三十二話:守るべきもの、救うべきもの
灰色の天を震わせる咆哮が、荒野に轟いた。
黒き翼が大気を断つたび、空気はざらつき、肺の奥に重苦しい鉛が沈む。
雷雲の奥から、レガリアの紅い瞳がノアを射抜く。
応じるように白銀の翼が広がり、一振りごとに星屑めいた閃きを散らして、迫る闇をかき消していった。
唄と唄が衝突するたび、風は爆ぜ、稲光が大地を焦がす。衝波は戦場全体を揺らし、崩れた岩片が雨のように降り注ぐ中、異形たちは断末魔をあげてのたうった。
地上では、騎士たちの盾が連鎖し、刃の煌めきが波のように押し返す。頭上からは飛行艇団の砲火が閃き、炎の雨となって翼ある異形を次々と撃ち落とした。
黒き瘴気の中心で、レガリアが雄叫びを放つ。
「まだ抗うか、小娘……! お前も結局、人間に縛られた脆き存在に過ぎぬ!」
「違う……!」
ノアの声は鋭く響き渡った。
「私は、人に守られてここに立っています。だからこそ──共に生きる世界を選びます」
レガリアが突進し、巨体と巨体がぶつかり合う。
閃光が夜空に咲き、震動が大地を揺らした。
その黒き唄の影に、別の気配が降り立つ。
荒れ狂う風を縫うように現れたのは、刃のごとき黒翼を背にした男──ハリアー・ブレイド。
鋭い片手剣を握り、しなやかな軌道で舞う。闇に溶けるような翼は、光を拒む黒刃そのものだった。
「……邪魔をするな」
低く冷ややかな声と同時に、幾筋もの鋼糸が空間を走る。
風を裂き、光を鈍らせる糸の網。ノアは翼をひねって回避するが、ハリアーは剣と糸を交錯させ、死角を埋めるように迫った。
レガリアの唄が重なり、二重の包囲がじりじりと迫る。
その時──。
「おいおい、空戦を独り占めとは贅沢だな!」
冗談めいた声とともに、風を裂いてイグニスの炎の翼が割り込んだ。燃える尾が鋼糸を焼き切り、溶けた金属片が火花となって散る。
「ったく……放っておくと危なっかしいんだからよ」
ネイキッドが飛行艇から飛び降り、軽業師のような身のこなしでノアとハリアーの間に割って入った。彼の片手剣が鋼糸を弾き、金属音が空に響く——空に一瞬の隙を作る。
「ノア! 今だ!」
イグニスの声に応じ、ノアは翼を大きく広げ、黒き檻を打ち破るように一気に加速した。
白銀の閃きが黒雲を吹き散らし、押し返されるたびにレガリアの瞳は怒りを増す。だがその奥には、遠い幻影を見つめるような影がかすかに揺れていた。
「……ふん」
嘲りを含んだ吐息と共に、紅い瞳が光る。
「ところで──ルフレ・スターレット。あの子を、お前はどうするつもりだ」
雷鳴のような声に、戦場の空気が凍りつく。
「……あの子は私と共に歩き、同じ景色を見て、同じ唄を重ね……私の世界の一部になるはずだった。それを──お前が、奪った!」
紅い瞳がぎらりと光を放つ。
「それを──お前が、奪った!」
黒き唄が爆ぜ、荒野全体を呑み込む。岩は砕け、大地は裂け、天すら黒に染まった。
ノアは翼を閉ざさず、まっすぐに紅を射抜いた。
「……ルフレは、あなたの側でだけ生きる存在じゃない。彼が選んだのは、自分の足で歩く道──彼が、自分で決めた」
澄んだ旋律が応じ、黒嵐を割って空を二分する。
竜影が距離を詰め、今度は魔力ではなく肉体の衝突が空を揺らした。
爪が甲を裂き、牙が軋み、筋肉が唸る。
ノアは体をひねり、爪を振るってレガリアの肩に浅い傷を刻む。血が赤く滲み、黒竜が低く唸った。
空はもはや唄の舞台ではない。
牙と爪が支配する、獣の闘技場へと変わっていた。
尾の一撃がノアを弾き飛ばす。視界が反転し、地上の砲火が逆さに流れる。
それでも白銀と黒は再び激突し、雷鳴のごとき震動が戦場を貫いた。
至近距離で、紅と紺碧の瞳が交錯する。
怒り、悔恨、そして消せぬ執着──。
ノアの尾がしなり、レガリアの顎を弾いた。
その隙を、地上は見逃さない。
「今だ、押し返せ!」
レクサスの声と共に、騎士団と飛行艇団が一斉に反撃する。砲火が閃き、黒き翼を撃ち抜いた。
ノアは突き進み、爪をレガリアの胸に突き立てる。
咆哮が空を震わせ、羽毛が舞った。
そして──。
黒竜の胸奥から、かすかな光が零れる。
炎にも似た粒子が風に溶け、人影を結ぶ。
老兵の手、泣く子の頬、若き女の微笑み──声なき魂は次々と解き放たれ、空へと還っていった。
ノアの胸がざわめき、涙が滲む。
魂たちは次々と零れ出し、黒雲の向こうへと舞い上がっていく。魔力の奔流が目に見えて弱まり、その影がほんのわずかに薄く見えた。
レガリアの呼吸が乱れ、焦りとも恐怖ともつかぬうなり声を上げる。
地上では戦況が大きく動く。「竜が怯んでる……撃てぇ!」という号令と共に、主砲が閃光を放ち、黒の翼を貫き、さらに多くの光がこぼれ出す。
夜空に舞う魂たちは、まるで何かを伝えるように一瞬だけノアの周囲を巡り、やがて星のように散っていった。
その光のひとつひとつが、彼女の胸に重く沈み……それでも前を向かせる祈りのように感じられた。
……だが次の瞬間。
翼を震わせ、彼女は低く笑った。その笑みは嘲りとも自嘲ともつかぬ響きを帯びていた。
「……ふふ……勝った気になるなよ……神竜」
紅い瞳がぎらりと光る。
「この戦いに、すべてを注いでいいと思うな……」
ノアの眉がわずかに寄る。
「……どういう意味」
「今ごろ、ストーリア王国はどうしているかしらね」
その声は、かすかに荒い呼吸を含みながらも、冷たく滑るように響いた。
「私は──各地に伏兵を送り込んであるのよ。異形たちは、もう門の外まで辿り着いているかもね」
ノアの瞳が揺れる。
視界の端で、地上の仲間たちがまだ異形を押し返しているのが見える。
だが頭の片隅に、遠い王都の光景が浮かんだ。
石畳、城門、そこを歩く人々……。
レガリアはその一瞬の迷いを逃さなかった。
「守れるの? お前の世界とやらを。その小さな翼で……すべてを」
ノアの胸の奥で、王都に暮らす人々の笑顔が一瞬にして心をさらった。
母の声、父の厳しい眼差し、故郷の温かな記憶。
「どうしたの? 守りたいものが多すぎて、手が足りないのかしら?」
レガリアの残酷な光を宿した紅が迫る。
「そうよ……絶望しなさい、神竜。そして使うのよ──世界を再構築する唄を」
胸の奥を抉られるような痛みに、ノアの呼吸が乱れる。翼が揺らぎ、空で体勢を崩しかけた、その時──。
「ノア!」
鋭く、しかし優しい声が荒野に響いた。
振り返ると、白い飛竜の背に跨がったレクサスが迫ってくる。モコの翼が力強く羽ばたき、暴風を裂いてノアの隣へと舞い上がった。
「君は一人じゃない!」
レクサスの声が胸に突き刺さる。
モコが「きゅう!」と鳴き、大きな翼を広げて風を受け止め、ノアの体勢を支えた。
胸の奥に、確かな温もりが広がり、荒れていた呼吸がわずかに整う。
たとえ遠く離れていようと、同じ空の下で共に戦っている──
「……そうだ。私には仲間がいる」
頭の中で父の声が蘇る。
──お前の意志を信じる。だが、一人で背負うな。
「だから私は、一人で絶望になんて呑まれない」
紺碧の瞳が再び紅を射抜く。
「これ以上……悲劇を繰り返させはしない。たとえ闇に囚われていても──私は、あなたを見捨てません!」
その言葉に、レガリアの紅い瞳が大きく見開かれた。
「……救う、だと?」
低く漏れた声は震え、すぐに轟音へと変わった。
「笑わせるな、小娘……! 私が何を失い、何を喰らってきたと思う! お前に、この私を救えるものか……! 偽善の唄など──焼き尽くしてくれる!」
黒き翼がはためき、闇の奔流が空を覆う。
怒りと痛み、そして消せない過去への慟哭に引き裂かれた咆哮が、戦場を震わせた。