三十話:その姿の意味
ストーリア城、中庭。
朝の光が芝を撫で、空には雲ひとつない澄んだ青が広がっていた。
傷がようやく癒えたノア・ライトエースは、ベンチに腰かけ空を眺めていた。
その隣にはレクサス・アルファード。少し背を預けるように寄り添い、肩を並べて座るその姿は、遠目にはまるで兄妹のようにも見える。
「あんな激戦があったことなんて、忘れちゃいそうなくらい……いい天気ですね」
「うん。こういう日が、ずっと続けばいいのにね」
ふたりの傍では、モコがのんびりと寝そべり、芝の匂いをくんくんと嗅いでいた。
そんな穏やかな空の下に――ひと筋の影が現れた。
赤銅の毛並みに陽光を反射させながら、ひときわ大きな竜が、風を切って降下してくる。
「……あれは……!」
ノアが立ち上がり、レクサスも思わず目を細めた。
モコがぴょんと跳ねて、鼻を鳴らす。
中庭に降り立ったその竜は、地に触れる寸前、ふわりと炎の揺らめきをまとった。
焼き焦がすような熱ではない。朝陽の中に溶けていくような、やわらかな転換。
そして、そこに立っていたのは――ひとりの青年だった。
赤銅の髪。落ち着いた金の瞳。炎の残滓を思わせる衣をまとい、しなやかに引き締まった体つき。
その腕には、小ぶりの木箱が抱えられている。
その姿に、ノアは思わず息を呑んだ。
「……イグニスさん……あなたが……人の姿に……?」
驚きと戸惑いが混じる声に、青年――イグニスは、少し気恥ずかしそうに笑った。
「ああ。驚かせたか。人の姿になれるやつもいるって話は聞いてたんだが――どうすりゃいいか、ずっとわかんなくてな」
イグニスは軽く肩をすくめ、陽光の下で目を細める。
「でも、分かったんだ。……誰かと並んで歩きたいって、心の底から思ったとき――急に、できた」
モコがくんくんと鼻を鳴らし、一歩、二歩と近づいていく。
少し首を傾けていたが、すぐに目を細めて「きゅっ」と鳴いた。
「ああ、人の姿になったから、びっくりしたか。……まあ、俺もまだ慣れてねえんだけどな」
イグニスは少し頭をかき、視線をそらすようにして言葉を続けた。
「……っと、そうそう。ほら、これ……村で獲れたリンゴだ」
そう言いながら、片手で木箱を掲げる。
「村のやつらが、“たくさん実ったから持ってけ”ってな。」
イグニスは空を仰ぎながら、ふっと笑う。
「あの火事のあと、もう駄目かと思ったけどな」
箱の中には、艶やかな赤をたたえた果実がいくつも並んでいた。
火を逃れた数本のリンゴの木が、季節を越えてたわわに実をつけたのだという。
あの日の焼け跡に、力強く息づいた“恵み”――その証だった。
そこへ、ゆるい足取りで現れたのは、神官長・イスズ・エルガだった。
「へえ、火竜くんも“二足歩行”デビューってわけかい?」
口元にはいつもの軽い笑み。だがその金の瞳は、真っ直ぐにイグニスの姿を見据えていた。
「姿を変えるのは、技術じゃない。……心のあり方、なんだよ。寄り添いたいって思えることが、一番の魔法さね」
「人の姿になったって、俺は俺だ。でも、これで――もっとそばにいられるだろ?」
その言葉に、ノアはふっと笑った。心が火を変え、姿さえ変えた。
竜の力は、恐れるものでも、拒むものでもない。きっと――向き合うものなのだ。
……なのに、私は。
木箱の中のリンゴを、そっと両手で受け取ったノアは、視線を落とす。
イグニスのように「変わった」わけでもない。
最初から“人の姿”だった。
その事実が、唐突に胸の奥をくすぐった。
「……あの、神官長」
イスズが「ん?」と軽く首を傾げる。
「私は……なぜ、生まれたときから“人の姿”だったのでしょうか。竜だったのに――それって、変じゃありませんか?」
イスズはその問いに、しばし目を閉じ、そしてそっと微笑んだ。
「……変じゃないよ。君がその姿で生まれたのはね、ちゃんと意味があるんだ。君の心が、誰かと手を取りたいって、そう願っていたんだよ」
「……え?」
「君の両親はね、“人の姿で生きる”ことを選んだ真竜だったんだよ。人と共に在ることを望み、人として笑って、言葉を交わして、愛して、生きた」
「……」
「竜の姿っていうのは、ただの外形じゃない。そのとき、その竜が“どう在りたいか”って心のかたち。君が“人の姿”で生まれたのは――君の心が、はじめから“誰かと共にあること”を望んでいたからさ」
その言葉を聞いて、ノアの目がわずかに揺れる。
“心が力を導く”――それは、まさに今、自分が向き合おうとしていることだった。
「心が、力を変える……」
ノアは、ぽつりと呟く。
胸の奥に、何かが灯るような感覚があった。
「つまり……“選んで”いたんですね。私自身が……」
「そう。人として生きることを。誰かのそばにいることを。――君は、生まれながらにそれを知っていた」
イグニスがふと、視線を空に投げる。
「……なるほどな。お前が神竜ってのも、納得だよ。俺たちは“変わった”けど、お前は“最初からその姿であろうとした”。……それって、すごく強いことだ」
ノアは、胸の奥に灯ったぬくもりを抱えながら、そっと息を吸い込んだ。
その瞬間――空気が、わずかに揺れた。
誰にも気づかれないほどの、小さな波紋。けれどそれは、確かに「唄」の気配を含んでいた。
まだ声にはならない。けれど、心が震えただけで、世界がほんの一瞬だけ優しく色づいた気がした。
「……少しだけ、分かった気がします。“なぜ、この姿で生まれたのか”――その意味を」
ノアの言葉に呼応するように、風が淡く揺れた。
ぬくもりのような光が彼女を包み込み、静かに姿を変えていく。
パールホワイトの毛並み。優雅な尾。透明な角が陽光を受けて煌めき、紺碧の瞳がまっすぐ前を見据えていた。
ノアはその姿のまま、静かに口を開いた。
「まだ、はっきりとは言えません。でも……ちゃんと、向き合います。“私の力”と、“私自身”と」
その言葉に、イスズはふっと目を細めた。
ノアの前脚に手を重ねるようにして、レクサスが微笑んだ。
「……君がどんな姿であっても、どんな選択をしても、僕は君の隣にいる。それだけは変わらないよ」
ノアはレクサスに頭を寄せ、微笑むように瞳を細めた。
――そのときだった。
空の一点から、蒼い光の軌跡を描いて、何かがイスズの手元へと一直線に飛来する。
イスズはまるでそれが最初から見えていたかのように手を伸ばし、ひらりと宙を舞ったそれを受け止めた。
「……魔導通信、ね。さてさて、何が起きたのやら」
軽口めかして言いながら 封を開くと、簡潔な文面が記されていた。
「“旧エリュシオン遺跡群”上空にて、“天竜の唄”によるものと思われる嵐の発生が観測された。これをもって、レガリアが再び行動を開始したと判断する”……だそうだ。もっとも、これは非公式の魔導通信だ。正式な報せは、いずれ王都から改めて届くだろう」
イスズの声は落ち着いていたが、空気が、静かに凍る。
――これはきっと、レガリアとの最後の戦い。
「……レガリア、だって?」
低く抑えた声で、イグニスが口を開いた。
ノアやレクサスが振り向くと、彼はゆっくりと視線を空に向けていた。
「……親父が、よく言ってたよ“できれば、止めたかった。けど、もう届かなかった”って」
静かに告げられたその声は、どこか遠い記憶をなぞるようだった。
「レガリアのことさ。人に裏切られて、心を壊されて……憎しみに呑まれた哀しき竜。本当は、誰よりも優しかったって。……竜たちは、みんな知ってたんだ」
ノアの胸に、微かな痛みと、やるせないものが広がる。
イグニスの言葉には、伝承ではなく、語り継がれた“想い”があった。
「でも、誰も止められなかった。怒りも悲しみも強すぎて……もう、あのときの彼女には届かなかった。それでも、親父は後悔してたよ。“せめて誰かが、あの子の手を取ってやれれば”ってさ」
イグニスは、まっすぐ前を見据えた。
「……最初は、自分には関係のない、ただの昔話だと思ってた。けど今、こうして人と話して、信じて、隣を歩いてみて――ようやく分かったんだ」
イグニスは、一歩だけ前に出た。その足元に、熱がほとばしる。
ふわりと炎が巻き上がり、次の瞬間――彼の姿が、赤銅の竜へと戻っていた。
広がる翼、たくましい四肢。燃え立つ鬣のようなたてがみが、朝の光を裂く。
「……今なら、分かる。だから、行くよ。……レガリアの行き着く先を、この目で見届ける。
そして、もしまだ届くものがあるなら――俺の火も、照らすために使いたい」
その言葉に、誰よりも先にイスズが頷いた。
「……いいね。火は闇を裂く。とくに、“深い夜”にはさ」
そして、ふっと笑って、くるりと振り返る。
「――じゃ、準備しようか。“最後の旅”の支度をね」
空はまだ澄んでいる。
だが、その蒼穹の奥に、確かに――嵐の気配があった。
優しい光の朝は終わり、戦いの空がまた始まろうとしていた。