二十五話:叫びが、唄に変わる刻
東へと進むその足取りの先で、霧の空気は、少しずつ、別の重さを帯びていく――。
その時、先頭を進んでいたネイキッドが足を止めた。
霧の向こうから、低い呻き声と共に異形たちが姿を現す。だが、ただの襲撃ではなかった。
「陣形を保ってる……誰かが、指揮を……!?」
異形たちはこれまでのような無秩序な突撃ではなく、まるで軍勢のように、連携すら見せていた。
そして――その後方。
霧を裂いて現れたのは、二つの影。
一人はまだあどけなさの残る少年。もう一人は、黒翼の男――その背からは異様に歪んだ気配が漂っていた。
ノアの傍らで、モコが警戒するように耳を伏せ、低く唸った。
その仕草に、ノアも思わず息を呑む。モコがここまで露骨に威嚇の気配を見せるのは、よほどの危機を感じ取った証だった。
「……敵意があるようですね」
イストが一歩前に出て、剣に手をかける。
少年の金色の瞳が、まっすぐにノアを射抜いた。
だが、その瞳に宿るものは敵意一色ではなかった。何か、戸惑いのような、感情の揺らぎがほんの一瞬だけ、垣間見えた。
ノアは、初めて見るその顔に小さく眉をひそめる。
どこかで会った記憶はない。だが、敵意と同時に、寂しさのようなものが感じられた。
少年は一瞬だけ口元を歪め、ゆっくりと手を上げた。
「僕の名前は、ルフレ。レガリアの協力者だよ。君らには――ここで、消えてもらおうかな」
名乗ったその瞳は、まっすぐにノアを見据えていた。
「そしてこっちは、ハリアー。強いよ。だから……気をつけてね」
淡々と紹介された黒翼の男は、無言のまま剣を抜き、すでに戦闘態勢に入っていた。
「来るぞ!」
イストの号令と同時に、戦いが始まった。
その最中――少年の動きは速く、獣のようにしなやかだったが、何かを迷っているような、どこか抑えた動きが混じっていた。
ノアの剣が閃き、ルフレの爪と鋭く交錯する。
金属と骨とが打ち合うような音が霧に裂け、火花が散った。
だが、ルフレの動きはただ速いだけではない。
地を蹴る足運びは無駄なく、風を滑るような軌道で、幾度もノアの死角に回り込もうとする。
ノアは咄嗟に回避しながら、その瞳を見た――。
そこにあったのは、怒りでも憎しみでもなく、ほんの僅かな――「迷い」だった。
だが次の瞬間、少年の身体が震えるように揺れ――。
骨が軋む、不快な音が響いた。
ルフレの細い四肢が異様に伸び、指先は鋭い爪へと変じ、顔の輪郭が崩れ、牙が光をはね返しながら覗いた。
金の瞳はそのままに、全身が白い毛並みに覆われ、獣の形へと変わっていく。
それは、美しくさえある姿だった。だが、ノアはふと胸の奥がざわめくのを感じた。
「……白い……」
ぽつりと漏らしたその声は、誰にも届かないほど小さかった。
――白い狼。
一般的なライカンスロープの毛並みは、灰色や黒がほとんど。
群れの中で目立たぬよう、保護色としての役割を果たしているという。
だが彼は――この白さでは、あまりにも目立ちすぎる。
――だから、群れを追われた?
違うとされて、拒まれた?
ノアは確証もなく、ただその可能性を感じていた。
ルフレが、驚異的な速さでノアへ迫る。鋼と牙が交錯する。
その爪は風を裂き、牙は魔力すら食い破る勢いだった。
その横では、ハリアーが淡々と攻撃を繰り出していた。
空中を縦横無尽に舞い、鋼糸が閃光のように放たれる。
「くっ――!」
ハリアーの鋼糸が交差し、空間に緊張の刃が走る。
レクサスは瞬時に剣を構え直し、鋭く踏み込んできた糸を見切って払い落とした。
だが、次の瞬間には背後から新たな鋼糸が迫る――
レクサスの瞳が細められる。
静かな詠唱とともに、彼の周囲に淡い水色の魔法陣が展開し、半透明の障壁が咄嗟に形成された。
鋼糸がそれに当たり、火花を散らして砕ける。
「……速いけど、見切れないわけじゃない」
小さく呟き、レクサスは背を預けるように霧の中を跳ねる。
次の一手を読んだかのように、右手の剣を構えつつ、左手に再び魔力を集中させる。
放たれた閃光が、ハリアーの軌道を遮るように霧の中に閃いた。
一瞬だけ動きを鈍らせた隙に、レクサスの剣が横薙ぎに走る。
だがハリアーもその隙を見逃さない。
翼を折りたたんで急降下すると、ほとんど真上からレクサスに襲いかかる。
「……っ!」
ギリギリの距離でレクサスが剣を上げ、受け止めた。
鋼糸と剣がぶつかり、金属の摩擦音が空気を裂いた。
「……この程度で、ノアを守れなくてどうする!」
絶え間ない斬撃に耐えながら、レクサスは自分を鼓舞するように吠える。
その瞳には、まっすぐな決意の炎が灯っていた。
――異形の一体が、ルフレをはじき返したノアに向かって突進してきた。
迎え撃ったその瞬間――異形の体が裂け、中からのぞいた“何か”に、ノアの目が釘付けになる。
崩れ落ちた異形の中に、かつて人間だった痕跡――
朽ちた騎士の紋章の破片。皮膚の一部。そして、人の眼。
……それだけではなかった。
錆びついた銀の指輪が、首元の裂け目に引っかかっている。
その傍らに、小さな布切れ――色褪せた刺繍の花が、微かに残っていた。
子を想う母か、伴侶を想う者か――誰かを大切に想っていた、“人間”の面影。
寄せ集められ、ねじ曲げられたその姿に、ノアの中の嫌な予感は確信へと変わっていく。
その様子を見ていたルフレが、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり気づいてたんだね。そう、“元は人間”。レガリアの血を与えられて、正気を奪われて……“信徒”にされた。そして最後に魂も喰われて、ただの殻になる。祈りで還る魂なんてない。ただの“なれの果て”さ……哀れだよね」
祈りの言葉を否定するような、冷たく残酷な真実だった。
「……そんな……!」
ノアの動きが止まる。
横からイストの剣が割り込むように振るわれ、彼女の前に立ちはだかった。
「気を抜くな、ノア!」
「っ、はい……!」
だが、動揺はすでに広がっていた。
見た目に薄々感じていた「嫌な想像」が、言葉にされたことで否応なく現実になった。
「人であろうと異形であろうと、今は“敵”だ」
イストが断じる。けれどその声音には、わずかに濁りがあった。
「へえ……こんなでも人間って分かると迷うんだね」
ルフレが獣の口元を歪め、低く笑う。
その瞳には、いびつな優越感と――どこかで感じた「寂しさ」が揺れていた。
「……どうして、こんなことをするの? 本当に、あなたの望みなの?」
ノアの問いに、一瞬、ルフレの表情が揺れ、足が止まった。金の瞳がわずかに陰り、どこか、苦しげに泳いでいた。
「そんなの……決まってるだろ……!」
吠えるように返した声に、怒りとは別の響きがあった。
「……ボクの母さんは……人間と仲良く生きようとした。でも、“種族が違う“それだけで……殺されたんだ」
その声は怒りというよりも、痛みに近かった。
ノアは何も言えず、ただ静かに彼を見つめていた。
「信じてたのに。笑って暮らせる日が来るって……信じてたのに……!」
ルフレの声が震える。
「でも、そんな世界は来なかった。なら……壊してやるしかないだろ!」
その叫びに、自身すら押し潰されそうになるように、ルフレは歯を食いしばる。
ノアと刃を交えながら、ルフレは心の奥底に渦巻く何かを振り払おうとしていた。
振り払おうとするたびに、なぜかノアの姿が重なる。
――自分を抱きしめてくれた母の姿に。
その錯覚を否定するように、ルフレは吠えた。
だが、心のどこかで理解していた。
怒りだけでは、もう動けなくなっていることを。
ノアの視線が、ルフレの瞳とぶつかり合う。
――まるで、助けを求めるような、子どもの瞳だった。
ノアは一歩、彼に近づこうと――
だが次の瞬間――空気が凍るような気配が走る。
鋼糸が剣を絡め取るように巻きつき、ハリアーはひと呼吸の隙にレクサスの動きを封じた。
そのまま無言で距離を取り、霧の中へと身を滑らせる――まるで、初めから“狙い”が別にあったかのように。
「……迷うな、ルフレ」
低く響いたその声が、霧の奥から突き刺さるように届いた。
ノアと向き合っていたルフレの金の瞳が、一瞬だけ揺れる。
ハリアーがすでに彼の傍に立っていた。
ノアの剣を鋼糸で弾き飛ばし、すぐさま霧へと引いていく。
その一閃は、ノアの頬をかすめ、薄く赤い線を描いていた。
そして――
ルフレの爪が、迷いを振り払うようにノアを狙って振るわれる。
咄嗟に前に出たレクサスが剣でそれを受け止めるが、先ほど封じられた影響で体勢が不完全だった。
「レックス――!」
ルフレの爪に押し負け、レクサスが膝をつきかけた、そのときだった。
霧を裂くように、モコが駆け出す。
翼をたたみ、重心を低くした姿は、まるで突撃する獣のようだった。
「きゅううっ!!」
ノアに踏み込もうとしたルフレの前に、モコが一直線に飛び込む。
ぶつかり合う瞬間、どんッと鈍い衝撃音が響き、ルフレの身体が横へ弾き飛ばされる。
空気が揺れ、霧が一瞬、弾けるように割れた。
ルフレは地を滑りながら体勢を整えるも、一瞬、驚愕に目を見開く。
その隙に、モコはそのままノアとレクサスの前に滑り込み、翼を広げて構える。
喉奥から、震えるような唸りが漏れたかと思うと――
「くるるぅぅぅ……」
やさしく、けれど確かな旋律が空気に染み渡る。
唄が放つ音波が周囲に波紋を描き、二人を包むように淡い光の障壁が形成されていく。
レクサスの傷がゆっくりと癒え、ノアの胸に溜まっていた重苦しい感覚が、ふっと軽くなる。
彼女は、小さくつぶやいた。
「……モコ、ありがとう」
モコは「きゅっ」と鳴いて尻尾をぴょこりと振ったが、
その視線はもうすでに、再び立ち上がるルフレの動きを捉えていた。
――小さな飛竜の唄が、戦場に一瞬の“静けさ”をもたらしていた。
だが、ルフレはその静寂を切り裂くように、わずかに身を前へと動かした。
金の瞳は細められ、爪が再び構えられようとする――
「だめ……っ!」
レクサスがまた傷つけられる――その想像が、息を詰まらせた。
ノアの声が震えた。
次の瞬間、胸の奥から何かが破裂するように、感情が溢れ出す。
恐怖、怒り、哀しみ――何より、“これ以上誰かが傷つくのは嫌だ”という思い。
声にならないその感情が、喉の奥で熱を帯び、
音になって、勝手にあふれ出た。
「……っ――!」
空気が一変する。
それは、ノア自身も制御できない“唄”だった。
波紋のような光が爆ぜ、異形たちは悲鳴を上げ、泡立つように崩れていく。
まるで、存在そのものが否定され、塵へと還るかのように。
波紋のように広がった唄が収束していく中――
一瞬、時間が止まったような静けさが戦場を包む。
その中心に立つノアを、ネイキッドはじっと見つめた。
「……おいおい、マジかよ……」
思わず零れた声は、軽口でも冗談でもなかった。
肌が粟立つような気配が、いまの“唄”にはあった。
ノアの背後でうごめく何か――いや、“竜”の残響のような気配。
ネイキッドは無意識に剣を握り直し、静かに一歩踏み出す。
そのとき、唄から逃れるように霧の端から異形の一体が漏れ出すように現れた。
半壊しかけながらも、口から泡を吹き、ノアの方向へとよろめき出る。
ネイキッドの剣が、その瞬間にはもう振り上げられていた。
「お前だけは寝坊かよ……なら、もう一回寝かしてやるよ」
重みのある斬撃が横なぎに閃き、異形の首を跳ね飛ばす。
肉と魔力の断末魔が霧に消え、再び静寂が戻った。
「……はあ。まったく、俺の出番なくす気かよ」
そうつぶやきながら、ネイキッドはノアの背をちらと見やる。
だがその視線には、驚きと困惑――そして、ほんの少しの安堵が滲んでいた。
距離を取ったハリアーがルフレに目をやると、その威力に圧倒されたように、彼は少年の姿に戻りその場で立ち尽くしていた。
ハリアーは何も言わずにその元へと飛び、片腕で抱きかかえるように彼を引き寄せた。
重さをまるで感じさせぬ動きで、彼は翼を広げる。
「……ルフレ、退くぞ」
黒い翼は風を裂いて飛翔し、霧に溶けるように消えていった。
「追うか……?」
残っていた異形を一掃したネイキッドが剣を握り直しながら問うたが、イストが首を振る。
「――今は無理です。霧も濃い。これ以上は無謀です」
その言葉に、誰もが小さく息を吐いた。
「……ノアの唄がなければ、こっちが危なかったかもしれない」
イスズの言葉に、誰もが静かにうなずいた。
ノアは、小さく唇を噛みしめたまま、ぽつりと呟いた。
「……私、本当に……」
言いかけた言葉は、そこで止まる。
その瞳に浮かんでいたのは、恐れと、戸惑い。
まるで、今の自分が――本当に“人間”ではないと気づいてしまったかのように。
その手はわずかに震えていた。
唄ったのは確かに自分。けれど、それは本当に、自分の意思だったのか。
湧き上がる“何か”に身体を預けたあの感覚が、ただただ怖かった。
レクサスは、そんな彼女の沈黙を受け止め、そっと寄り添った。
「どんな力を持っていても、どんなことで揺れても……君は、君だよ。僕にとって、大切な――それだけなんだ」
その声に、ノアの瞳がかすかに揺れる。
まだ言葉にはならない想いが、胸の奥で静かに脈を打つ。
そして――その奥底で、竜は静かに目を覚ましかけていた。
その光景を、静かに見守るイスズ・エルガは、何も言わず、ただそっと息を吐いた。
――同じ頃、霧に閉ざされた離宮の奥。
目覚めの気配に、レガリアは静かに微笑んだ。