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二十二話:許しと約束の宵

「レガリアは人間の王と共に、未来を信じて歩んでいた。……けれど、その王を殺された。力を欲する者たちによって、裏切りの中で――すべてが終わった」


 彼女の金色の瞳が、遠い記憶を映すように揺れる。


「……名を残さなかったんじゃない。きっと、あえて“残さなかった”んだろうね」


 ノアが静かに息を呑む。

 イスズは淡く笑みを浮かべながら、そっと続ける。


「彼女がなぜああなってしまったのか、皆、わかっていたんだと思う。愛した者を失い、信じた人に裏切られ――それでも、最後まで誰かのために在ろうとした。その悲しみを、責めることはできなかった」


 その言葉に、村人たちの顔からは、少しずつ“伝説”としての距離が剥がれ落ちていく。


「だからこそ、語られなかった。ただ、“その名”だけをそっと覆い隠して……彼女の心の傷に、これ以上触れないように」


 ノアも、レクサスも、誰も言葉を発せず――ただ、霧の奥に潜む気配に、胸の奥を締めつけられるような想いを抱いていた。


「真竜レガリアは、“唄“で天候を従える“天竜”だった。その力で、この霧を呼び、憎悪の波動で魔物を目覚めさせている」


 ラクティスが低く息を吐き、霧の向こうを睨む。


「……なるほど。つまり、この霧そのものが、レガリアの怒りってわけか」


 イスズは小さく頷きながらも、どこか遠いものを見るように微笑んだ。


「そうだよ。……でも、忘れないで。彼女は元々、“誰かのために在ろうとした”竜だったってことを」


 ノアの顔に驚きと困惑の色が浮かび、レクサスは真剣な面持ちで息を呑んでいる。

 イストもまた、鋭い視線を向けたまま静かに問いかける。


「……神官長、どうしてそこまで詳しいのです。まるで、自分の目で見てきたような言い方だ」


 イスズは肩をすくめ、小さく息を吐く。

 それでも口元には、いつものような軽口を浮かべていた。


「……だって、実際に見てきたからさ。あの夜のことも、レガリアの絶望も――全部」


 ノアは目を大きく見開いた。

 声にならない疑問を抱えたまま、イスズの金色の瞳を見つめ返す。


 そして――イスズはふっと笑い、そっと呟く。


「……私の本当の名前は、セレナ。創世神のイースの眷属の古竜。今はエンシェントドラゴンって呼ばれてたっけ、千年前にレガリアと戦って封じた者だよ――まぁ本体は、あの時の傷がまだ癒えてなくてね。今こうして喋ってるのは、人の姿に移した意識と魔力の“分身”みたいなもんさ」


 イスズ――セレナがその名を口にし、周囲の空気が一変した。

 ラクティスは眉を上げ、「……マジかよ」と呟く。

 村人たちもまた、息を呑んでいた。


「あの人が……神の眷属? エンシェントドラゴン…?」


 誰かがそう呟くと、小さなざわめきが広がる。だが、それは恐怖ではなかった。

 先ほどまでの語りを通じて、彼女の言葉に宿る真摯な想いが、確かに彼らにも届いていた。


「神官長が……?」


 イストは無言のままセレナを見つめていた。

 だが、内心では日頃の軽薄な言動、時に儀礼すら逸脱するような奔放さを思い返し、その実が「古の竜」であったことに、さすがの彼もわずかに息を呑んでいた。


 金色の瞳を持つ神官長――いや、“エンシェントドラゴン”セレナ。


 軽口と微笑みの裏に、そんな存在が隠れていたなどと、誰が想像できただろうか。


「……そんな重荷を、一人で……」


 気づけば、レクサスは小さくそう呟いていた。


 だが、イスズ――セレナは目を丸くして、ふっと笑う。


「ん? 重荷? 一人? ……なに言ってんの、レクサス。アタシ、そんなふうに思ったこと一度もないよ?」


 イスズは目の前の面々をぐるりと見回し、わずかに唇の端を上げる。


「君たちがいるじゃないか。だから、今こうして話してるんだよ」


 きょとんとした口調は軽く、それでいてどこか、意図的に“深く語らない”温度を帯びている。


「やりたくてやっただけさ。誰かに頼まれたわけでも、背負わされたわけでもない。……そりゃ、ちょっとだけ後悔したこともあったけどね」


 最後のひと言に込められた“ちょっとだけ”に、レクサスはかすかに目を細めた。


 きっと、それがどれほどの年月と痛みを意味しているか、本人は言わない。


 だが、だからこそ――その背を信じたいと思った。

 胸の奥が、何か熱いもので満たされていく感覚に、ノアは戸惑いながらも目を逸らさず、まっすぐに見つめ返した。


 そんな中、ネイキッドだけは――少しばかり気まずそうに頭をかきながらも、どこか諦めたような顔をしていた。


「……やっとバラしたか、姐さん」


 イスズはネイキッドに視線を向け、にやりと笑う。


「……あー、アンタは知ってたもんね。五年前の夜――アタシの“本体”を見つけた時の顔……忘れないよ」


 イスズはにやりと笑いながら、わずかに肩を揺らした。


「どっかで口すべらせると思ってたけど……意外と口堅かったじゃないか、アンタ?」


「……あの夜のことは、俺の胸だけにしまっておくって決めてたんだ。……ていうか、話したら“食う”って言ったの、姐さんの方だろ?」


 ネイキッドは肩を竦め、苦笑を浮かべる。


「冗談だってのは分かってたけど……あの目で言われたら、さすがに口、割れねぇよ」


 イスズは楽しげに吹き出し、手を叩いた。


「うわ、懐かしいねぇ! あれ、ちょっと脅かすつもりだったんだけど……案外効いてたんだ?」


「ったく……あんときゃ本気で泣くかと思ったぞ、俺」


 けれどその言葉の裏には、互いへの信頼と、あの夜に芽生えた絆が確かに感じられた。


 ノアが驚いてネイキッドを振り返る。


「ネイキッド……知ってたの?」


 ネイキッドは肩を竦める。


「……まぁな。あの夜、ちょっと迷い込んじまってさ……あんときゃ本当に腰抜かすかと思ったけど……姐さんが笑って『脅しだよ』とか言って……」


 イスズは目を細めて、柔らかく笑う。


「アンタ、面白かったよねー。ビビってんだか堂々としてるんだか……あん時の顔今でも覚えてる」


 ネイキッドは短く息を吐き、レクサスの視線を受け止める。


「……ま、結局ここまでズブズブ付き合わされてるってわけさ」


「アンタはそういうとこ、面白いんだよ。だからアタシも教えた。……ノア、アンタにはずっと言うべき時を探してた。今がその時だと思っただけさ」


 ノアはゆっくりと息を吐いた。

 胸の奥にあったざわめきが、少しずつ静まっていく。


「……ありがとうございます。神官長――いえ、セレナ。……今、その名前で呼ばせてください」


 イスズはの顔には、どこか誇らしさと、ほんの少しの寂しさが浮かんでいた。


「――ありがと。でもまあ、今のアタシは人の身体だしね。今まで通り、“イスズ”って呼んでくれて構わないよ。そのほうが落ち着くし」


 ノアは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから、ふっと小さく笑った。


「……はい。じゃあ――イスズ神官長、これからもよろしくお願いします」


 イスズは満足げに微笑む。


 ふと空を見上げると、霧の向こうにかすかな夕暮れの色がにじんでいた。日も傾き、辺りは淡い茜に染まり始めている。


「……もう夕方だね。今日はここに泊まらせてもらって、明日の朝、突入の準備を整えよう」


 そう告げたイスズに、レクサスが頷く。イストも短く同意を示し、ネイキッドは肩を竦めた。


「ったく、腹が減ってると動けねぇしな。今のうちに、しっかり食っとかねぇと」


 村の代表が、「せめて夕食くらいは……」と申し出てくれたが、イスズが手を振って笑う。


「いやいや、こっちからも材料出すよ。なに、料理人は――そこにいるから」


 全員の視線が一斉に、イスト・スタウトに注がれる。


「……私ですか?……お任せください。手際よく仕上げます――」



 その声に応じて、周囲が軽やかに動き出す。誰かが笑いながら野菜を運び、子どもたちは薪を積もうと背伸びしていた。

 湯気とともに、ささやかな笑い声が焚き火のまわりに集まっていく。


 ――やがて空は群青へと沈み、焚き火の灯りがゆらめく輪を描く。

 笑い声と湯気が交錯するその空間に、ほんのひとときの平穏が満ちていった――。


 夕餉が終わり、空には星々が瞬き始めていた。

 焚き火の炎も次第に落ち着き、人々はそれぞれの寝床へと戻っていく。


 ノアも席を立ちかけたそのとき、不意に名前を呼ばれた。


「……ノア。少し、いいかい?」


 焚き火の残光に照らされて立つイスズの姿に、ノアはわずかに目を見開いた。

 その声の調子に何かを感じ取ったのか、周囲を一瞬見渡してから、静かに頷いた。


「……はい」


 ふたりきりになった静寂の中、遠くで虫の音がかすかに揺れていた。

 月光は銀のベールのように地面を照らし、焚き火の残り香が風に乗って流れていく。

 やがて、イスズがぽつりと口を開いた。


「……アタシはね……ずっと考えてた。あの時、“封印”じゃなくて……“殺して”おくべきだったんじゃないかって。何度も、何度もね」


 ぽつりと、ひとりごとのように落ちるその声に、空気がわずかに震えた。


「でも、できなかったんだ。……アイツは、最後の最後まで“誰かを憎み切れなかった”。……あの目を見て、アタシには……とどめなんて、刺せなかった」


 それは軽く笑ってはいても、深い悔いと責任の混じる声だった。


 イスズはしばらく黙っていたが、やがてノアの方へと顔を向けた。

 その金色の瞳に宿るのは、いつになくまっすぐで、かつて幾度も選択を重ねた者だけが持つ、揺るぎない決意の色だった。


「……ノア。アタシ、君に謝らなきゃいけないことがある」


 不意に名を呼ばれたノアが、わずかに目を見開く。

 イスズはほんの少しだけ視線を逸らし、それから――静かに続けた。


「十六年前、一度目覚めたレガリアを止めきれなかった。……再封印どころか、君のご両親すら守れなかった。その結果、君の兄セルシオを一人で行かせちまって……君にも、こんな重たい宿命を背負わせることになった」


 その声音は、どこまでも静かで――どこまでも深く沈んでいた。

 けれど、言い訳は一切なかった。ただ事実を見つめ、悔いを滲ませるその言葉は、何よりも誠実だった。


「……私には、兄が……いたんですね」


 その声は驚きというよりも、遠くから届いた真実に、そっと触れるような響きだった。

 セレナ――イスズは、目を伏せたまま、ゆっくりと頷く。


「……ああ。セルシオ・セヴィル。君を守ろうと、たった一人でレガリアに立ち向かった、勇敢な青年だったよ」


 ノアの瞳が、かすかに揺れる。

 遠い記憶のどこか、眠っていた感覚が、胸の奥にそっと波紋を広げていた。


「……ごめん。アタシの選択が、君から、大切なものを奪ったんだ」


 ノアの目が、わずかに見開かれる。

 まるで胸の奥に直接触れられたような痛みと驚きが、体の芯を揺らしていた。

 頭では分かっていても、心が追いつかない――けれど、イスズの言葉には、確かな想いが込められていた。


 しばらく何も言えず、ただ唇を震わせていたが、やがて彼女はそっと首を振る。

 その動きには、決意と、赦しが滲んでいた。


「……私は、あなたに……怒ってなんかいません。でも――それでも、そう言ってくださって……ありがとうございます」


 ノアの声は震えていたが、確かな思いがそこにあった。


 イスズは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと微笑んだ。


「……ありがと。そう言ってもらえるだけで、少し救われるよ」


 ノアは、ふと胸の奥に差し込んだ感情に気づき、静かに呟いた。


「ずっと……知らなかった。でも、どこかで……誰かが、見守ってくれているような気がしていたんです」


 ノアの言葉に、イスズは何も言わず、ただ静かにその背を見守っていた。

 霧の奥に潜む哀しみの中で、小さな絆の糸が――確かにつながり始めていた。


 その静けさを破ったのは、控えめな鳴き声だった。


「……きゅう」


 振り向けば、真っ白な体毛をふわふわ揺らしながら、モコがのそのそと歩み寄ってくる。

 エメラルドグリーンの瞳が、心配そうにノアを見つめていた。


「……モコ?」


 ノアが問いかけると、モコは小さく首を傾げ、それから空を仰ぐようにしてまた「きゅっ」と鳴いた。


 その仕草は、まるで――「もう、そろそろ寝よう?」とでも言いたげだった。


 イスズが小さく笑う。


「……ふふ、気が利く子だね。――さ、そろそろ明日のために休もうか。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、それが一番の準備だからね」


 ノアはその頭をやさしく撫でる。

 モコは気持ちよさそうに目を細め、「ぐぅ」と小さく鳴いた。


 まだ胸の奥はざわついていたけれど、それでも――少しだけ、歩き出せる気がした。


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