三十五話:その傍に在りて
静寂が、戦場を包んでいた。
黒翼の剣士ハリアー。血に濡れた刃を支えに、膝を震わせながらも立ち続けている。だが、その体を支えていた見えない糸が、今まさに断たれようとしていた。
レガリアから流れ続けていた魔力の奔流。それが細くなり、途切れ、やがて完全に絶たれる。
生命を繋ぎ止めていた最後の力が失われた瞬間、ハリアーの膝が折れた。
ゆっくりと、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。
かすむ視界の向こう、遥か空の彼方を見上げる。
そこにはもう、あの人の気配はない。温かな魔力も、厳しくも優しい声も、全てが静寂に呑み込まれてしまった。
灰となって消えたハリアーの痕跡は、戦場のどこにも残されなかった。
それはあまりにも空虚で、あまりにも確かな終わり。
イグニスは長く動かず、その消失を見届けていた。
敵として相まみえた相手に、敬意を抱かずにはいられなかった。
同時に、何ひとつ残せず塵と消えるしかなかったその運命に、深い哀しみを覚えていた。
翼人──人に狩られ、血を求められ続けた種族。
その血に宿る治癒の力ゆえに、安らぐ場所を奪われ続けた者たち。この男もまた、傷つき、孤独に震え、やがて憎しみの中に居場所を見出したのだろう。
その末路を前に、イグニスはただ願った。
塵となって消えた彼の魂が、せめてあの少女の祈りに抱かれていることを──。
* * *
レガリアの亡骸は、アストラ大陸の離宮跡に葬られることとなった。
戦いの終わりと共に、主を支えていた魔力はすべて霧散し、城の幻影も崩れ落ちていた。
そこに残されていたのは、苔むした石と崩れた柱、そして……あの日彼女が愛した王と、静かに過ごしていた中庭の名残だった。
彼女はレガリアのそばに最も長く仕えた存在であり、その最期を看取った者でもある。
誰よりも知っていたのだろう。この場所が、主にとって何であったのかを。
ベルタは歩み寄り、祈るように膝をつく。
「……ここが、きっと……レガリア様の……」
その場に立ち尽くしていたベルタが、ぽつりとそう呟いた。
そして、ノアの方を振り返って、微笑むと、軽やかな音共にベルタの姿は掻き消え、足元に小さなオルゴールだけが残された。
ノアが呆然としたまま手を伸ばしかけたとき──
「……まだ、“自分”だけで生きるには早かったんだろうな」
背後から届いた声に、ノアはゆっくりと振り返る。
そこには、いつの間にか戻ってきたイスズ神官長がいた。
「そしてただいま、っと」
彼女はしゃがみ込み、そっとオルゴールを拾い上げる。
その手は優しく、まるで壊れ物に触れるようだった。
オルゴールを掌に包み込みながら、イスズはぽつりと続けた。
「主に寄り添って生きてた精霊が、いきなりひとりきりになるなんて、そりゃまあ、戸惑うよ」
その声は、いつになく穏やかで、どこか寂しげでもあった。
「でもさ、消えたわけじゃない。ちゃんと、ここにいる」
イスズは光を帯びたオルゴールをじっと見つめ、確信を持ってそう言った。
「今はちょっと、眠ってるだけさ」
口元に浮かんだのは、ふざけているようで、どこまでも優しい笑みだった。
「だから、ノア」
彼女はそっとそれを差し出す。
「持っててやんな。……目が覚めたとき、あんたがそばにいた方が、あの子も嬉しいだろ」
ノアは両手でそれを受け取り、胸に抱きしめる。
かすかに感じるぬくもりは、まだ消えていない命の気配だった。
まるで、またいつか音色を響かせる日を信じているかのように――。
* * *
ラクティスが大きく腕を振り上げ、飛行艇団の面々へ指示を飛ばす。
「よし、一部隊はこのまま残って被害状況の調査と復興支援に当たれ! 避難民が出てるはずだ、物資の配給と輸送も頼む!」
部下たちが即座に敬礼し、散っていく。
そして彼は、レクサスたちに向き直った。
「とりあえず、ノアちゃん達は王都帰還組な。王も民も待ってるだろうからな」
ノアは深く息を吐き、小さく頷いた。
――戻らなければならない。報せを届け、祈りを捧げ、次の未来に備えるために。
離陸の準備が整い、主力艦の甲板にはイスト、イスズ、ネイキッド、そして翼を休めるモコの姿があった。
白い毛並みは傷だらけで、静かな寝息を立てている。
戦いのあと、必死に「唄」で仲間の傷を癒やしてまわったという。
限界まで力を振り絞り、すっかり疲れて、ようやく眠ったのだ。
ラクティスの部下たちが、そんなモコの体を丁寧に拭き、薬草を塗ってやっていた。
その手つきは、まるで家族のように優しかった。
飛行艇が空へと浮かび上がる。風が甲板を撫で、瓦礫と煙に満ちた大地を遠ざけていく。 誰もが黙ったまま、その景色を見下ろしていた。
やがて、王都の輪郭が視界に入り始めた。遠くにそびえる尖塔。陽はすでに高く、城壁は白く輝いている。
その光景を見下ろしながら、ノアはそっと目を閉じた。
「……私は、自分の翼で帰りたい」
誰に言うでもなく、けれど迷いなく告げたその言葉に、隣にいたレクサスが静かに頷いた。
次の瞬間、白銀の光がノアを包み、その姿は神竜へと変わる。
しなやかな翼が風を裂き、紺碧の瞳が高空の陽光を映して瞬いた。
「一緒に」
ノアが首を傾け、レクサスを促す。
彼は迷わず軽やかに背に跨がり、その首元にそっと手を添えた。
「ああ。行こう、ノア」
空を翔ける神竜。その背に、迷いなく立つ王子。
飛行艇の甲板では、ネイキッド・シーマがじっとその光景を見つめていた。
――最初は、ただのノリだったんだよな。
軽い気持ちでちょっかいをかけて、照れる姿を見て楽しんで。
でも、いつの間にか、それじゃ誤魔化せないものになっていた。
レクサスの背中は、ひどく眩しかった。
ノアが神竜であろうと、人であろうと――迷いも臆病もなく、ただ、真っ直ぐに彼女を“ノア”として受け入れてきた。
「……そりゃ勝てねぇわけだ」
口の端を吊り上げて呟いた声は、どこか満足そうだった。
心の奥にあった未練も、綺麗に吹き飛んでいく。
隣にいたラクティスが、ちらりと彼を見てニヤリと笑った。
「おいおい、戦場帰りに恋の敗北宣言か?」
「……馬鹿言うな。最初から勝負になってなかったんだよ」
ネイキッドは肩をすくめて笑い、もう一度、空を見上げた。
甲板の後方では、イスズが錫杖を肩に担ぎ、口笛を吹く。
「いやぁ、絵になるねぇ。まるで英雄譚の一幕ってやつだ」
イストはその言葉に反応することなく、静かに目を閉じる。
「……誇るべきは、彼らが選んだ道と、その強さです」
飛行艇の影と神竜の翼が並ぶ。
戦いを終えた者たちの胸に、その姿は確かな希望として――深く、刻まれていく。
やがて王都の城壁が近づき、白銀の竜はゆっくり高度を下げていった。
飛行艇は格納庫へと誘導され、ノアはレクサスを背に乗せたまま、城の中庭へと舞い降りる。
翼を畳み、長い尾をゆるやかに揺らしながら、城の中心に立つ。
その姿はまるで神話の一節のように荘厳で、見上げる者すべての心に深い静けさをもたらしていた。
だが――その竜の瞳に浮かぶ光は、どこまでも優しく、懐かしげだった。
最初に歩み出たのは、ユーノスとローザ。
王国騎士団長である父は真正面から竜を見上げる。
母ローザもまた、ためらいなくその隣に並び、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ノア」
父が短く呼ぶ。
「……おかえり」
その一言に、竜の瞳がそっと細められた。
ノアは、白銀の首をゆっくりと垂れ、確かな声音で返す。
「……ただいま、父さま。母さま」