二十九話:まだ、変われるなら
まだ朝日が昇りきらぬ頃――
ノアは静かに目を開け、しばらく天井を見つめていた。
身体はまだ痛む。竜の力を制御しきれず暴走しかけた代償は、想像以上に深く残っていた。
それでも、彼女はゆっくりと身体を起こす。
きしむような痛みに眉を寄せながらも、足を床に下ろした。
帰還して数日が過ぎ、ようやく――少しだけ、落ち着いてきた気がする。
――自分が眠っているあいだに、どれだけのことがあったのだろう。
アストラの空は、今、どうなっているんだろう。
被害を受けた人々は、無事だっただろうか。
そして――ルフレは。
あのとき、彼が見せた“迷い”が、今も胸に残っている。
彼は、今、どこで、どんな顔をしているんだろう。
自分が気を失ったあのあと、何があったのか、まだ知らないことばかりだ。
そのとき、静かに扉がノックされる音がした。
開いた隙間から、そっと顔をのぞかせたのは、レクサスだった。
「……もう起きてたんだ」
彼は一歩だけ中へ入ると、手にしていた薄手のブランケットを持ち直した。けれど、ノアの顔を見て――言葉を飲み込むように、その手を下ろす。
「……知らせがあって。ルフレが、目を覚ましたよ」
ノアは、わずかに瞳を見開いた。
「……えっ、ルフレが、ここに?」
「ああ。……あのとき、君がレガリアと対峙していた最中に、ネイキッドがルフレを制圧していたんだ。そのまま飛行艇団が確保して、騎士団に引き渡された。今は、医療棟の地下で静養中だよ。……状態は安定してる」
ノアは黙って耳を傾けていた。
レクサスの声は穏やかだったが、その奥にある確かな感情が伝わってくる。
「……君が、命がけで止めようとしてくれたあの場で、ルフレも……迷っていた。
ネイキッドがそれを見逃さなかったんだろうね」
ノアは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
――会わなきゃ。話さなきゃ。たとえ過去がどれだけ痛くても。
たとえ、自分もまだ完全には“戻れて”いなくても。
あの時、ルフレが最後に見せた“迷い”が、今も胸に残っていた。
「身体、まだ休めた方が……」
「ありがとう、でも……今、行かなくちゃ。ルフレに、話をしたいの」
ノアは微笑んだ。まだ少し青ざめた顔で。
レクサスはそれ以上何も言わず、そっとケープを肩にかけてくれた。
「じゃあ、僕も――」
「ううん。ひとりで行くよ。……これは、私の言葉で、伝えたいの」
そう言って、ノアは一歩、また一歩と歩き出す。
足元はまだおぼつかない。それでも、確かに前を向いていた。
神殿の通路を抜け、医療棟の地下へ。
誰もいない夜明けの廊下に、ノアの足音だけが響いていた。
――もし彼が、また自分を拒んだとしても。
――もし、言葉が届かなかったとしても。
それでも、彼に伝えたい。
“あなたの痛みを、知りたい”と。
そして――“信じたい”と。
静かに、観察室の扉の前に立つ。
ノックの音が、静寂を破る。
「……ルフレ。ノアです。……入っても、いいですか?」
しばらく、返事はなかった。
けれど、扉の向こうで空気がわずかに動いた。
それを感じて、ノアはそっと扉を開ける。
室内は、静かだった。
白い壁。小さな寝台。その傍らに、膝を抱えるように座っていたルフレがいた。
身体は細く、顔はまだ青ざめていたが――瞳だけは、しっかりとこちらを見据えていた。
「……来たんだ」
「ええ」
ノアは彼の前に腰を下ろした。
目線を合わせるように、ゆっくりと。
「君が目を覚ましたって聞いて……どうしても、自分の言葉で伝えたくて」
「何を?」
ルフレの声はかすれていた。問いかけというより、試すような響き。
ノアは、少しだけ視線を落とし――そして、真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「“生きていてくれて、よかった”って」
ルフレが、息を呑む気配がした。
けれど、すぐに眉を寄せて、顔を背けた。
「……そんなこと、言われる資格なんてない。あんなこと、したのに……君たちを傷つけた……」
「それでも、君は……止まってくれた。最後、誰かを傷つけようとしなかった。私は、それを見てたよ」
「違う……違うよ、あれは、怖くなっただけだ。……自分が、何をしてるか分からなくなって……」
ルフレの声が震える。
「“自分が怖い”って、思ったんだ。母さんを殺されて、信じてた人に裏切られて、誰も信じたくなくて……でも、そうやって牙を剥いて、暴れて……最後に、ボク自身が、一番怖くなった」
ノアは、言葉を返さなかった。
ただ、そっと――自分の胸元に手を置く。
「私もね、少しだけ……分かる気がするの。誰かを傷つけたくないのに、力が暴れて、自分が見えなくなって――それが、どれほど怖いことか」
一度、言葉を止めて、自分の胸元に視線を落とす。
……あのとき、確かに感じた。
誰かの深い怒り、絶望、そして――“壊したい”という強い願い。
その想いが、胸の奥に流れ込んできて……私は、押し流されそうになった。
まるで、“唄”のようだった。「全部終わらせてしまえばいい」と囁く声。
私は……応えたくなかった。
自分の力が、誰かの憎しみに染まってしまうのが怖かった。
でも――染まりかけた。
暴走して、制御できなくなって……結局、誰かを傷つけてしまいそうだった。
「……だから、私は君を責めないよ」
ルフレの肩が、小さく震える。
「……でも、ボクが殺した人や、母さんのことは、誰も……戻せない」
「うん。過去は、変えられない。けれど……君がこれから何を選ぶかで、過去が“どう意味づけられるか”は変えられる」
――しばしの静寂ののち。
ノアの言葉が、静かに胸の奥に届いた気がした。
けれど、それでも。
忘れられない記憶が、胸の奥で静かに息をしていた。
今も胸に残っている“救われた記憶”があった。
ルフレは、俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……レガリアは、優しかったよ。冷たくて、怖くて……でも、誰よりも優しかった。
“全部壊してしまえばいい”って、そう言ってくれたとき……ボクは、ひとりじゃないって思った」
ノアは、そっと耳を傾けていた。
「今思えば……あの人も、傷ついてたんだ。誰かを信じて、裏切られて。……たぶん、ボクと同じだった。だから、優しくしてくれたんだと思う」
彼の瞳が、静かに揺れる。
「……利用されたんじゃない。たぶん、共犯だったんだ。ボクは、あの人の“怒り”にすがって、自分の憎しみを正当化してた。……あの人もきっと、ボクに自分を重ねて、壊す理由を探してたんだと思う」
ノアは、何も言わなかった。
けれどその沈黙は、否定ではなく、受け止めるためのものだった。
「その優しさが、本物だったのかどうかなんて、分からない。でも……あのときのボクは、たしかに救われたんだ」
そして――
「だからこそ、もう一度、誰かの優しさを信じてみたい。今度は、誰かを傷つけるためじゃなくて」
ノアは、一瞬だけ目を伏せ――そして、しっかりと頷いた。
ルフレは視線を落とし、小さく拳を握る。
自分の胸の奥で、まだ答えの出ない何かが、微かに脈を打っていた。
「……そんなの、今さら許されないかな」
ノアは首を横に振り、まっすぐ彼を見つめ返した。
「“今さら”なんて、ないよ。遅すぎるなんてことは、誰にだってない」
ノアはふと、あの戦場で見たルフレの姿を思い出していた。
――白い狼。
その姿は、誰よりも目立っていて、どこにも溶け込めないように見えた。
「……きっと、君は……ずっと、“違う”って言われ続けてきたんだよね。誰かに拒まれて、居場所がなくて……それが、どれほど苦しかったかなんて、簡単には分からないけれど――」
ノアはそっと言葉を探すように、彼を見つめた。
「でも、それでも今こうして……“信じたい”って言ってくれたことが、私は嬉しい」
しばらくの沈黙。けれどその中に、確かに揺れる感情があった。
ルフレは、わずかに顔を上げた。
その瞳には、強がりきれなかった少年の素顔が、ほんの一瞬だけ浮かんでいた。
やがて、小さく「ありがとう」と呟いた。
それだけで、ノアは十分だった。
彼の心に届いたものが、たしかにあった――そう信じられたから。