三十三話:もう二度と
神官長イスズ・エルガは空を仰ぎ、白銀と漆黒の竜がぶつかり合う光の奔流を見つめた。その眩しさに目を細めながら、満足そうに口元を綻ばせる。
「……ほんと、頼もしくなったもんだ」
次の瞬間──イスズは錫杖を軽やかに掲げた。
錫杖を鳴らす澄んだ音が、大地の空気を震わせる。
瞬きする間もなく、天より降り注いだ光柱が、ネイキッド・シーマと剣を交えていた異形の群れをまとめて呑み込み、影も形も残さず消し去った。
「うおっ!? おい姐さん、今の……ッ」
剣を構えたまま振り返るネイキッドに、イスズはにこりと笑って片手を挙げる。
「ネイキッド、ちょっと来な」
戦闘態勢のまま近づいたネイキッドが、怪訝そうに眉を寄せた。
「……なんだよ、戦闘中に。今、ノアが上で……」
「知ってるよ。だから──」
イスズはくいっと額を指先で叩いて見せる。
「ここは任せたよ。──ノアが迷わず進めるように、アタシはもう一つの戦場を護りに行く」
「……は?」
「しばらく無防備になるんで、潰れないようにだけ気をつけて。ああ、それと──」
ぐらりと身体がわずかに揺れた瞬間、イスズはネイキッドの肩に手を置き、耳元でさらりと囁いた。
「身体のことは……適当に安全なとこにほっぽっといて。頼んだよ」
その瞬間、イスズの瞳から光がふっと消え、全身から力が抜けていく。
ネイキッドが慌てて抱き止めた身体は、深い眠りに落ちたように静かになった。
しかし実際には、その魂と力はすでに遠く離れた大陸──ストーリア王国の地下に眠る湖の底へと還っていたのだ。
本来の身体、黄金の竜・セレナへと。
* * *
同じ頃、イオス大陸・ストーリア王国。
城門をなでる風が、妙に重たかった。
それは、遠き荒野で響いた竜たちの咆哮の余韻が、大気を伝って届いているかのようだった。
城門前には王国騎士団と、援軍として加わったエテルナ神殿騎士団が整列していた。
その最前列に立ち、王国騎士団長ユーノス・ライトエースが剣を抜き放った。
「──全軍、前へ進軍。王都には、一歩たりとも通すな」
その号令と同時に、門前に押し寄せる異形の群れ。
獣の咆哮とも人の悲鳴ともつかぬ声を重ね、爪と牙を剥き出しにして襲いかかる。
「構え──ッ!」
神殿騎士団の詠唱が戦場に響き渡る。氷の枷と雷の鎖が敵の動きを封じた瞬間、王国騎士団の槍が一斉に突き立った。
ユーノスは自ら剣を振るい、先陣に立つ。
片眉も歪めることなく、無言で刃を振り下ろし、異形を真二つに裂く。
父としてではなく、騎士団長として──国を護る剣そのものだった。
だが、敵の数は果てしなかった。
異形は倒れてもなお、黒い血の中から再び這い出す。
押し寄せる波は止むことなく、城門を叩き続けた。
その時だった。
遠い山中に口を開ける洞窟の奥、静かな地底湖に眠っていた黄金の竜が、ゆっくりと目を開いた。
胸に穿たれた古き呪いの傷が、まだ疼いている。
だが、レガリアが戦闘で傷つく今、長らく絡みついていた呪縛がひととき揺らいだ。
「……こっちの身体を使うのは、いつぶりだったかねぇ」
低く響く声には、どこか人の姿でのイスズを思わせる軽さが混じっていた。
静寂に包まれていた洞窟の奥に、軋むような音が走った。
湖の岸辺に続いていた岩壁がひび割れ、数百年ものあいだ竜を包んでいた鍾乳石が砕け落ちていく。
天井が悲鳴を上げ、光の粒を巻き込みながら岩盤が崩れ落ちた。
だがセレナはその中を、まるで何事もないかのように、静かに羽ばたいた。
湖水を押し割る黄金の翼。その羽ばたきが、夜の帳を裂いて光の粒を散らす。
崩れゆく洞窟を背に、黄金の巨影が、空へと昇っていく。
王都の上空にその姿が現れた瞬間、兵たちは一斉に息を呑んだ。
「竜……黄金の竜だ……!」
「秩序を護る番人……本当に……」
囁きはざわめきとなり、古の神話が断片的に呼び覚まされていく。
秩序と理を司り、世界の調和を守る存在。
今まさに、その影が王都の空を覆っていた。
セレナの翼が広がり、王都全域を包む光の膜が張り巡らされた。
黄金の結界は黒き瘴気を弾き返し、城門を叩く異形の衝撃を和らげる。
荒れ狂う波の前に築かれた、揺るがぬ防壁。
地上で剣を振るっていたユーノスも、一瞬だけ顔を上げる。
その眼差しに映ったのは、攻め入る者を拒むかのように王都を包む巨大な黄金の影。
「……秩序の番人、セレナか」
低く呟き、再び剣を振るう。
セレナは結界で王都を覆いながらも、ふっと苦笑するような声を漏らした。
「さ、ここからはアンタらの番だよ。アタシはせいぜい、ちょっとした後押しってとこかな」
異形たちは光を嫌うように身をよじらせ、前進をためらっていた。
だが、それも束の間だった。
結界の外縁部で、突如として異質な気配が蠢いた。
黒い瘴気の中から、ひときわ大きな異形が現れる。
幾重にも重なる甲殻に包まれ、黒い雷のような魔力を滲ませたその存在は、無言のまま結界に向かって前脚を振り下ろした。
空気が悲鳴を上げるような金属音が鳴り響き、結界に淡いひびが走る。
空を覆っていたセレナの眼差しが、わずかに鋭くなった。
異形の巨影は、光の膜をまるで喰らうかのように侵食しながら、じわじわと前進を始めていた。
それに呼応するように、周囲の異形たちも再び動き出す。
這い寄る群れの奥底に、黒く滾る感情が脈打っている。
それは怒り。何より深い――憎しみ。
セレナは低く呟いた。
「これはもう、"怨嗟"を形にしただけの、呪いの群れだ……やっぱり、アンタの感情なんだね」
眼下に蠢く異形たちを見下ろしながら、彼女は確信を深めていく。
黒き波が、王都を呑み込まんと押し寄せる。
「隊列を維持! 魔導障壁、限界まで展開!」
ユーノスが厳然たる声で指示を飛ばす。
その剣はすでに血に濡れ、鎧も傷ついていたが、眼差しは一切揺らがなかった。
兵たちは疲弊を隠せぬまま、それでも持ち場を離れず、再び槍を構える。
結界を維持し続けるセレナの巨体にも、徐々に揺らぎが見え始めていた。
その翼から漏れる光が、少しずつ淡くなっていく。
「……悪いね。まだ、本調子じゃなくってね」
苦笑混じりに呟く声には、まだ諦めの色はなかった。
「千年前はアタシが甘かった。アンタの愛した心をまだ信じたくて、殺せずに封じるだけで終わらせちまった。……でも今度は違う」
声に宿ったのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ――決して退かぬ覚悟だった。
黄金の翼が大きく広がり、夜の空気を震わせた。
千年を経てなお残る傷を抱えながらも、竜は確かな決意をその身に宿していた。
「……もう二度と、繰り返させない」
低く響いた声と同時に、セレナの瞳が光を帯びる。
結界の縁を侵食していた黒雷の巨影へ、黄金の閃光が一直線に奔った。
まるで大地そのものを貫くかのような光柱が、巨影の甲殻を抉り、夜空に轟音を響かせる。
兵たちが一斉に息を呑んだ。
「秩序の番人」として、この世界の理を乱すものを討つ、揺るぎなき意思の宣言だった。
巨影は黒雷を撒き散らしながら咆哮を上げ、なおも結界を食らおうともがく。
だが黄金の膜は、セレナの羽ばたきに応じてさらに厚みを増していく。
その下でユーノスが剣を構え直し、低く呟いた。
「……ならば我らも、地に立つ剣として、応えねばなるまい」
号令が再び飛ぶ。
王国騎士団、神殿騎士団、そして兵たちの心に、黄金の竜の覚悟が伝わっていた。