑ってなかったよな!?)
ラクティスはその場に立ち尽くし、冷や汗を拭う。
「……こっっっっっっわ。あれはガチのやつだ……!!」
ユーノスパッパすき