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三十四話:竜は祈りを捧ぐ

 レガリアが翼を広げ、夜明け前の空に紅の雷を散らす。

 そのとき――イオス大陸を侵攻する異形たちの感覚が、突如として断たれた。


「どうして……どうしていつも、あの女は邪魔をする……!」


 声が震え、唇が憎悪に歪む。千年の怨念が言葉となって溢れ出す。

 異形たちの眼を通して感じ取れたのだ。セレナが張った結界が、自ら放った異形共を拒絶していることを。


 ノアに絶望を刻み、唄を引き出すはずだった。

 だが王都は揺るがない。騎士たちは刃を握り、セレナが天にいる。

 ――これではノアの心は崩れない。


「ならば、見せてやろう。お前がこの世界にとってどれほど異物か――ノア・ライトエース。いや……神竜……!」


 その名を呼ばれた瞬間、ノアの意識が揺らいだ。思考に割り込む異質な魔力。レガリアが放ったのは、呪詛の唄。


 まるで世界の痛みをそのまま叩きつけるような波動だった。ノアの視界が歪み、胸を締め付ける痛みに膝が沈みかける。


 流れ込んでくるのは、滅びの光景だけではなかった。


 互いに憎み合い、争い合う人々。権力のために友を売り渡す姿。

 飢えに駆られて奪い合い、弱き者を踏みにじる影。


 そして――人に虐げられた異種族の記憶。


 罪のない少年が「バケモノ」と罵られ、石を投げつけられる。

 庇った母が銃弾に倒れ、血に沈んでいく。


 それらが重なり合い、ノアを絶望へと引きずり込もうと押し寄せる。だが――


「……違う。唄は……絶望をまき散らすためのものじゃない。悲しみに沈む声があることも……私は知っている」


 ノアの瞳に、確かな光が宿った。


「けれど、だからこそ――これは未来へと繋がる命、生きとし生けるすべてへの祈り。誰かに命じられて紡ぐものでもない……!」


 その瞬間、ノアの体から魔力が爆ぜた。呪詛が弾かれ、レガリアが後退する。

 音を失ったような静寂の中で、ノアが羽ばたいた。白銀の竜が空に浮かぶ。その翼は、もう揺れていなかった。


 レガリアが叫ぶ。


「お前の光は……やはり偽善だ! そのような綺麗事など叩き潰してくれる!」


 鋭く交差する爪と爪。衝撃が空を裂き、稲光のように火花が散る。

 ノアの尾が弧を描き、レガリアの腹部をかすめる。だが次の瞬間、漆黒の翼が反撃の風圧を叩きつけ、白銀の巨体を押し返した。


 互いの巨躯が衝突を繰り返す。牙と牙が噛み合い、翼が空を裂く。

 その均衡をわずかに崩したのは、ノアのひときわ強い一閃だった。


 反転しざま、白銀の牙が漆黒の翼に食い込む。レガリアが咆哮を上げ、荒れ狂う風が戦場を揺らす中、地上では人の戦いが続いていた。


 ネイキッド・シーマが異形の喉もとに剣を突き立てる。血飛沫を浴びながらも、口元に笑みを浮かべて叫ぶ。


「ノアぁッ! 迷わず前を見てろ! 背中は俺たちが護る!」


 その隣では、イスト・スタウトが一糸乱れぬ剣技で敵を斬り伏せていた。氷の刃が閃き、迫りくる異形の腕を断ち落とす。淡々とした声が戦場に響く。


「列を崩すな! 後衛を守れ!」


 鋼の規律がそこにあった。冷静沈着な指揮は、混乱しかけた兵たちの心を立て直し、槍の列が再び前へと押し返す。


 さらに遠方――火竜と翼人が激しくぶつかり合うのが見える。その衝撃波が地平線を揺らし、戦場全体を覆う咆哮が轟いた。


 そして空では、飛竜モコの唄が響き渡る。震える空気を押し広げるように障壁が展開され、飛行艇団の巨艦が宙を滑る。

 主砲が轟き、レガリアに従う異形の群れを次々と吹き飛ばしていく。


 モコの背に立つレクサス・アルファードが剣を掲げる。その毛並みは傷だらけで、それでも必死に主を背に乗せて飛び続けていた。


「ノア、君が選ぶ未来で……共に歩む為に!」


 そのすぐ隣で、主力艦の甲板からラクティス・ジーニアの豪快な声が飛んだ。


「全砲門開け! 異形共を撃ち落とせぇッ!」


 砲火が空を裂き、炎と煙が渦を巻く。空・地上・遠方――すべての戦いがひとつに重なり、ノアの祈りを支える力となっていた。


 そしてもう一人、影から閃いた鋼がレガリアの尾を斬り裂く。


「おのれ……また邪魔をするのか……!」


 セルシオ・セヴィル。黒衣の傭兵が剣を肩に担ぎ、静かにレガリアを見据えていた。その隻眼に宿るのは、ただ妹への祈りだけ。


「……レガリアを止められるのは、お前だけだ」


 ノアの胸が震えた。血の繋がりを知らずとも――その声は、魂に届いていた。

 それぞれの言葉が光となってノアに届く。唄ではない。剣でもない。ただ――「生きてほしい」という想い。


 閃光が空を裂き、ノアの一撃がレガリアの胸元へと迫る。

 次の瞬間――その光を遮るように、白い影が飛び出した。


「やめてっ……もうやめてよ!!」


 小さな白い狼の姿で、彼は叫んでいた。ライカンスロープの少年――ルフレ・スターレット。本来ならばストーリア王国に保護されていたはずの彼が、影に潜む特異な能力を使って誰にも気づかれぬまま戦場まで来ていたのだ。


 ルフレの身がノアの光に晒される。

 だがその瞬間、レガリアの巨体が――動いた。

 傷だらけの翼が、咄嗟にルフレを包み込む。


 次の瞬間、ノアの一閃が翼を貫き、そのまま胸の中心へ突き刺さった。

 轟音と共に光が炸裂し、竜の心臓が砕け散る。レガリアの口から鮮血が溢れ、空が震えた。


「が……はっ……!」


 その身を震わせながらも、彼女はルフレを抱きかかえたまま離さない。だが翼は力を失い、巨体は空に留まれなくなっていた。


 軋む音を立てて翼が折れ、次の瞬間――黒き竜は少年を胸に抱いたまま、緩やかに墜ちていった。


「……どうして……どうして庇ったの……」


 震える声で、ルフレが問う。その小さな手が竜の体温を、消えゆく命の残滓を感じ取っていた。

 レガリアの表情に、僅かな戸惑いが浮かんだ。


「……なぜだろうな……」


 自分でも理解できないとでも言うように。


「だが……お前は、失いたくなかった……」


 レガリアの巨体は、ゆっくりと地に伏していた。胸の傷からは血が流れ続け、呼吸も次第に浅くなっている。それでも、その瞳だけは静かにノアを見上げていた。


「……結局、お前には……敵わなかったな……」


 終わりを前にして、怒りも憎しみも、もはやそこにはなかった。

 人の姿に戻ったノアは、涙に濡れた目でただ見つめ返していた。竜として、人として、ひとりの少女として。


「……私は、この世界に、生きたい。それを選んでくれる人たちと、共にいたい」


 レガリアの唇がわずかに綻ぶ。それは笑みだったのかもしれないし、嘲りだったのかもしれない。けれど、その声音に滲んだのは――明確な「悲しみ」だった。


「でも……その願いが、いつか裏切られたら? 愛した者を、奪われる日が来たら……」

 問いは、重く鋭かった。


「……それでも、私は信じていたい」


 言葉に迷いはなかった。


「"裏切られるかもしれない"から信じない、じゃなくて……"信じたい"と思ったから、私は信じる。それだけでも、きっと……意味はあると思うから」


 レガリアの目が、わずかに見開かれる。まるで、かつての彼女が、そうありたかったと願った何かに、ようやく触れられたかのように。


「……そうか」


 レガリアの視界が霞む。瞼の裏に蘇るのは、緑あふれる王国の庭園。白銀の鎧を纏った王の笑顔。


『レガリア。お前がこの国を守ってくれていることを、私は誇りに思う』


 それは、確かにあった記憶。温かく、優しく――それでも、もう戻れないもの。


「……私、は……」


 もう魔力は尽き果て、身体は限界を迎えていた。


「レガリア様ー!」


 そのとき、遠く荒野の向こうから、侍女服の少女が必死に駆けてくる。

 レガリアの命により居城で待機していたはずのベルタが、主の異変を感じ取って飛び出してきたのだ。


「いやです……! どうかベルタを置いていかないでくださいませ……!」


 瞳を濡らし、崩れゆく竜の翼にすがりつく。


「私は、愚かだった……失ったものばかり、数えて……」


 遅すぎる気づきが胸に灯る。

 身体を支える力は残されていなくとも、心は確かに揺らいでいた。

 静かに、漆黒の身体が崩れ落ちていく。


「やだよ……っ! 行かないで……! 一人にしないでよ!」


 傍らで泣きじゃくる二人を、レガリアの紅の瞳が見つめていた。怒りも憎しみも、もうそこにはなかった。


 竜の身体から光の粒が舞い散ったあと、そこには――ひとりの女性の亡骸が横たわっていた。


 ――竜が人の姿を持つということ。それは人を愛したことがあるという証。


 その顔は、怒りも憎しみも剥がれ落ち、安らぎに満ちた穏やかな微笑みだった。

 ノアはその前に立ち、静かに目を閉じる。


「あなたは、ずっと悲しみの中にいた。でも……本当は人を憎みたくなかった……おやすみなさい、レガリア。今度こそ、悲しみから解き放たれてください」


 そっと横に歩み寄ったレクサスが、何も言わずにノアの手を握る。

 その温かさが、重い哀しみを一人で背負わなくてもいいのだと、静かに伝えていた。


 ノアは小さくうなずき、共に剣へと手を伸ばす。

 鞘を走る音が朝靄を震わせ、アベニールの刃が二人の間に光を宿す。

 これは勝利の誇示ではない。ただ亡き竜へと捧ぐ、鎮魂の祈り。


 剣先が東の空を指し、射し込む朝日が刃を黄金に染め上げた。

 二人の祈りは重なり合い、静かに空へと昇っていく。


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