三十八話:選び直すために
最初に戻ってきたのは、音だった。
遠くで、何かが軋むような――風とも、布擦れともつかない、微かな気配。
次いで、瞼の裏に差し込む、淡い光。
――生きている。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
ルフレ・スターレットは、ゆっくりと目を開けた。
白い天井。高い梁。石造りの壁。
どこかで嗅いだことのある、清めの香。
神殿だ、と遅れて思い至る。
身体は重く、指先に力が入らない。
痛みはない。ただ――胸の奥が、空洞のように冷えていた。
夢を見ていた気がする。
炎。叫び声。黒い光。
けれど、それらは形を結ぶ前に、霧のように溶けていった。
代わりに残ったのは「取り返しのつかないことをした」という感覚だけだった。
どれくらい眠っていたのかは分からない。
――心が、先に限界だったのだと。
誰かに、そう告げられた気がする。
目覚めたその日から、ルフレは、同じことばかり考えていた。
――このまま、守られていていいはずがない。
* * *
神殿の一室は、午後の光に満ちていた。
高い窓から差し込む淡い日差しが、白い石床に、柔らかな影を落としている。
ルフレは椅子に腰掛け、両手を膝の上で固く握りしめていた。
向かいの椅子にはノア。
その隣にレクサス。
少し離れた位置で、イスズが肘をつき、退屈そうに天井を見上げている。
沈黙に耐えきれず、ルフレは口を開いた。
「……ボク」
声が、思ったよりも小さくなった。
「ボク、この国で……働きたいです」
言葉を選びながら、必死に続ける。
「掃除でも、運びでも、なんでも……。ボクがやったこと、全部……取り返せないって、分かってます。でも……」
視線が落ちる。
卓の上、オルゴールの、触れられない蓋の上へ。
「……償いたいんです」
その瞬間、間髪入れずに声が飛んだ。
「ダメー」
あまりに軽い即答だった。
ルフレが顔を上げる。
イスズは、何事もなかったかのように欠伸を噛み殺している。
「……え?」
「だから、ダメ」
今度ははっきりと。
イスズは視線を下げ、ようやくルフレを見る。
「働くのはね、大人の仕事。アンタはまだ――世界を知らなさすぎる」
「でも……!」
思わず声を強めると、喉が詰まった。
「ボク、ここで何もしないで守られてるだけなんて……それじゃ……」
言葉が続かない。
“許されない”と言いたかった。
けれど、口に出す勇気がなかった。
イスズは椅子に深く腰掛け直し、指で卓をとん、と叩く。
「“償いたい”って言葉が先に出るうちはさ」
少しだけ、声の調子が変わった。
「……まだ、自分の傷を抱えるので精一杯なんだよ」
ルフレの肩が、びくりと揺れる。
「そもそもさアンタ、子どもでしょ?」
イスズは、肩をすくめるように続けた。
「そんな状態で働くとか……千年早い」
少しだけ間を置いて。
「アンタが壊したものはね、汗かいて働いたらチャラ、なんて都合のいいもんじゃない」
けれど、その言葉には突き放す冷たさはなかった。
「だからまず、勉強」
イスズは指を立てる。
「字を覚える。歴史を知る。この国が、何を守ってきたのか。何を失って、それでも立ち上がってきたのか」
唇を噛みしめる。
「……それで」
震える声で、ルフレは尋ねた。
「それで……ボクは、許されますか」
一瞬、部屋の空気が張り詰めた。
イスズは首を傾げ、はっきりと言う。
「さあ?」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「許すかどうかなんて、誰にも決められない。アンタ自身にも、ノアにもね」
でも、と付け加えて。
「“選び直す力”は、ちゃんと手に入る」
ノアは黙ったまま、ルフレを見ていた。
裁くでも、慰めるでもなく、ただ、そこにいる。
レクサスが静かに口を開く。
責める声ではなかった。
それは、止めるための言葉だった。
「君がここにいる理由は、役に立つためじゃない」
ルフレは、初めてレクサスの目を見る。
「生きるためだ」
その言葉が、胸に落ちるまで、少し時間がかかった。
* * *
ノアは、膝の上に置いた布包みへと視線を落とした。
神殿の小部屋。
午後の光はやわらかく、窓の外では、風が木々を揺らしている。
「……これ、ね」
彼女は布の端に指をかけ、言葉を選ぶように、一度だけ息を吸った。
「ラクティス団長たちが、アストラで復興支援をしていたときに見つけたの」
向かいの椅子に座るルフレは、何も言わずに聞いている。
視線は、布包みから外れたままだ。
「詳しい場所までは、聞いてない。ただ……“最初に魔力被害が大きかった村の、廃屋の中”って」
ノアは、そこで少しだけ言葉を止め、そっと布をめくる。
現れたのは、淡い茶色の毛皮だった。
一部には焼け焦げた痕。
「……これを見たとき」
ノアは視線を落としたまま、続ける。
「理由は分からないけど……なんとなく、気になって……」
ルフレの喉が、小さく鳴った。
「――もしかして、って思ったの。……君と、関係あるんじゃないかって」
少し間を置いて、ノアは言葉を足す。
「ラクティス団長もね。……狼にしては、大きすぎるって」
部屋の中に、静寂が落ちる。
ルフレは毛皮を見つめていた。
けれど、すぐには手を伸ばさない。
まるで、触れた瞬間に“確信してしまうこと”を恐れているかのように。
しばらくして――覚悟を決めるように、震える手が伸びた。
指先が毛皮に触れた瞬間、言葉が消えた。
それから、掠れた声が零れる。
「……間違いない。……母さん、だ」
それは、推測ではなく確信だった。
冬の日の、あの温もり。眠る前に嗅いだ匂い。
そして――最期の日、目の前で倒れた背中。
「……ここに……あったんだ……」
声は、絞り出すようだった。
ノアは、何も言えなかった。
慰めも、言葉も、ここでは違う。
ただ、少し距離を詰めて、同じ空間にいることを選ぶ。
やがて、ルフレがぽつりと言った。
「……母さんを殺した人間は、許せない」
その言葉には、嘘がなかった。
同時に――その怒りを理由に、自分が何を選んだのかを、ルフレは、忘れてはいなかった。
その選択をしてから、いつの間にか、彼の傍には、いつも彼女がいた。
怒りを否定しなかった。
悲しみを、弱さだとも言わなかった。
「許せないなら、それでいい」
そう言って、寄り添った。
その優しさが、救いだったのか、罠だったのか。
今も、はっきりとは言えない。
ただ一つ確かなのは――あのとき、彼女は確かに、同じ傷を抱えた者として、ルフレを見ていたということだった。
「……でも」
小さく息を吸い、
「母さんを……見つけてきてくれて……ありがとう」
ノアは、静かに頷いた。
それ以上の答えは、必要なかった。
* * *
弔いは、ひっそりと行われた。
神殿の裏手。
人目につかない、小さな庭。
石の根元に、淡い茶色の毛皮の一部が供えられる。
すべてを土に返すことはしなかった。
それが、失われたものを忘れないためなのか。
それとも――生きていくためなのか。
その違いを、ルフレは、まだ言葉にできない。
祈りは、短かった。
「……ごめん」
赦してほしいとは、言わなかった。
許せない気持ちも、消えなかった。
それでも――立ち上がることだけは、選んだ。
神殿へ戻る途中、ルフレは足を止め、振り返る。
ここで学び、字を覚え、歴史を知る。
この国が、何を守り、何を失ってきたのかを。
それは、償いではない。逃げでもない。
――選び直すための、準備だった。




