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七話:聖騎士としての初任務

 王都の夜。深い静寂が城壁の隅々にまで染みわたり、月光だけが、冷たい銀の意志のように石畳を照らしていた。


 その静謐の中、ひとつの剣が、聖騎士ノア・ライトエースの前に据えられていた。


 白銀の刀身に、澄んだ青の宝珠を宿すそれは、王城宝物庫より選ばれし古き剣。


 王と王妃の承認と神官長イスズの魔導加工、そして王子レクサスの願い――幾重にも想いを重ね、今、ふたたび“未来を導く剣”として生まれ変わった。


「アベニール」


 その名は、光を信じる者に託された祈り。


 ただ敵を斬るのではなく、魂を導き、迷いし者に寄り添う剣。


「この剣と共に、私は誓います。誰かの背を守る者ではなく、誰かの“前に立つ者”として」


 ノアはそっと夜空を仰いだ。


 胸の奥に、小さな光が静かに燃える。


 まだ見ぬ明日へと歩き出す、第一歩の夜だった。


 * * *


 夜が明け、王都の空に朝日が射し始める頃。


 東門の前、やわらかな朝光が石畳に長い影を落としていた。


 ノアは、整えられた馬車の傍らで、静かに支度を整えていた。


 今日の予定は、各駐屯地への挨拶と軽い巡回任務。


 聖騎士としての、ささやかな初陣。


 ――そのはずだった。


 そのとき、詰所の方から慌ただしい足音と怒鳴り声が飛び込んできた。


「だから本当なんだってば! ゼストの村が……村ごと沈黙してるんだ!」


 駆け込んできたのは、東方街道を行き交う行商人だった。


 旅装束は土にまみれ、額には脂汗が滲んでいる。疲弊と恐怖が入り混じるその表情に、詰所の騎士たちが息を呑む。


「ゼスト村……? 第三街道沿いの――」


 すぐさま伝令が走り、報告は騎士団の詰所へ届けられた。


 やがて、静かな足音が朝の空気を割く。


 騎士たちの視線が一斉に向いた先に、イスト・スタウトが姿を現した。


 銀縁眼鏡の奥に宿る瞳は、陽光を受けても揺らぐことなく、鋭さを湛えていた。


「団長――ユーノス殿は?」


「北の演習の指揮で、今日明日は戻れません」


「……そうか」


 イストは手渡された簡易報告書に目を通し、そして迷いなくノアを見た。


「ノア。君に行ってもらう。これは、私の判断だ」


 ノアは小さく息を呑んだが、すぐに表情を引き締めて応える。


「はい。命じてください」


「本来なら辺境警備隊の管轄だが――村ごと沈黙しているとなれば、悠長な調査はできん」


 イストの声音には、わずかな重みが宿っていた。


 騎士としての責務か、それとも――王国騎士団長の娘を送り出すことへの、わずかな逡巡か。


「初任務には重いが……今の君なら、任せられる」


「ありがとうございます。……必ず、原因を突き止めてまいります」


 ノアは深く一礼し、馬車へと乗り込む。


 朝日に照らされた剣が、わずかに輝いた。


 振り返ることはなかった。――その背に宿す覚悟が、すでにひとつの道を選んでいたから。


 第三街道を抜け、馬車が村へと近づくにつれ、風の音が変わった。


 ノアは静かに目を閉じた。


 馬車の揺れが、胸の奥に沈む何かを揺さぶる。


 任務としての冷静さの裏側で、異変に触れることへの、不確かな怖れが顔を覗かせる。


 けれど、誰かがそこにいるのなら――そう思うたび、心は剣へと向かった。


 “迷うな”。己にそう言い聞かせ、ノアは静かに息を整えた。


 野鳥の囀りは途絶え、木々の葉擦れさえも、何かに怯えるように静まり返っている。


 まるで、大気そのものが“息を潜めている”ようだった。


 村の入り口で、ノアはふと手を止めた。


 鼻先をかすめる焦げたような匂い。焼け落ちた建物はないはずなのに――


 ノアは立ち止まり、息をひそめた。


 空気の流れが変わっていた。肌を撫でる風が、どこかぬめりを帯びている。


 鼻腔を刺すようなこの匂い……それは、濃密な魔素が“焼ける”ことで発生する、魔力腐蝕の兆し。


 そして、それはただの腐蝕ではない。


 魔素そのものが命に染み入り、形を変えようとする“喰らう気配”を孕んでいた。


 異形の存在は、生あるものを喰らうだけでなく、その場の空間そのものを蝕んでゆく。


 ノアは剣の柄に手をかけ、静かに構えを整えた。


 ただの魔物ではない――どこかで、確信めいた感覚が胸を締めつける。


 今、自分が立つこの場所で、何かが終わり、そして残されたままになっている。


 それは剣を取る者としての直感であり、少女としての本能だった。


 一歩、また一歩と足を進めるたび、心が冷たく研ぎ澄まされていく。


 ゼストは、静寂の村だった。


 湯気を失った鍋の中には、途中で止まった夕餉の名残。乾きかけた洗濯物が、誰にも取り込まれぬまま風に揺れている。


 家々は壊れていない。生活の痕跡も確かに残っていた。


 だが、人の気配だけが、まるで霧のように拭い去られていた。


 まるで、生きていた証だけを置き去りにして、村そのものが時間から切り離されたかのように。


 広場の中心に、黒くひび割れた地面と、歪んだ花弁を咲かせた奇妙な残骸。


 どれも、何かを忘れかけたような形で、そこに“在って”しまっていた。


 祠の前に近づいたその瞬間、ノアは思わず立ち止まった。

 心臓が、不自然に“ひとつ飛ばした”ように感じた。


 耳の奥で、誰かの声が掠れていた。


 言葉にはならない。ただ、「ここにいる」と、訴えるような――そんな気配だけが。


 祠の裏手から、ずるりと何かを引きずる音が響く。


 そこに現れたそれは、獣とも植物ともつかない、形容しがたい異形だった。


 背から生えた花弁は、まるで“開きかけた肉の花”のように歪み、どこか濡れていた。


 蔓は地を這い、静かに心臓の鼓動を真似るような音を立てて、ノアの方へと伸びてくる。


 その顔には瞳すらなく、穿たれた空洞の奥に、一輪の花が揺れていた。


 それは、怒りでも憎しみでもなかった。


 ただ、ひどく悲しかった。


 抑えきれない感情が、あふれるように滲んでいた。


 ――これは、何かを失った者の嘆き。

 ――それが、世界にこぼれ落ちた形。


 地を這う蔓には、人の腕に似た節が浮かび、散り咲いた花弁の中には、まるで目玉のような白濁が覗いている。


 命の残滓か、未練の凝結か。――誰にも、正体は分からない。だが確かに、それは“ここで何かが終わった”という証だけを、その身に宿していた。


 けれどノアは悟る。これが、“誰かのなれの果て”なのだと。


 殺されたのではなく、変えられてしまったのだと。


 それは、何かの意志というより、こぼれ出した想いが形を持ってしまったもの。


 蔓がうねり、ノアへと襲いかかる。


 刃を抜き、祈りを込める。


「この怒り……この悲しみ……」


「どうして、こんなにも……誰かを責めるような、“嘆き”が染みついてるの……?」


 アベニールの剣閃が蔓を断ち切り、断面から赤い花粉がふわりと舞った。


 それは幻のように揺れ、どこかから誰かの泣き声がこぼれる。


「たすけて……こわい……」


 ノアは祈るように剣を構え、静かに踏み込む。


「どうか、還って――」


 一閃。祈りの光が刃を包み、異形の体を優しく照らす。


 呻き声はやがて静かになり、灰となった花弁が、風に乗って散っていった。


 それは確かに、“ありがとう”という囁きとともに、空へ還った。


 その場に膝をつき、ノアは剣を地に立てた。


「私は――忘れません」


 宝珠がやわらかに光を灯し、風が静かに吹き抜けていった。


 任務を終え、王都へ戻ったノアは、近衛騎士団に報告を上げた。


 記録には、ゼストという村の名と、住民たちの名前もきちんと記されていた。


 その一人ひとりに、ノアは祈りを捧げた。誰かの言葉に留まることなく、確かに存在していた命として、正しく弔うために。


「名が記されていたからこそ……」


 ノアは静かに言う。


「私は祈ります。その名が忘れ去られることのないように。ここに生きていた人々のために」


 夜、大聖堂。


 ノアは再び、祭壇に剣を立てて祈った。


 手の中にある祈りは、剣の重さとは比べものにならない。


 戦ったのは異形に対してではない。


 そこに確かに“生きた誰か”がいたという事実を、見落とさぬために。忘れぬために。


 ノアは瞳を閉じ、ひとつ、長く息を吐いた。


 心の奥に小さな傷を刻みながら、それでも前を向くために――


 名を知らずとも、心を向ける。それが彼女の在り方だった。


「どうか、安らかに――還ってください」


 アベニールの宝珠が淡く光を放ち、その光は、静かに遠くゼストの空へと向かっていった。


 一方、大聖堂の塔の上。


 神官長イスズ・エルガは、風に髪を遊ばせながら、静かに夜空を見上げていた。


「感情ってのは、ほんと厄介だねぇ……。特に、あの女のはさ」


 高く吊られた銀の装飾が、風に揺れてかすかに触れ合い、澄んだ音を立てた。


 イスズは目を伏せる。


 すぐ近く、地の底で眠る本当の自分を想う。

 かつて、レガリアを封じるために受けた呪いを抑えるべく、命ごと時間を凍らせた竜の身体。


「……全部、止めたつもりだったんだけどね」


 その言葉は、風に消えるように小さく呟かれた。


「二度目の封印は、セルシオ一人にやらせちゃったし……。あたしはもう、人の身体で――動ける状態じゃなかった」


「本当は、一緒に行くつもりだったんだけどなぁ……あの時、立ち上がることもできなかったよ」


 苦笑まじりに空を見上げるその目に、かすかな悔いが浮かぶ。


「ったく……一番しんどい役を背負わせちまってさ。あの子に」


 声はどこか遠く、少しだけ、滲むように揺れていた。


「ま、いいさ。ノアなら、きっと大丈夫。あの剣と一緒なら、ね」


 彼女の目が、黒い空の向こうに光る未来を捉えていた。


 静かに、確かに、始まりの鐘は鳴っている。

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