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四話:風の還る場所

 エンジンが唸りを上げ、飛行挺が振動と共に浮かび上がる。


 青い機体はゆるやかに加速し、蒼穹を滑るように航行を始めた。陽光を受けて艇体は優雅に輝き、風は穏やかに吹き抜ける。海の波紋をなぞるような揺れの中、潮の香りがかすかに漂っていた。遥か彼方には、陽炎のように揺れる小島の影が見える。


 ノアは甲板の手すりにそっと手を置き、風に揺れる髪を押さえながら、眼下に広がる世界を静かに見つめていた。


 エルグランド――かつて創世神イースが天地を創り、金と銀のエンシェントドラゴンが空を翔けたと伝えられる世界。その海には、世界の成り立ちを知る古の記憶が、今もひっそりと息づいているという。この航路では、稀に水竜が優雅に泳ぐ姿を見せるといい、それを目にしようと、多くの乗客が甲板に足を運んでいた。


 遠ざかる島の姿が、ゆるやかに海の彼方へと溶けてゆく。


 ――ただの帰郷ではない。


 潮風が頬を撫でる中、ノア・ライトエースの胸に刻まれていたのは、「旅立ち」の名を持つ明確な決意。その歩みは、もう誰かの背を追う少女のものではなかった。


 彼女自身が、誰かの背を守る者となるための――第一歩だった。


 飛行挺の高度が安定し、ゆるやかな航行へと移る頃、甲板では乗客たちが思い思いに風を感じていた。 ノアもまた、手すりにもたれ、流れる雲と陽光をぼんやりと眺めていた。


 ふと、背後から小さなはしゃぎ声が響く。 振り返ると、小さな兄妹らしき二人が、親の目を盗んで甲板を駆け回っていた。 「だめだよ、落ちちゃうって!」「お姉ちゃんが遅いんだもん!」 怒る声と笑い声が交錯し、すぐに保護者らしき人物が駆け寄って、優しく叱る。


 ノアはその様子を目で追い、自然と口元がほころんだ。


 ――昔の私たちも、あんなふうだった。


 王城の中庭、石畳の回廊、訓練場。 レクサスと駆け回った日々が、潮風に乗ってふいに蘇る。 無邪気な笑い声。転んで膝を擦りむき、涙をこらえながらも「平気」と強がったあの頃。


 気づけば、目元に指を添えていた。涙ではない。ただ、風が強くなっただけ。


 けれど――


(もう、あの頃の私じゃない)


 ノアはそっと背筋を伸ばし、視線を前へ向けた。 空の先、かすかに王都の尖塔が姿を見せ始めていた。


 * * *


 やがて、王都が朝靄の向こうにその輪郭を覗かせる。


 石畳の街路、塔の頂に揺れる王家の紋章、そして遠くから聞こえる鐘の音。それは、かつてノアが歩んだ日々の証。その風景は、懐かしくもあり、どこか遠い異郷のようにも感じられた。


 飛行挺が港の発着場へと滑るように近づく。その動きは、やがてゆっくりと、静かな着地へと至った。


 二年ぶりに踏みしめるストーリアの地。その足元に広がる石畳の感触が、彼女の帰還を現実のものと告げる。


 ――そして、視線の先に。


 白と青の騎士服。風に揺れる銀髪。そして、かつてよりも少し背が伸び、凛々しさを増したその立ち姿。変わらぬ微笑みを浮かべ、そこに立っていたのは、あの日の記憶に寄り添いながらも、確かな成長を遂げた青年――レクサス・アルファードだった。


 変わらぬ笑みの奥に、確かに「今」を生きる者の気配があった。


 懐かしく、しかしどこか遠くなった彼の微笑。それでも、その眼差しに宿る温もりは、確かに変わらなかった。


 ノアは胸の奥に湧き上がる熱を押さえきれず、一歩踏み出し、深く頭を下げる。


 その姿を見て、レクサスの瞳がふと揺れる。 静かに、しかし確かに、彼は感じ取っていた。


 ――あの日の君とは、もう違う。 でも、それでいい。 君が“今の君”として、ここに帰ってきてくれたのだから。


「……ただいま戻りました。レクサス殿下」


 レクサスはわずかに瞬きをし、微笑を浮かべて、ゆっくりと口を開く。


「おかえり、ノア。……君が無事で、本当に良かった」


 安心したように微笑むその顔が、ふと曇る。


「……でもさ」


 レクサスはわざとらしく目を伏せ、口を尖らせてみせた。


「“殿下”なんて……ずいぶん距離を感じるなぁ」


 だが、彼の表情はすぐに穏やかにほどける。


 ノアの肩がわずかに揺れた。


「っ……ご、ご無礼を」


「……君は、今も変わらず真面目だね」


「私はもう聖騎士ですし、あなたは……ストーリアの王子ですから」


「でも、僕は“君”の前では、ずっと“レックス”だったはずだよ?」


 言葉を失ったノアは、しばし黙し、視線を落とした。そして、静かに口を開く。


「……ですが、それは子どもの頃の話です。今は……立場も責任も違います。もし私が勝手に昔のように呼んだら、周囲に不敬と受け取られてしまうかもしれません」


 レクサスは苦笑し、微かに目を伏せる。


「気にしてるのは“僕”じゃなくて、“周囲”なんだね」


 その声音には、責める色など一切なかった。ただ、かすかな寂しさが、その言葉の端に滲んでいた。


「……なら、せめて二人きりのときだけでも、昔みたいに呼んでくれないかな。僕のこと、“レックス”って」


 ノアの瞳が揺れた。


 その名は、幼き日々の象徴。決して戻れないと思っていた時間の欠片。


「……それは……」


 言いかけた彼女の迷いを、レクサスは咎めず、ただ静かに見守る。沈黙は、優しさと信頼に満ちていた。


 やがて、ノアの唇がそっと動いた。


「……わかりました……レックス、って……その……呼ばせてもらいます……」


 かすかに震えたその声音は、懐かしさを帯びた風のように、そっとレクサスの心に触れる。


 青年は、ふと微笑んだ。


「……ありがとう。ノア」


 その名を呼ばれたノアの胸に、あの日の風景が蘇る。


 訓練場の砂埃、城の中庭で交わした笑い声。忘れかけていた想いが、微かな温もりと共に胸の奥で目を覚ます。


 もう戻れないと思っていた日々が、ほんの少しだけ、今と重なり合った。


 そして、王都の朝の風が、二人の間を穏やかに通り抜けていった。


 * * *


 レクサスに見送られたあと、ノアは騎士団詰所へと足を運んだ。


 太陽はすでに高く昇り、王都の塔の影をくっきりと石畳に落としていた。


 詰所では、懐かしい顔ぶれが声をかけてくる。


「ノア!」「本当に聖騎士になったんだな」


 一人ひとりに挨拶を返しながらも、どこか現実味が薄いように感じた。かつてここが自分の“日常”だったはずなのに――それはもう、遠い記憶のようだった。


 その奥で、執務机の前に立つ銀髪の男が、書類に視線を落としながら声を落とした。


「帰還、お疲れ様です」


 近衛隊長、イスト・スタウト。ノアに剣術と規律を叩き込んだ師でもある。


「……騎士として、恥じぬ成果を挙げられました」


 ノアがそう言って頭を下げると、イストは一拍置いてから顔を上げた。

 その水色の瞳が、まっすぐに彼女を見据える。


「報告書にはすでに目を通した。課された修練と試練に対し、貴殿は然るべき成果を収めたと判断する」

「――立派な働きだ。胸を張って良い、ノア・ライトエース」


 その言葉のあと、イストの口元がわずかに――本当に僅かにではあったが、緩んだ。


 普段の厳格な表情を知るノアにとって、それは十分すぎるほどの“褒め言葉”だった。


「……魔物の目撃情報が増えていると聞きました」


「ああ」


 イストは手元の報告に目を通しながら応じた。


「王都周辺、街道沿い、郊外の森。今月だけで、目撃件数は前月比で三倍を超えている。特定の方角に集中する傾向はない。現状では、分散して拡がっているように見える」


 ノアは沈黙の中で地図を見やった。点々と印された赤い印――だが、その広がり方が、ただの偶然とは思えなかった。


 目に見えない何かが、王都を囲うように近づいてきている。


 心の奥に、微かに冷たいものがざわめいた。


「……備えは、事が起こる前に整えておくものです」


 イストの声音は変わらない。だが、その静けさには、確かな警戒と判断の鋭さが宿っていた。

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