二十一話:境界の村
飛行艇がアストラ大陸上空に差し掛かると、甲板に立つ一同は緊張に包まれていた。
だが、そのとき――船室の扉が音もなく開き、神官長イスズ・エルガが、眠たげに目をこすりながらのそのそと現れた。
「いやぁ、よく眠れたよ、ここの船室は案外快適だね」
イスズは悪びれもせず、軽口を叩きながら甲板に上がってくる。
「……ちょっと待て。いつの間に乗ってんだ姐さん」
ネイキッド・シーマがあきれ顔で声を上げが、本人はどこ吹く風。
「最初からだけど? 外寒いし、寝てた方が邪魔にならないでしょ」
イスズの軽口に、イスト・スタウトは静かにため息をつき、眼鏡の位置を直しながら口を開いた。
「……神官長としての立場を、もう少しお考えいただければ幸いです。突然の同行は、任務上も危険を伴います。せめて事前に一言でもあれば――」
「お堅いなぁ、イスト君。ちゃんと“守りたいもの”は守るつもりだよ、アタシなりにね?」
「つもりと責任は、また別の問題です」
イストの眉間には、いつもよりほんのわずかに深いしわが刻まれていた。
そんな忠告も、どこか耳に入っていないような調子で、身を乗り出し、飛行艇の縁から眼下をのぞき込む。
眼下には、深く、どこまでも重たげな霧が立ちこめていた。
「……この霧。――ただの気象現象じゃないね。流れがない、まるで“意志を持って張られてる”みたいだ」
イスズの声は軽やかだったが、その金色の瞳は鋭さを帯びていた。
ノア・ライトエースは、思わず息を呑む。霧の底に何が潜んでいるのか、想像するだけで胸の奥がざわめいた。
操舵席のラクティス・ジーニアが声を張る。
「霧の中に突っ込むのは無謀だ。霧の切れ目を探すぞ!」
舵を握る操舵士がうなずき、飛行艇は慎重に進路を変えた。霧の縁をかすかに光が照らし、やがて、霧の侵食を目前にした小さな村が姿を現す。
瓦屋根の家々が寄り添うように建ち並び、荒地の中でなお、そこだけは息づいているかのようだった。
ラクティスは甲板に立ち、村を見下ろしながら目を細める。
「……あそこなら降りられるな」
飛行艇が高度を下げると、村の広場に人々が集まる様子が見えた。
武器になりそうな農具を握り締める男たち。子どもを抱きしめる母親。
その瞳に宿るのは、明らかな警戒と恐れだった。
ノアは小さく息を吐く。
自分たちは異邦の者。けれど、この地で助けを求める者がいるかもしれない。
思いを胸に、刃物のような視線を浴びながらも、ノアは背筋を正した。
――その時だった。
白い影――モコ。真っ白な飛竜が、ひょいと甲板に現れた。
淡い陽光を受けて、ふわりと光を反射する体毛。エメラルドの瞳が、まっすぐに村を見つめる。
その瞳には、恐れも敵意もない。ただ――「だいじょうぶ」と語りかけるような、真っすぐな慈しみが宿っていた。
まっすぐな眼差しに、ノアは言葉を失う。モコは、自分の意思でここに立っている――ただ、大好きな人たちの力になりたくて。
その気持ちが、まっすぐに伝わってきた。
「きゅう……」
やさしい鳴き声が、張り詰めた空気をふっとほぐす。
母親の腕にしがみついていた幼子が、その声に目を丸くし、小さく手を伸ばした。
ノアはそっとモコの背に手を添える。
そのぬくもりを確かめるように、低く囁いた。
「……お願いね、モコ」
モコは静かに頷いたかのように目を細め、甲板から飛び立つ。
白い翼でふわりと舞い降りたその姿に、村人たちは一瞬、息を呑んだ。
だがモコは、臆することなく、とてとてと歩みを進める。
村の中央で、子どもの前に身をかがめ、ふさふさの尾を小さく揺らした。
「……きゅ!」
まるで微笑むような声。その瞬間、村の空気が変わる。
「……ただまっすぐで、やさしい目じゃな」
長老が静かに言ったその言葉が、村人たちの背をそっと支えた。
誰よりも先に、恐る恐る手を伸ばしたのは、あの幼子だった。
その様子を飛行艇の甲板から見下ろしていたイスズが、肩肘をついたまま、にやりと笑う。
「――あの目じゃあ、牙をむくより、腹出して転がってくる方が似合ってるよねぇ」
風に乗ったその声に、モコが「きゅうっ!」と弾むように鳴き返す。
ラクティスは肩を揺らして笑い、レクサスは静かにノアに目を向けた。
「君の想いが、モコに映っているんだろう。……君の優しさは、きっと届くよ」
モコの柔らかな背中を見つめながら、ノアは小さく頷いた。
飛行艇は完全には着陸せず、霧の縁に立つ村の広場に、縄梯子を垂らして接触を試みていた。
ひとまずノアとラクティス、それにイスズが慎重に村へと降り立つ。
住民たちはまだ一歩引いたまま、手にした農具をぎゅっと握っていた。
けれど、モコの仕草に呼応するように、張り詰めていた空気が、ほんの少し和らいでいた。
長老は頷き、杖の先で地面を軽く突いて口を開いた。
「お前たちは……何者だ? 飛竜は、この地でも見知らぬ存在ではないが――信じて、よいのかのう?」
長老は背を丸めていながらも、その眼差しは鋭く、まっすぐにノアを見据えている。
ノアはその視線を正面から受け止め、静かに頭を下げた。
「私はノア・ライトエース。聖騎士です。私たちは、ストーリア王国から参りました。……アストラ大陸から逃れてきた避難民の方々から、この地にも危険が迫っていると聞き、協力を申し出に来たのです。決して、村の方々を危険に晒すつもりはありません」
その言葉に、長老は一瞬だけ瞳を細め、やがて杖を突きながら一歩前へ出る。
「数日前……あの霧が、東から押し寄せてきた。昼間でも光が届かぬほどに、近隣の村々を呑み込むように……」
声は掠れながらも、確かな重みを持っていた。
「霧が現れてからというもの、森に潜んでいた獣や魔物が異様に活性化した。夜ともなれば、霧の奥から、まるで何かを嘆くような呻きが聞こえてくる……」
村の長老と会話を交わす中、ノアはふと視線を巡らせた。
そのとき――ふと、村の裏手の霧に沈んだ森の先に瓦屋根らしき影が見えた気がした。
「……あちらにも、家があるのですか?」
ノアの問いに、長老はしばし言葉を選ぶように沈黙し、やがて低く答えた。
「……あの霧の奥には、“東の集落”と呼ばれていた一帯がある。だが、いまはもう……」
杖の先が地面をとん、と叩く。
「若い狩人がひとり、仲間を探しに霧へ入った。“まだあそこに人がいるかもしれない”と、命綱もつけずに……」
長老の声がかすかに震える。
「最初のうちは、呼びかけにも応えていた。しかし……急に、声が途切れた」
村人たちが押し黙る。
ノアは思わず、霧の奥へ視線を向ける。
「……しばらくして、“音”が聞こえた。骨が砕け、何かが喰われるような――生きものが、生きものでなくなる音だった」
長老はそう言って、霧の奥へと目をやる。
ノアは息を詰め、ただ霧の静寂に耳を澄ました。
「あの霧に呑まれた者は、もう戻ってこない。けれど……時折、夜の森に見たことのない獣が現れる。もとは小さな野犬や猪だったはずが、何か……歪んでいるんだ」
ラクティスが静かに呟く。
「霧が、魔物たちを狂わせてる……ってわけか」
それを見たイスズが、目を細めて静かに言う。
「アタシたちは、あの霧の“向こう”に何がいるかを確かめるつもりだよ。……もちろん、村の人たちを巻き込む気はない。信じてくれるかい?」
長老はしばらく無言だったが、杖を握る手に少し力を込め、言った。
「……あの霧が何を呼ぶのか、我々にも分からぬ。だが、お前たちが村を害す者でないのは……その飛竜が証明してくれるだろう」
そして、ゆっくりと腰を伸ばし、短く頷いた。
その瞬間、村を覆っていた張り詰めた空気が、わずかにほどけていくのが感じられた。
それを見届けたイスズがふっと口角を上げる。
「……よし。じゃあ、アタシも本気出すとするかね。これ以上、霧が村に流れ込まないよう、簡易結界を張っとこう」
その言葉を受けて、傍らにいたラクティスが腰の伝声機を手に取り、軽く肩をすくめながら口を開いた。
「――上、聞こえるか? 安全確認済みだ。追加要員、降ろしていいぞ!」
即座に、飛行艇から縄梯子が降ろされ、団員たちが次々と姿を現す。
ラクティスはちらとその様子を見やって、ニッと笑った。
「さーて、お仕事の時間だぜぇ! 動け動けぇ、遅れたら霧に食われんぞッ!」
飛行艇団員たちは気合のこもった返事を叫び、次々と縄梯子を滑り降りていく。
その中に、レクサスとイストの姿もあった。
風を切って着地したイストは、霧に包まれた村の空気を肌で感じ取るように目を細め、イスズのもとへと歩み寄る。
「状況は?」
「交渉成立。けど時間がない。この村、霧に呑まれたらひとたまりもないからね」
レクサスも傍らに立ち、村人たちの様子を静かに見渡す。
「結界の展開には……どれくらいかかる?」
「アタシが張るなら、どこだって関係ないよ。――結界は“構える気”になれば、張れる」
イスズは指先でくるりと空気をなぞるような仕草を見せ、にやりと笑った。
「素材と陣取りだけ手伝ってくれれば、あとはアタシが片付けるさ。……数分もいらないかもね」
イスズがちらりと飛行艇団員たちを見やる。
「というわけで、素材の確保と設置、手伝ってくれるね、諸君?」
「了解!」
少し気圧されながらも、団員たちが慌ただしく動き始めた。
飛行艇団の団員が円周上に石を置き終えたのを見届けて、イスズは指先を地に触れた。
魔法陣の軌跡が淡い光を帯びた瞬間、村の空気がわずかに震えた。
村を包むように張り巡らされた光の幕が、霧を押し返し――静かに、境界を成した。
村人のひとりが、息を呑んだ。
その音すら、静寂の中にくっきりと響いた。
イスズはおどけたように肩をすくめて笑った。
「ほらね、アタシってば、結界くらい朝飯前なのさ」
ノアはその様子を見つめながら、村の人々の顔に、ほんの少し安心の色が浮かんだことに気づく。
だが――その安堵を打ち消すように、ふと吹いた風に乗って、霧の奥から微かな音が届いた。
耳に触れるか触れないかの細い声――けれど、ノアには確かに聞こえた。
それは、“嘆き”というにはあまりに深く、恨みと憎しみに埋もれた声だった。
思わず身を強張らせたノアは、無意識にイスズを振り返る。
イスズは、その気配に目を細め、じっと霧の向こうを見つめていた。
軽口を封じたその横顔には、懐かしさとも痛みともつかぬ表情が浮かんでいる。
「……この気配。やっぱり、そういうことか」
つぶやかれたその声に、周囲の面々が息を呑んだ。
ノアは思わず問いかけようとしたが、それより先に――イスズは静かに口を開いた。
「……聞かせておこうか。この霧の向こうにいる、“人と共に生きようとした竜”の話をね」
重い沈黙が落ちかけたそのとき、村の長老がそっと杖を突き、ぽつりと呟いた。
「……もしや、“エリシオン王国”の話か……? 千年前に滅びたという、“竜と人が共に生きた国”の……」
その名が語られた瞬間、村人たちの間にざわめきが走った。
子どもたちすら、昔話として聞いたことがあるとばかりに目を見開く。
「竜を裏切……怒った竜が国を焼き払った――そう、祖母が語っていました」
「まさか、本当に……そんな国が……」
イスズは少しだけ驚いたように長老を見やり、口の端をわずかに上げた。
「……意外だね。“そこまで”伝わってるなんて」
長老は静かに首を振る。
「正確なことは、もはや誰も知りません。けれど“竜を裏切り滅びた王国”という言葉だけは、古くからこの地で語られてきました」
レクサスが霧の向こうを見つめながら、静かに口を開く。
「……ストーリア王国にも、“竜を裏切り、滅びた王国”の伝承が残っています」
イスズがそれを受け、わずかに目を細めて呟いた。
「ただ、“彼女”の名前だけは語り継がれていない。」
そして、視線を霧の向こうへ戻しながら、言葉を続ける。
「……そう。“あいつ”の名――“レガリア”だけが、記録にも語りにも残されなかった」
ノアは初めて聞くその名に、胸の奥がひやりと凍るような感覚を覚えた。“レガリア”――その響きには、言葉にできない何かが宿っていた。
イスズはその視線を受け止めるように、ゆっくりと語り始める。
「かつて、ここには竜と人が共に生きる理想郷を目指す国があった。エリシオン王国――その国を、竜として、そして“良き隣人”として守っていた真竜の名が、“レガリア”」
イスズの声には、深い哀惜と、拭いきれぬ後悔が滲んでいた。