三十九話:竜と氷の村・前編
詰所の片隅、陽光の差す机で、ノア・ライトエースは報告書を書いていた。
筆が止まる。静かな扉越しに、控えめなノック。
「失礼いたします、ノア様。……投書が届いております」
差し出された封筒は角が折れ、何度も握り直された皺が残っていた。躊躇いと焦りが、紙の硬さに染みついている。ノアは礼を言って受け取り、封を切った。
紙面には、簡素な文字が並んでいた。
『私たちの村で、急な氷害が起きました。倉庫が凍り、梁が折れ、人が大怪我をしました。
竜の仕業だと皆が言います。けれど、あの竜は暴れる竜ではありません。
姿を消しました。……自分を責めているように見えます。
どうか、確かめてください』
署名はない。ただ、最後に小さく村の名だけが書かれていた。
ノアは紙をそっと机に置く。胸の奥に、冷たいものが沈んでいく感覚。
近頃、竜の名が妙に耳に残る。大きな戦乱ではない。けれど、火種のように、静かに残るものがある。
外套に手を伸ばそうとしたとき、背後から柔らかな声がかかった。
「ノア、今――」
振り返れば、王子レクサス・アルファードが詰所の入口に立っていた。
用事があって来たというより、通りがかりに思い立って顔を出した――そんな気配。穏やかな微笑のまま、だが視線は机の上の紙ではなく、ノアの表情に留まっている。
「……邪魔だったかな」
「いえ。殿下、どうされました」
「少しだけ、様子を見に。――顔が硬いね」
ノアは言葉を選びきれず、手元の紙に視線を落とす。
レクサスは一歩、距離を詰めかけて、すぐに止まった。
勝手に踏み込まない距離で、穏やかに言う。
「……それ、読んでもいい?」
ノアは少し間を置き、頷いた。
レクサスは紙面を受け取り、必要なところだけを静かに追う。読み終えたあと、視線を上げた。
「――氷害。倉庫が凍って、人が大怪我を……」
声には揺れがなかった。だが、それは冷淡ではなく、事実を受け止めるための平静。
「……僕も同行するよ」
ノアはわずかに目を見開いた。
王族が現地に出ることの重さ。村人の動揺。責任。もしもの危険。制止の言葉が喉の手前まで上がって――それでも、止まった。
レクサスの視線が揺らがなかったからだ。
「君に任せきりにはしたくない。……竜が“力”として裁かれる瞬間を、僕は見過ごしたくないんだ」
ノアは息を吐き、頷いた。
「……承知しました。ですが、護衛の人数は近衛の規定があります。イスト隊長にも確認を取ります。可能な限り、目立たない形にしましょう」
「うん。そこは僕からも話す」
それだけで、レクサスは十分だと言うように微笑んだ。
ノアは出立の段取りを頭の中で組み直す。
「……では、殿下は馬で。私は――」
口にする前に、ノアは一瞬だけ言葉を噛んだ。
その理由を、説明する必要はない。レクサスは、もう知っている。
「……私は竜の姿で飛びます。合流地点を決めれば、時間も――」
「ノア。目立たない、という話をしていたよね」
即答。落ち着かせるような、迷いのない声。
「事故の直後に竜が空から降りたら……村は救援より先に恐れる」
正しい。だからこそ、言葉が出ない。
「……では、馬車を用意します。できる限り目立たない形で――」
言い終える前に、ノアは自分の言葉に小さく気づいてしまった。
“目立たない”と言っておいて、“馬車”。ノアは一瞬だけ視線を泳がせ、小さく唇を結ぶ。
「馬車は遅い。入口で止まれば、人目も集まる」
レクサスは声を荒げないまま、淡々と現実を並べる。
「遅いほど、村は疑いに傾く。……恐れは、空白に勝手な想像を詰め込む」
ならば――殿下には城に残っていただき、自分だけが向かう。理屈としては正しい。
けれどそれを口にすれば、彼の心配を退ける形になる。
ノアは視線を落とした。
その沈黙を見て、レクサスはわずかに眉を和らげた。
「困らせてごめん」
詫びる声音は、軽くない。しかし、言葉はそこで止まらなかった。
「それでも僕は行く。……この件を、君ひとりの肩に乗せたくないんだ」
その一言で、ノアの正論は形を失う。
残るのは、頷くしかないという現実だけ。
「だから、僕の馬で二人乗り。目立たず、速く着ける。君は前でいい。僕が支える。……君の負担も減らせる」
“支える”という言葉が、命令ではなく配慮の形をしているのが、いちばんずるい。拒む理由を、丁寧に奪っていく。
「……承知しました、殿下」
その返答に、レクサスの空気がほんの少しだけ緩んだ。勝ち誇るのではなく、安堵が形を取ったような微笑。
声は平静に整えた。
それでも、胸の熱がふっと頬へ上る。ノアは視線を上げないまま、手袋の指先をそっと握りしめた。
* * *
そのまま出立できるほど、城は自由ではない。
まず通すべきは、近衛の規定だ。
「……まずは近衛の許可を取ろう」
レクサスの声は落ち着いていた。甘さを断ち切るのではなく、現実へ戻す声。
ノアは小さく頷き、二人は足早に近衛の詰所へ向かった。
イスト・スタウトは報告を聞き終えると、銀縁眼鏡の奥で視線を細めた。
「殿下の外出に、護衛“最小限”は認められません」
淡々とした声音。感情ではなく規律の刃。
レクサスは頷いた。拒むのではなく、正面から受け止める仕草。
「当然だ。……だから、相談に来たんだ」
言葉は静かで、揺れがない。
「今回の現地は、恐れと疑いが先に立っている。ここで護衛を増やせば、村は“救援”より“示威”を受け取る。――それは、僕の望む形じゃない」
イストはすぐに答えない。
沈黙の中で、条件が組み上げられていくのが分かる。
「……危険性の評価は」
「未知数だ。だからこそ、精鋭でいい。数ではなく、質で守る」
レクサスは間を置き、続けた。
「王子として、この件を“聖騎士ひとりの任務”にはしたくない。だが同時に、村を追い詰める形も取りたくない。――その両方を守るための護衛だ」
イストの視線が、ほんのわずかに揺れた。
規律に忠実な男が、言葉の“筋”で動かされる瞬間。
「……随行は二名。目立たぬ装いで距離を取らせます。緊急時は即時撤退。これが条件です」
「ありがとう」
レクサスの答えは短い。
礼の形を取りながら、すでに次の段取りへ意識を移している。
横で聞いていたノアは、小さく息を吐いた。
彼は、守るべきものから順に並べた。――いつもそうだ。
イストは少し黙して、ノアへ視線を向けた。
「ノア殿。現地判断で構いません。ただし、殿下を“守るために”無理をしないこと」
「……承知しました、イスト隊長」
イストは最後にレクサスへ向き直った。
「では、行ってらっしゃいませ。――ご武運を」
形式的な言葉のはずだった。しかし、その声音には、僅かな温度があった。
* * *
城門を抜けると、冷えた空気が頬を撫でた。
厩で待っていた黒毛の馬を見た瞬間、ノアは小さく息を吐く。
「……コルト」
あの時も、この背に並んで乗った――
名を呼ぶより早く、馬のほうが近づいてきた。柔らかな鼻先が、ノアの手袋越しにそっと触れる。確かめるような仕草。
ノアは目を細め、首筋へ手を伸ばして毛並みを撫でた。指先に伝わる体温が、胸の熱を少しだけ落ち着かせる。
レクサスが先に鞍へ上がる。続けて差し出された手。ノアは一瞬だけ逡巡し、結局その手を取った。
引き上げられ、ノアは前に収まる。背後に気配が満ちる。距離が近い――ただそれだけの事実が、意識を過剰に働かせた。
レクサスは必要以上に触れない。けれど馬が歩み出した瞬間、ノアの重心が揺れかけたのを見逃さず、腕がそっと回る。
ノアは背筋を固め、平静を装う。任務だ、と心の中で繰り返す。
それでも頬の熱だけは冷めず、外気の冷たさでも誤魔化せない。




