表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Dragon's Song-竜は祈りを捧ぐ その傍に在る者と共に  作者: 篁 玖月
慟哭の竜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/42

三十八話:選び直すために

 最初に戻ってきたのは、音だった。


 遠くで、何かが軋むような――風とも、布擦れともつかない、微かな気配。

 次いで、瞼の裏に差し込む、淡い光。


 ――生きている。


 そう理解するまでに、少し時間がかかった。


 ルフレ・スターレットは、ゆっくりと目を開けた。

 白い天井。高い梁。石造りの壁。

 どこかで嗅いだことのある、清めの香。


 神殿だ、と遅れて思い至る。


 身体は重く、指先に力が入らない。

 痛みはない。ただ――胸の奥が、空洞のように冷えていた。


 夢を見ていた気がする。

 炎。叫び声。黒い光。

 けれど、それらは形を結ぶ前に、霧のように溶けていった。


 代わりに残ったのは「取り返しのつかないことをした」という感覚だけだった。


 どれくらい眠っていたのかは分からない。


 ――心が、先に限界だったのだと。

 誰かに、そう告げられた気がする。


 目覚めたその日から、ルフレは、同じことばかり考えていた。


 ――このまま、守られていていいはずがない。


 * * *


 神殿の一室は、午後の光に満ちていた。

 高い窓から差し込む淡い日差しが、白い石床に、柔らかな影を落としている。


 ルフレは椅子に腰掛け、両手を膝の上で固く握りしめていた。


 向かいの椅子にはノア。

 その隣にレクサス。

 少し離れた位置で、イスズが肘をつき、退屈そうに天井を見上げている。


 沈黙に耐えきれず、ルフレは口を開いた。


「……ボク」


 声が、思ったよりも小さくなった。


「ボク、この国で……働きたいです」


 言葉を選びながら、必死に続ける。


「掃除でも、運びでも、なんでも……。ボクがやったこと、全部……取り返せないって、分かってます。でも……」


 視線が落ちる。

 卓の上、オルゴールの、触れられない蓋の上へ。


「……償いたいんです」


 その瞬間、間髪入れずに声が飛んだ。


「ダメー」


 あまりに軽い即答だった。


 ルフレが顔を上げる。

 イスズは、何事もなかったかのように欠伸を噛み殺している。


「……え?」


「だから、ダメ」


 今度ははっきりと。

 イスズは視線を下げ、ようやくルフレを見る。


「働くのはね、大人の仕事。アンタはまだ――世界を知らなさすぎる」


「でも……!」


 思わず声を強めると、喉が詰まった。


「ボク、ここで何もしないで守られてるだけなんて……それじゃ……」


 言葉が続かない。

 “許されない”と言いたかった。

 けれど、口に出す勇気がなかった。


 イスズは椅子に深く腰掛け直し、指で卓をとん、と叩く。


「“償いたい”って言葉が先に出るうちはさ」


 少しだけ、声の調子が変わった。


「……まだ、自分の傷を抱えるので精一杯なんだよ」


 ルフレの肩が、びくりと揺れる。


「そもそもさアンタ、子どもでしょ?」


 イスズは、肩をすくめるように続けた。


「そんな状態で働くとか……千年早い」


 少しだけ間を置いて。


「アンタが壊したものはね、汗かいて働いたらチャラ、なんて都合のいいもんじゃない」


 けれど、その言葉には突き放す冷たさはなかった。


「だからまず、勉強」


 イスズは指を立てる。


「字を覚える。歴史を知る。この国が、何を守ってきたのか。何を失って、それでも立ち上がってきたのか」


 唇を噛みしめる。


「……それで」


 震える声で、ルフレは尋ねた。


「それで……ボクは、許されますか」


 一瞬、部屋の空気が張り詰めた。


 イスズは首を傾げ、はっきりと言う。


「さあ?」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


「許すかどうかなんて、誰にも決められない。アンタ自身にも、ノアにもね」


 でも、と付け加えて。


「“選び直す力”は、ちゃんと手に入る」


 ノアは黙ったまま、ルフレを見ていた。

 裁くでも、慰めるでもなく、ただ、そこにいる。


 レクサスが静かに口を開く。


 責める声ではなかった。

 それは、止めるための言葉だった。


「君がここにいる理由は、役に立つためじゃない」


 ルフレは、初めてレクサスの目を見る。


「生きるためだ」


 その言葉が、胸に落ちるまで、少し時間がかかった。


 * * *


 ノアは、膝の上に置いた布包みへと視線を落とした。


 神殿の小部屋。

 午後の光はやわらかく、窓の外では、風が木々を揺らしている。


「……これ、ね」


 彼女は布の端に指をかけ、言葉を選ぶように、一度だけ息を吸った。


「ラクティス団長たちが、アストラで復興支援をしていたときに見つけたの」


 向かいの椅子に座るルフレは、何も言わずに聞いている。

 視線は、布包みから外れたままだ。


「詳しい場所までは、聞いてない。ただ……“最初に魔力被害が大きかった村の、廃屋の中”って」


 ノアは、そこで少しだけ言葉を止め、そっと布をめくる。


 現れたのは、淡い茶色の毛皮だった。

 一部には焼け焦げた痕。


「……これを見たとき」


 ノアは視線を落としたまま、続ける。


「理由は分からないけど……なんとなく、気になって……」


 ルフレの喉が、小さく鳴った。


「――もしかして、って思ったの。……君と、関係あるんじゃないかって」


 少し間を置いて、ノアは言葉を足す。


「ラクティス団長もね。……狼にしては、大きすぎるって」


 部屋の中に、静寂が落ちる。


 ルフレは毛皮を見つめていた。

 けれど、すぐには手を伸ばさない。


 まるで、触れた瞬間に“確信してしまうこと”を恐れているかのように。


 しばらくして――覚悟を決めるように、震える手が伸びた。


 指先が毛皮に触れた瞬間、言葉が消えた。

 それから、掠れた声が零れる。


「……間違いない。……母さん、だ」


 それは、推測ではなく確信だった。


 冬の日の、あの温もり。眠る前に嗅いだ匂い。

 そして――最期の日、目の前で倒れた背中。


「……ここに……あったんだ……」


 声は、絞り出すようだった。


 ノアは、何も言えなかった。

 慰めも、言葉も、ここでは違う。


 ただ、少し距離を詰めて、同じ空間にいることを選ぶ。


 やがて、ルフレがぽつりと言った。


「……母さんを殺した人間は、許せない」


 その言葉には、嘘がなかった。


 同時に――その怒りを理由に、自分が何を選んだのかを、ルフレは、忘れてはいなかった。


 その選択をしてから、いつの間にか、彼の傍には、いつも彼女がいた。


 怒りを否定しなかった。

 悲しみを、弱さだとも言わなかった。


「許せないなら、それでいい」


 そう言って、寄り添った。


 その優しさが、救いだったのか、罠だったのか。

 今も、はっきりとは言えない。


 ただ一つ確かなのは――あのとき、彼女は確かに、同じ傷を抱えた者として、ルフレを見ていたということだった。


「……でも」


 小さく息を吸い、


「母さんを……見つけてきてくれて……ありがとう」


 ノアは、静かに頷いた。


 それ以上の答えは、必要なかった。


 * * *


 弔いは、ひっそりと行われた。


 神殿の裏手。

 人目につかない、小さな庭。


 石の根元に、淡い茶色の毛皮の一部が供えられる。


 すべてを土に返すことはしなかった。


 それが、失われたものを忘れないためなのか。

 それとも――生きていくためなのか。


 その違いを、ルフレは、まだ言葉にできない。


 祈りは、短かった。


「……ごめん」


 赦してほしいとは、言わなかった。

 許せない気持ちも、消えなかった。


 それでも――立ち上がることだけは、選んだ。


 神殿へ戻る途中、ルフレは足を止め、振り返る。


 ここで学び、字を覚え、歴史を知る。

 この国が、何を守り、何を失ってきたのかを。


 それは、償いではない。逃げでもない。


 ――選び直すための、準備だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ