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三十一話:唄が戦火を呼ぶとき

 空が、呻いていた。


 ざわめく灰の海を撫で、遠くの空へと吹き抜けていく。


 イオスを離れ、アストラへ向かう飛行艇団は、やがてその気配に触れた。

 吹きつける風が、まるで唄のように耳を撫でる。だが、それは美しさではなかった。


 操舵席の前、ラクティスが歯を食いしばる。


「こりゃ、ただの嵐じゃねぇな。進路をねじ曲げられてやがる……! これが……天竜の唄の仕業だってのか」


 視界を覆う濃い雲、無数に走る稲光。空は黒き唄の檻に包まれていた。

 荒れ狂う風の中で、ノアは翼を広げ、空を切る。

 先を行くイグニスと並び、飛行艇の進路を護るように飛んでいた。


 胸の奥に、あの日の言葉が蘇る。


『誰かと並んで歩きたいって、心の底から思ったとき――急に、できた』


 私は、どう在りたいのか。

 人として、竜として。どちらかじゃない、両方として――


 その答えは、今ここにある。

 ノアは深海色の瞳を細め、喉奥から旋律を紡ぎ出した。

 白銀の翼から舞い降りる光が、唄の波動とともに嵐を切り裂いていく。


 隣を飛ぶイグニスが、ちらりと視線を送る。

 その紅の瞳に、わずかな驚きと笑みが宿った。


「……はは。そっか。天竜の唄、お前も唱えたんだな」


 空に目を向け、ひとつ息を吐く。


 優しい音と共に嵐の気配が遠のく。

 飛行艇の甲板では、操舵を握るラクティスが唇の端を上げた。


 本来の目的地は、東部にある黒の離宮。

 だが、唄が呼び寄せた嵐で空路はねじ曲げられ、危険な乱気流が離宮上空を覆っていた。

 直接の着陸は不可能――そこで、周辺で唯一安全に降りられる高台、旧エリシオン遺跡群が選ばれたのだ。

 古の王都を見下ろす丘陵は、遮蔽物が多く、進軍の拠点にもなる。


 前方の空が開け、朽ちた石柱群が姿を現す。

 かつて、人と竜が共に夢を紡いだ王都の跡地――今は風と砂に埋もれた、時の眠りの中。


 唄を収めたノアは、竜のまま静かに息をついた。

 広げていた翼をゆるやかに畳み、着陸した飛行艇の傍らに歩み寄る。

 その巨体を地に沈めると、船腹のハッチが軋む音とともに開いた。


 最初に現れたのはレクサスだった。

 砂煙をかき分け、ノアの頬にそっと手を添える。


「……ありがとう。君のおかげで、無事に着陸できた」


 深海色の瞳が瞬き、低く柔らかな声が返る。


「……まだ、これからです。ここに……レガリアが……」


 その後ろから、飛行艇団員たちが装備を整えつつ地上に降りてくる。

 砂煙の中、その列にひときわ背の高い影が混じっていた。

 黒い外套を揺らし、隻眼の視線を真っすぐノアへ向ける長身の男。


 だがノアは気づかない。

 まだ大きな翼を畳みきらず、砂に混じる風の匂いを探っていた。


「……セルシオ」


 セルシオ・セヴィル。その名を呼んだのは、イスズ・エルガだった。

 ゆっくりと歩み寄り、彼を見上げる。


「アストラ脱出時にはいつの間にか居なくなってたから言えなかったが……よく、生きててくれたねぇ。てっきり、あのとき……」


 イスズがふっと笑うと、セルシオも目を細める。

 だが、その表情に緩みはない。


「……あの子に、名乗る気は?」

「ない」


 即答だった。

 その声音には、決意と、わずかな哀しみがにじんでいた。


「――あの子は、いま、“ノア”としてちゃんと笑えている。なら、それでいい。そこに俺は必要ない……兄だなどと、言える資格もない」


 イスズはどこか寂しそうに、しかし優しく呟いた。


「……変わらないね、アンタは」


 イスズが言いかけたその時、セルシオの隻眼がわずかに細められる。

 荒れ地の向こうから、低く響く唄が空気を震わせて迫ってくる。

 焦げた匂いを含んだ風が頬をかすめ、肌の奥まで冷たい圧が忍び込んだ。


 もう、過去を語っている場合ではない――。


 嵐を断ち切られたレガリアが、この静けさの裏で必ず動き出す。

 誰もがそれを悟り、武器の柄に指をかけ、周囲の影を注視していた。


 そして、その気配はすぐに訪れた。

 崩れた石柱の林立する丘の上。

 かつて人と竜が共に夢を紡ぎ、唄を響かせた王都の中枢――その残骸へ、黒き影が迷いなく降り立つ。


 足が触れた瞬間、苔むした石柱が悲鳴を上げ、粉々に砕け散った。

 風にさらされた白い石壁は、千年の風雪に削られ、灰色の砂に覆われている。

 かつての繁栄を物語る彫刻は、今や欠け、砕け、竜と人の姿は面影さえ曖昧だった。


 舞い上がる破片と砂塵の中、漆黒の毛並みと焦げた翼が、かつての青空の代わりに空を覆う。


 低く響く唄が、瓦礫の隙間を抜け、乾いた空気を軋ませる。

 その音は祝福ではなく呪い――千年前、愛と信頼が崩れ落ちた瞬間から続く、断罪の旋律。


 ノアは翼をわずかに広げ、深海色の瞳でその影を見据える。

 灰と光の境目で、過去と現在が重なり、空気そのものがひとつの記憶のように震えていた。


 言葉はなく、魂の旋律が交わる。


 黒い唄は重く、絡みつくようにノアを包む。

 怒りと絶望だけではない――甘い毒のような響きが、心の奥を探ってくる。


『……人と竜は、共に歩めない。それは、私が証明した。竜の姿を得たお前も、いずれ知るだろう。いつかその背を、人々の刃が襲う日が来る。その時、お前も私と同じ色に染まる』


 次の瞬間、周囲の空気が唄の力で軋む。

 砂塵が渦を巻き、飛行艇の船体がきしみを上げる。

 周囲の警戒のために甲板にいたネイキッドが、顔をしかめ、片手で額を押さえた。


「……っ、胸の奥がざらつく……こいつ、心ん中まで踏み込んできやがる……ノア、お前、こんなのまで真正面から受け止めんのかよ」


 その時、足元からやわらかな旋律が重なった。

 モコだ。白い体毛を逆立て、低く「くるる……」と唄いながら、護りの魔力を仲間たちに広げ黒い唄の棘をわずかに鈍らせていた。


 ノアの胸に押し寄せる孤立の情景――背を向ける人々、遠ざかる声。

 一瞬、心が揺らぐ。だが深海色の瞳を閉じ、彼女は優しい唄を返す。


 温かな波動が風のように広がり、渦巻く砂塵が静まり始める。

 張り詰めた空気が一瞬だけやわらぎ、仲間たちの呼吸が戻る。


『……私は、そうさせない。人と竜が並び立つ道を、私が証明する』


 二つの唄が正面からぶつかり、嵐のような衝撃が荒野を駆け抜けた。

 岩片が砕け、乾いた地面にひび割れが走る。

 空は低く唸り、雷雲が近づく。


 やがて唄が途切れ、重い沈黙が落ちた。


 レガリアが低く告げる。


「……お前がどう思おうと関係ない。神竜――お前の力は、私が使う」


 ノアの瞳が細められる。


「……たとえ魂ごと引きずり込まれても、私はあなたのためには唄いません」


 その瞬間、二つの唄が再び爆ぜ、荒野に嵐が走った――。

 レガリアの黒い翼が砂塵を巻き上げ、大地を抉りながら巨体が間合いを詰める。

 ノアも翼を打ち広げ、光の尾を引いて空へ舞い上がった。


 同時に、周囲の影が揺らめき、ひび割れた地面から異形が這い出す。

 レガリアの唄の魔力で呼び出されるように、歪んだ手足と濁った眼が次々と姿を現し、 その数は瞬く間に数十へと膨れ上がった。


 セルシオが無言で大剣を抜き、最も近い一体を叩き伏せる。

 飛行艇団と王国騎士たちも武器を構え、荒野の四方で応戦が始まる。


 雷鳴と咆哮が重なり、戦いの号砲となった。


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