三十七話:まだ触れないもの
翌朝、レクサスは城の執務室へと呼ばれた。
窓から差し込む朝の光は柔らかい。
だが、その空気は、夜の静けさとは違っていた。
机の向こうに立っていたのは、
父であり、ストーリア王国の国王である、アリスト・アルファード。
そして、その隣に、シルビア王妃。
「座りなさい、レクサス」
促され、レクサスは椅子に腰を下ろす。
背筋を伸ばしたまま、父の言葉を待った。
「……お前は、ノアと共に歩むと決めたのだろう」
前置きのない問いだった。
レクサスは一瞬だけ息を整え、頷く。
「はい」
王は、それ以上すぐには言葉を続けなかった。
書類に視線を落とし、ゆっくりと頁をめくる。
「昨夜のうちに、いくつか報せが入った。神殿からだけではない。近隣諸国からもだ」
レクサスの指先が、わずかに強張る。
王は顔を上げ、息子を見据えた。
「世界が傾く前に、止められた。その事実は、祝福と同時に、好奇と欲を呼ぶ」
シルビア王妃が、静かに言葉を継ぐ。
「力を称える声もあれば、その力を、どう扱うべきかを語り始める者もいるわ」
レクサスは、唇を噛みしめた。
「……ノアは、そんなことを望んでいません」
「分かっている」
王は即座に答えた。
「だからこそだ、レクサス」
机に両手を置き、王は身を乗り出す。
「お前が、傍に立つ意味は、これから変わる。剣を振るうためでも、ただ守るためでもない」
一拍。
「――止めるためだ」
レクサスは、息を呑んだ。
「ノアは、国のためだと言われれば、自分の気持ちを後回しにしかねない」
王の声は低く、抑えられていた。
「それが正しい選択だと、自分に言い聞かせてしまう娘だ」
レクサスは、息を詰めるように肩を強張らせた。
「……あの子は、優しすぎるのよ」
シルビア王妃が、静かに言った。
沈黙。
「誰かに強いられずとも、自分から差し出してしまう者ほど、危うい」
王は、静かに続ける。
「その歩みが、本当に“彼女自身の望み”なのかどうか――問い続けられる者が、必要だ」
やがて、王はわずかに表情を緩めた。
「それを、お前に託したい」
「父上……」
「私は、共に歩もうとするその覚悟を尊重する」
シルビア王妃が、そっとレクサスの肩に手を置く。
「ノアを、大切にしてあげなさい。守るのではなく……信じて」
レクサスは、深く頭を下げた。
「必ず、彼女の意思を――」
言いかけて、言葉を選び直す。
「……ノアの隣に立ち続けます」
扉が静かに閉じ、足音が遠ざかっていく。
しばらくの間、執務室には沈黙が残った。
「……あの子たち」
シルビア王妃が、ぽつりと呟く。
アリスト王は、書類から視線を上げずに答えた。
「気づいていないな」
それは断定でも、嘆きでもなかった。
ただ、事実を静かに受け止める声音。
「互いに大切に思っていることは、もう十分すぎるほどなのに」
王妃は、小さく微笑む。
「だからこそ、でしょうね。自分の気持ちよりも、先に守ろうとするものが多すぎる」
アリスト王は、ゆっくりと息を吐いた。
「……王家に生まれた者の性か、あるいは、あの娘の優しさか」
どちらとも言わず、王はその先を言葉にしなかった。
「焦らせるつもりはない」
王妃は、穏やかに言う。
「……そのうち、分かるでしょうね」
王は、わずかに頷いた。
「そのためにも――周囲が、余計な言葉を挟まぬことだ」
窓の外では、朝の光が静かに城を照らしていた。
* * *
数日後。
王都にも、ようやく落ち着きが戻り始めていた。
レガリアの放った異形との戦いで傷ついた街は修復を終え、
人々の営みも、少しずつ元の形を取り戻しつつある。
まだ完全ではないが、それでも確かに――日常は戻りつつあった。
ストーリア大聖堂では、戦後の祈祷や報告が続いている。
その一角で、イスズ・エルガはいつも通り執務にあたっていた。
彼女の意識が宿るのは、人の姿をしたこの身体。
本来の竜の身体は、王都防衛戦の折に動かされ、城の裏手にある飛行艇格納庫と繋がる湖の底に、そのまま沈んでいる。
かつて眠っていた地底湖は、王都を守る為に動いた際に崩れた。
レガリアが斃された今、呪いの傷はすでに癒えている。
戻れない理由は、もうどこにもなかった。
ただ、今はこの身体の方が小回りが利いて都合がいい。
それだけの理由だった。
湖底の身体には、最低限の結界だけが張られている。
隠しているわけでも、封じているわけでもない。
「ま、ここでいいでしょ」
そう判断した本人が、そうしただけだ。
湖の上空では、飛行艇団の艇が日常的に発着を繰り返している。
その真下に、太古の竜の身体が眠っていることを、知る者はごくわずかだった。
傍らには、護衛役を名乗るネイキッド・シーマの姿もある。
彼もまた、戦後処理と称して、しばらく王都に滞在していた。
「ま、当分はこっちだな」
イスズは肩をすくめ、何でもないことのように言った。
その視線は自然と城の方角へ――
そして、その裏手に広がる湖の方へと向いていた。
やがて、二人はノアのもとを訪れる。
「元気そうじゃねぇか、ノア」
いつもと変わらぬ軽い口調に、ノアは小さく微笑んだ。
レガリアの件は、表向きには終結とされた。
ノアの正体についても、王国側の判断で公にされることはなかった。
だが――完全に隠し通せる話ではない。
王都や各国には、すでに噂が流れ始めている。
竜の姿で帰還した聖騎士。
王子と並び立ち、邪竜の復讐を止めた存在。
名は伏せられ、真実も語られない。
それでも人々は、感じ取っている。
――この国に、何かが戻ってきたのだと。
イスズは少し離れた場所からその様子を眺め、小さく息を吐いた。
「……君、思ってる以上に目立つ立場になったんだよ」
――それを、あなたに言われるのは少し違う気がする。
ノアはそう思ったが、口には出さなかった。
「力にも、人にも――それに、“象徴として”ね」
冗談めいた声音。
だが、その奥には、これから向けられる視線の重さをすでに見通している気配があった。
ネイキッドが肩をすくめる。
「要するにさ。いろんな意味でモテちまったってわけだ」
ノアは一瞬きょとんとし、すぐに困ったようにはにかんだ。
「そ、そんなこと……」
「自覚ねぇのが、いちばん厄介だっての」
ネイキッドは笑ったが、イスズはそれ以上、何も言わなかった。
湖底で眠る身体も、空を行き交う飛行艇も、そして、無自覚なまま立たされる少女も。
すべてを見渡した上で、彼女はただ、人の姿のまま、そこに立っている。
――今は、それで十分だと判断して。
* * *
夕暮れの中庭。
ノアとレクサスは肩を並べ、沈みゆく陽を見つめていた。
ふたりの手は、すぐ傍にあった。
「どんな未来が待っているか、僕にもわからない」
レクサスは言う。
「でも、君と一緒なら、歩いていける」
「……私も」
柔らかな風が二人を包む。
だが、世界は知っていた。
竜を“力”として扱おうとする思想が、
この地に、確かに根を張っていたことを。
そしてそれは、滅びと共に消えるほど、
脆いものではなかった。
神竜と王子。
互いを想い合う、ふたりの物語。
新たな未来は、今――静かに動き始めていた。




