二十四話:祈りと残響の教会
異形の最後の一体が、イストの剣に貫かれて崩れ落ち、霧の中に再び静寂が戻った。
「……全員、無事か?」
イストの確認に、ネイキッドが肩を回しながらうなずく。
「なんとか、な。こっちは全員そろってる――って、……あれ?」
ネイキッドがきょろきょろと辺りを見回す。
「ノアは? ……モコだけ戻ってきてるってことは……」
レクサスがその場に立ち尽くしたモコへと駆け寄る。
白い体毛が泥にまみながらも、モコは必死に尻尾を振ってレクサスの袖をくわえる。
「……ノアのいる場所を知ってるのか?」
モコが駆け出そうとするのを追って、レクサスも半ば衝動的に前へ踏み出した――が、その肩を、誰かの手が押さえた。
「焦って動いては、逆に危険です」
イストだった。声は静かだが、強い意思がこもっていた。
「落ち着いて状況を整理しましょう。今は――」
言葉を切り、辺りに目を走らせてから短く告げる。
「敵の気配も消えたようですね。ノアはモコが導けるとして――周囲にまだ生存者がいないか、こちらも手分けして確認を」
イストの静かな声に、ネイキッドがうなずき、すぐさま逆方向へと駆け出す。
レクサスも頷いて、モコの動きを追うように足を踏み出した。
霧の中、白い影が先を走る。
「ノア……どうか、無事でいてくれ……」
レクサスはその後を一心に追いながら、心の奥でただひとつの願いを繰り返していた――
――廃墟の壁を回り込んだその先。
瓦礫のの陰で、白銀の姿が静かに佇んでいた。
ノアは片膝をつき、片手を胸に当てて小さく息を整えている。
掌からは、かすかに青白い光が漏れていた。――自己治癒の魔法だ。
血に染まった脇腹には応急の癒しが施され、呼吸も落ち着きを取り戻していた。
荒く傷ついてはいるが、致命傷ではない。
彼女は――生きている。
そして、立ち上がろうとしていた。
霧の奥から、急ぎ足の足音が迫ってくる。
一番に霧の中から飛び出してきたのは、レクサスと――その傍らを走る白い影だった。
白い体毛は泥にまみれ、片耳は少し裂けていたが、モコは元気な足取りでノアへと駆け寄り、「きゅうっ」と鳴きながら彼女の胸元に鼻先をこすりつける。
「……モコ!」
ノアは目を見開き、しゃがみ込んでモコを抱きしめた。
「無事で良かった……」
すぐ後ろからレクサスも駆け寄り、彼女の肩に手を添えた。
「ノア……! けがはしてない?」
「大丈夫です……自分で、少し回復しました」
ノアは苦笑しながらも、確かに立っていた。全身に疲労は滲んでいたが、その瞳には力があった。
「この子が……僕たちを、君のところまで案内してくれた。まっすぐに、迷いもせずに」
モコはくるる、と喉を鳴らして尾を軽く揺らす。その後、少し遅れてイスズが姿を現し、モコの背を軽くなでた。
「――よくやったね。ほんと、頼りになるじゃないか」
「……流石モコ。ほんと、頼もしいね」
ノアが微笑むと、モコは少し誇らしげに胸を張り、レクサスの腰に鼻先をこすりつけた。
そこへ、遅れてネイキッドとイストが戻ってくる。二人とも表情は険しく、わずかに肩で息をしていた。
「見回ってきたが……ダメだ。残念だが、生き残りは見当たらなかった」
ネイキッドが、悔しげに息を吐いて告げる。
その言葉に、ノアは小さく唇を噛み、レクサスも眉をひそめる。
「建物は焼け落ち、人の気配はありません。遅すぎたようです」
イストもまた静かに言い添え、地に伏した異形に目をやる。
「……この異形、君が倒したのか? それとも――誰か、助けに入ったのか」
その言葉に、ノアがわずかに目を見開く。
「……黒い外套の剣士が、助けてくれました。顔は見えませんでしたが……剣の腕は、尋常ではありませんでした」
言いながら、ノアは霧の向こうを見つめる。
「……助けてくれた?」
ネイキッドが目を細め、辺りを見渡し、イストもまた、剣を構えたまま警戒を続けていた。
「その人物、何者か見当は?」
「……いえ。ただ……どこか、懐かしさのようなものを、感じました」
ノアの声には確信がなかったが、その表情には、胸の奥に引っかかる感覚が残っているようだった。
その沈黙を、まるで和らげるかのように、モコがそっと鼻先をすり寄せてくる。
ノアがそっと撫でると、モコは低く「くるる……」と喉を鳴らした。
その声は、やがてゆっくりと旋律を帯び――かすかな鈴の音のように、澄んだ音が空気に溶けていく。
それは言葉ではない音。
竜の血を引く飛竜が持つ、癒やしの唄。
波紋のように穏やかな音が周囲に広がり、皆に刻まれていた傷が和らぐ。
「……ありがとう、モコ」
レクサスが小さく頭を下げる。
ネイキッドも、冗談を封じた真面目な声で言った。
「お前、すげぇな。……頼りにしてるぜ」
モコは「当然でしょ!」と言うように「きゅっ」と小さく鳴き、誇らしげに尾を振る。
そのときだった。遠くから、風に乗って微かな金属音が届いた。鐘のようにも、風鈴のようにも聞こえる音。
ネイキッドが顔を上げる。
「……今、音がしなかったか?」
誰かが静かにうなずく。
音の方角を確かめるように、一行は慎重に歩を進めた。焼け落ちた村の中、まるでそこだけ異質な空気が残っていた。
霧の向こう、わずかに開けた場所に、それはあった。
――石造りの、小さな教会。
時を越えてそこに在り続けたかのように、建物は奇跡的に無傷で残っていた。外壁は苔むし、鐘楼の鐘は錆びつきながらもなお風に揺れている。
扉は半ば開き、人気のない内側からは、淡い光が漏れていた。
レクサスがそっと扉を押し開けると、軋む音とともに、古びた空間が広がる。
奥には祭壇があり、そこには三体の像が並んでいた。
教会の中は冷え切っていたが、不思議と風の音は届かず、蝋燭に火を灯せばじんわりと温もりが満ちていく。
誰からともなく腰を下ろし、今夜はここで休むことが自然な流れとなった。
モコは祭壇の前にちょこんと座り、静かに尾を巻きつけるように伏せる。
ノアもその隣に膝をつき、両手を胸に重ねて、そっと目を閉じた。
火の光に照らされたその横顔には、どこか静かな祈りの色が浮かんでいる。
レクサスは、彼女のそばに腰を下ろし、ゆっくりと深く息を吐いた。
イストとネイキッドも、それぞれに静かな位置をとって休みにつく。
ネイキッドの目線の先、祭壇の奥には三体の像が並んでいた。
中央には、微笑む女神――創世神イース。その両脇には、二体の竜の姿。
一体は天を仰ぎ、翼を広げる堂々たる金の竜。
もう一体は、地を見つめるように翼をたたんだ銀の竜。
「なあ……これ、エンシェントドラゴンってことは、どっちかが姐さんってことになるよな?」
ネイキッドが腕を組みながら言うと、イスズはにやにやと笑い、金の竜像を肘で指す。
「ま、こっちがアタシだろうねぇ。造形、だいぶ盛ってあるけど」
ノアが思わず吹き出し、レクサスも目を伏せて微笑む。
そのとき、ノアがふと銀の竜像を見つめながら呟いた。
「じゃあ……もう一体の竜――弟さんは、今どこに……?」
イスズはほんの少しだけ目を細めて、肩をすくめた。
「弟は、君が試練のときに会った竜だよ」
「……えっ?」
ノアの目が大きく見開かれる。
一瞬、空気が止まる。
レクサスは「……えぇぇ……?」と呆けたような声を漏らし、イストは無言のまま、ほんのわずかに眉をひそめた。
「……あの、銀の……鱗の竜は珍しいって思ってたけど……」
「そう。昔っから真面目で、融通きかないし、口も重い。だけど――」
イスズは少しだけ声を和らげて、続けた。
「君のこと、ちょっと気に入ってたみたいだったよ。あのセレスが、“見所はある”なんてぽそっとね。……あの堅物が、だよ? いやほんと、レア中のレア」
ノアがきょとんとする。
「……え、そんな話を……?」
「うん、まあ。アタシ、たまに洞窟に“寄り道”して、顔見に行ってるからさ」
ノアは、目を瞬かせたまま口を閉じた。
あの厳しくも崇高な存在が、そんな言葉を――。
言葉もなく像を見つめ、そっと歩み寄り、銀の竜像の前で立ち止まる。
そして――自然と、静かに頭を垂れた。
その動きには、祈りでもなく、義務でもなく。
ただ、ひとつの命に向けた、真っ直ぐな敬意があった。
彼女の背中を、誰も言葉にせずに見守っていた。
その姿を後ろから見つめながら、レクサスはほんの少しだけ目を細める。
ネイキッドも口を開かず、イストは微動だにせず佇んでいた。
像への敬意を静かに捧げたあと、ノアは一歩下がり、そっと息をついた。
教会の中にはまだ蝋燭の光が柔らかく揺れ、夜の静けさと相まって、どこか包まれるようなぬくもりが漂っていた。
その空気を破るように、イスズが伸びをしながら言った。
「――ふぅ。夜も更けてきたし、ここで休むとしようか」
「……ここに泊まって大丈夫なんですか?」
ノアがやや不安げに問いかけると、イスズはにやりと笑って指を鳴らす。
「大丈夫大丈夫。なんたって、教会だからね。結界も張りやすくて助かるよ、ほんと」
言うが早いか、彼女の指先から金色の魔力がふわりと広がった。
光の粒子が天井へと舞い上がり、見えない膜のように周囲を包み込む。
「――これで魔物避けはばっちり。下手な結界よりずっと効くよ。聖域の空間と相性もいいしね」
「……すごい……」
ノアが小さく呟く。
ネイキッドは壁際に座り込みながら、満足げにうなずいた。
「さすがだな、姐さん。これでぐっすり寝られそうだ」
軽口を交わしながらも、仲間たちは思い思いに身を休め始める。
イスズは結界を張り終えると、扉に軽く手をかざし、念を込めたように目を細めた。
「……さて、と。今夜はもう、誰にも邪魔させないよ」
その言葉に、ノアが静かにうなずく。
すると、奥の一角からふわりと湯気の立つ香りが漂ってきた。
「お待たせしました。少しですが、温かいものを――」
イストだった。すでに携行用の小鍋と湯を用意し、手早く人数分の湯飲みを並べている。
「これは……」
レクサスが目を瞬かせる。
「薬草を少々煮出しただけですが、体を温めるには十分でしょう。カモミールと、疲労回復に効く根を少し混ぜています」
ネイキッドが不思議そうに鍋を見ながら首を傾げた。
「いや、ちょっと待て。荷物なんて持ってなかったよな?」
「必要最低限は、すべてモコ殿に預けてありますので」
その言葉に、モコが「きゅっ」と鳴いて胸を張るように首をふるわせる。
イスズが楽しそうに補足した。
「その首輪ね、アタシの特製アイテムなんだよ。内部に空間を繋げてあって、小型の道具やら食料やら、いろいろ入ってる」
「……モコが、携帯物資庫……?」
ネイキッドが目を丸くする。
「しかも魔力で重さ調整も完璧。本人もちゃんとわかってるみたいで、誇らしげにしてるんだから、可愛いったらないよね」
「きゅうっ」
モコは尾を揺らしながら、ノアにすり寄る。
ネイキッドが腕を組みながら半ば感心したように言った。
「……あれだな。飛竜ってより、もう秘蔵の補給庫だな」
「ぐぅ……」
モコが微妙に不満そうな声を漏らす。
「……うん、ごめん。飛竜で癒しで頭脳派で補給もできる、万能ってことにしよう」
「きゅっ」
ノアはモコとネイキッドのやりとりに目を細めふう、と湯気を吹いて茶を口に含む。
「……あったかいな」
そのひとことが、場に小さな安堵の波紋を広げた。
外では霧が流れ、夜は、静かに更けていった――
魔物避けの結界に包まれた教会の中には、穏やかな時間が流れていた。
誰にも邪魔されることなく、それぞれが静かに眠りの中へと沈んでいく。
石の床に寝袋を敷いた者もいれば、壁に背を預けてまどろむ者もいた。
ノアはモコの体温に寄り添いながら、時折そっと息を整えるようにして夢の中へ。
レクサスは彼女のすぐそばで、半ば見守るように目を閉じていた。
高く掲げられた窓の外、やがて空が少しずつ白んでゆく。
霧の向こうに差し込んだ柔らかな光が、静かに教会の祭壇を照らした。
風は止み、外界の喧騒は遠く、ここだけがまだ夢の続きのように静かだった。
――そして、朝が来た。
誰よりも早く目を覚ましたのは、イスズだった。
金の瞳が静かに開かれ、天井の梁を見上げるようにひとつ、息をつく。
立ち上がった彼女は、ゆっくりと結界に触れ、魔力の流れを確かめる。
まだ十分に保っている。外からの干渉も、なかった。
その微かな気配に、すぐさま反応した者がいた。
イスズが歩き出した瞬間、教会の隅に身を預けていた影が静かに目を開く。
「……お早いですね、神官長」
それはイストだった。
瞬き一つで覚醒したその瞳は、眠気のかけらも感じさせず、すでに周囲を警戒する光を帯びている。
「さすがねぇ、やっぱり寝てても気配で起きるんだ?」
「……いざという時に備えるのは、近衛の務めです」
イストが静かにそう告げた頃、教会の中に少しずつ気配が増していく。
最初に身じろぎをしたのは、モコだった。
「……きゅうぅ……」
まだ眠たげにまぶたを擦るように前足を動かし、ふわりとあくびをひとつ。
その動きに釣られるように、ノアがゆっくりと目を覚ました。
「……朝、ですか……?」
「おはよう。ちゃんと眠れたかい?」
イスズの声に、ノアは頷く。
続いてレクサス、ネイキッドも順に目を覚まし、教会の空気に柔らかな温度が戻っていく。
イストは既に簡易炉の火を整え、小鍋で湯を沸かしていた。
そこに用意されたのは、軽く焼いた保存パンと干し果実、そして温かいハーブティー。
「……簡素ですが、今はこれで十分でしょう」
配られた湯気立つ飲み物に、皆が自然と手を伸ばす。
昨日までの緊張が、少しだけ溶けていくようだった。
そして、全員が静かに出立の支度を終える頃――
イスズが、ふっと息をついて外の空気を読み直す。魔力の残滓、地に染み込んだ記憶――そして、消えた命たちの気配。
「……うん。やっぱり、そうみたいだね」
イスズは、静かに告げる。
「……残念だけど、ここに救える命は、もう残っていないみたいだ」
その声は静かだったが、どこか張り詰めたものを孕んでいた。
焦げた木の匂い、鼻を刺すような鉄のにおい――そして、空気に残る竜の気配。
イスズは目を細め、魔力の澱みを測るように呟く。
「しかし、いったい、どれだけの命を取り込んだら、こんな痕跡が残るのか――レガリアは相当な力だけど……この規模は異様だよ」
誰にともなく呟かれた問いに、ネイキッドが眉をひそめた。
「……命を喰って力を増してる、ってことか。……なんつーか、規格外すぎるぜ」
「……それも、竜を喰らっているとしたら?」
イスズの瞳が、霧の奥を射抜くように細められる。
「共食い……?」
レクサスのその言葉に、空気が一瞬凍りついた。
「……竜の力は、竜にとっても“餌”になり得る。生きたまま力を喰らうなんて行為、本来は竜の間じゃ禁忌だ。そんなの、力なんてもんじゃない。呪いみたいなもんさ」
イスズの声は低く、遠くを見るようだった。
そして、その目にほんの一瞬、ヴェントからの最後の手紙がよぎる。
『焼かれた村、消えた魂の気配、巨大な爪痕――』
「……竜だけじゃない。人間もだ。魂ごと、喰らって……力に変えてる。レガリアが“共喰い”に手を染めてるとしたら――もう、ただの竜じゃない」
言葉を切ったイスズの瞳に、褪せた金の光が揺れる。
そして、誰にも聞かせるつもりのない小声で、ぽつりとこぼした。
「……そこまでやっちまったのかい……レガリア……」
その呟きに込められたのは、怒りでも、蔑みでもなく、ただ、深く静かな――絶望に近い痛みだった。
それは焼け跡に染みつく気配のように、言葉にならぬまま、場に残り続けた。