十九話:決意の対話
ストーリア城の一角。
夕暮れの静けさが、白壁の回廊をやさしく包んでいた。
その前――。
ノア・ライトエースは、アストラ大陸から逃れてきた避難民たちが身を寄せる広間を訪れていた。
泣きじゃくる子ども、震える大人たち。ひそやかに語られる不安の声。
「……夜空に、声が響いていたんです。歌のようで……でも、嵐を呼ぶ呪いのようでもありました」
「光が落ちて……雷が、炎が……村は燃えました。まるで天が怒りに震えているようで……」
「唄に……誰も抗えなかった。立ち向かった者は、空から降り注ぐ光に焼かれて……」
唄のように響くうめき。竜の力を思わせる異変――。
ノアはただ黙って、その証言のすべてを見つめ、耳を傾けた。
あの地で何が起きているのか、避難民たちの話に触れるたびに、胸が締めつけられる思いがあった。
夜空に響いたという唄――それは、彼女自身の中に眠る“あの力”のように思えた。
知らなければならない。あの地で起きていることも、そして自分の中にある“唄”の力も。
もう、「知らないまま」でいる理由は、どこにもなかった。
やがて夜が深まり、ノアは避難民たちにひとときの安らぎを祈ると、静かにその場を辞した。
胸には、確かな決意があった。
そして今。
革靴の音が、大理石の床に小さく響くたびに、自分の選んだ道を確かめるような気がした。
向かう先は――父さまと母さまの私室。
(……ちゃんと、向き合わなきゃ)
避難民たちの声を聞いたあの夜に見た瞳、震える声。
唄、祈り、力を奪う異変――まるで、魂を喰らうかのように
「知らないまま」ではもういられない。
知らなくてはいけない。そして、知ったうえで、それでも進むと決めた。
扉の前で小さく息を呑む。
指先に微かに汗がにじみ、震えそうになる手をぎゅっと握りしめる。
視線を一度だけ泳がせてから、意を決して扉を見据えた。
小さく息を吸い込み、控えめにノックした。
「ノア?」
聞き慣れた声――母、ローザ・ライトエースだった。
「はい。少し……お時間、いただいてもいいですか」
戸の向こうで、ふたりの気配が動く。すぐに扉が開かれた。
「もちろんよ。どうぞ、入りなさい」
深く頭を下げて、ノアは部屋へと足を踏み入れる。
窓辺に並ぶ椅子のうち、父――ユーノス・ライトエースがひとつを引いてくれた。
彼女は静かにそこへ腰を下ろし、膝の上に両手を重ねる。
(怖い。でも……逃げたくない)
「……おふたりに、聞いておきたいことがあります」
声音は抑えられていたが、その声には、揺るぎない意志があった。
「私は……本当は、おふたりの子どもではないんですね」
部屋の空気が、かすかに揺れた。
ローザが少しだけ目を伏せ、ユーノスが、短く頷いた。
「ああ。ノア、お前は……私たちの血を引いてはいない」
「けれど――」
ローザが、すぐに言葉を継ぐ。
「あなたが私たちの娘であることに、偽りはないわ。拾ったのでも、気まぐれでもない。あなたは……託されたの」
「……託された?」
ノアの目が、わずかに揺れる。
心の奥に差し込んだその言葉が、何かを震わせた。
「そうだ」
ユーノスの声は低く、それでいて、どこまでも誠実だった。
「あの夜、真竜の夫婦が襲撃されたと報せがあった。私は王命を受けて森へ向かったが、――間に合わなかった」
「夫妻はすでに……命を落としていた。魔力の爪痕、焼け焦げた地面。……あれは、戦場だった。その中で、君だけが、生きていた」
ノアは、無意識に膝の上の手を握りしめていた。
「誰かに丁寧にくるまれて、木の根元に――まるで、静かに眠るように」
その光景がまざまざと浮かんでくる気がした。
自分が知らない“始まり”。けれど、確かにそこに命が託されたという真実。
「すぐに分かった。あれは“置き去り”じゃない。命懸けで、“託された”命だった」
ノアは、深く息を吸った。
「……その場に、どなたかいらっしゃったんですか?」
ローザが、ゆっくりと首を横に振る。
「姿はなかったの。ただ、あなたを包んでいた布、足跡の痕、それに……周囲に漂っていた、何かを守りきったあとの“祈り”の気配。それが、すべてを物語っていたわ」
「名前も、なにも残されていなかった。だから――私たちが“ノア”と名づけたの」
ノアの瞳に、涙が光る。
「……それでも、私が“竜”かもしれないって、気づいていらっしゃったんですか?」
「気づいていた。ただ、それがどういう存在なのかは、分からなかった」
ユーノスが、目を細めて静かに答えた。
「お前が力を持っていることは、育つ中で分かった。だが……その力にお前自身が怯えるようなことがあってはいけない。だから、できるだけ“普通に”生きてほしいと願った。しかし――それは、親としての願いでもあり……我儘でもあったのかもしれないな」
ノアは目を伏せて、震える声を吐き出した。
「……私、自分の中にある“それ”が、怖かったです。唄が出たときも、翼が広がったときも……自分が人間じゃないように思えて」
それでも、と彼女は言葉をつなぐ。
「でも……今日、避難してきた人たちの話を聞いて、思ったんです。この力を知らないままでは、誰かを救うことなんてできないって」
そっと、ローザがノアの手を握る。
「あなたが何者であろうと、私たちにとっては、愛しい娘よ。ずっと、そうだった。これからも――変わらないわ」
ユーノスも、力強く頷いた。
「お前がどんな力を持っていようと、それが“誰かのため”にあるのなら……それは、誇るべきことだ」
ノアの頬を、一粒の涙が静かに伝った。
「……ありがとう、父さま、母さま。……ちゃんと知れて、よかった」
そして、そっと顔を上げる。目は、もう迷っていなかった。
「私、行こうと思います。アストラ大陸に。何が起きているのか、確かめたい。私の力が……誰かの祈りに応えられるものなら、ちゃんと使いたいんです」
ふたりは、静かに頷いた。
「……行っておいで。私たちは、お前が選んだ道を、信じている」
「ええ。ノアが、ノアとして選んだ道なら」
夜の風が、静かに窓の外を吹き抜けていった。
それは、少女が覚悟を定めたことを祝福するような、やさしい風だった。
ノアは深い一礼を残して部屋を出ると、その足で王城の謁見の間へ向かった。
廊下を歩む彼女の傍らには、父――ユーノスが静かに寄り添う。
無言の父の存在は、娘にとって心強い支えであり、同時にこれから臨む場への緊張を厳かに告げるものでもあった。
父と娘の足音が、大理石の床に小さく響く。
その音に耳を澄ませながら、ノアは胸に確かな決意を刻んでいった。
――ストーリア王城、謁見の間。
高窓から差し込む西陽が、赤絨毯の上に長く影を落としていた。
その中心に跪くのは、白銀の髪をたたえた聖騎士――ノア。
騎士の礼装に身を包み、深く頭を垂れていた。
「……ご報告と、お願いがございます」
静かに、しかし確かな意志を宿した声が空間を震わせる。
王、アリスト・アルファードは玉座よりまなざしを注いだ。
その目は威厳と共に、娘のように見守ってきた者への深い思いを含んでいる。
「避難してきた者たちの話は、すでに聞いている。だが――あの唄、あの異変。……その正体を、そなたはどう見る?」
ノアは瞳を上げた。そこには、もう迷いはなかった。
「“唄”は……竜のものです。私はそう感じました。けれど、それは“祈り”ではありません。“怒り”と、“憎しみ”と、“絶望”――。まるでこの世界そのものに、何かが深く、強く、抗っているような……そんな力でした」
王の眉がわずかに動く。
「私には、真竜族の血が流れています。それを知ったときは、正直、怖かった。自分が“人間”ではないのかもしれないと……けれど」
ノアは小さく息を吸い、言葉を継いだ。
「けれど今は、自分が何者であれ、その力を人のために使いたいと思っています。アストラの地で何が起きているのか、自分の目で確かめたいのです。……どうか、調査の派遣をお許しください」
沈黙が落ちる。やがて、王が静かに頷いた。
「……よいだろう。ストーリア王国は、アストラ大陸の異変を重大と認め、正式に調査隊を派遣する。飛行艇団を中核に、聖騎士を主軸とした先遣部隊を編成する。――ノア・ライトエース、そなたをその中核に据える」
ノアは深く頭を垂れた。
「……ありがとうございます。必ず、この命に報いてみせます」
そのとき――
「お待ちください、父上」
玉座の背後から、一歩進み出た声があった。
ノアが振り返ると、そこには王子レクサス・アルファードがいた。
「私も……その任務に同行させてください」
その場に、微かなざわめきが走る。
「……レクサス、お前が?」
王の問いに、レクサスは一歩前へ出て言葉を重ねる。
「彼女が進む道は、危険に満ちている。分かっています。でも私は、ノアの隣を歩きたい。王子としてではなく――ひとりの人間として、ひとりの騎士として」
「彼女が背負おうとしている重さを、少しでも分けてもらえるなら。……それは私にとって、この上なく意味のあることなんです」
鋭い声が、空気を裂いた。
「……恐れながら、陛下。殿下の随行につきましては、慎重なご再考をお願い申し上げます」
近衛騎士団隊長・イスト・スタウトが一歩進み出て、膝をつくようにして頭を垂れた。
その声は低く、しかし鋼のように揺るぎない。
「殿下は王国の中枢そのものにございます。未知なる危地に赴くこと、軽々しく許されるべきではございません」
だが、レクサスは静かに返した。
「……わかっています。それでも、私は行かなくてはならないと思うんです。ノアは、何かと向き合おうとしている。その覚悟を、私は傍で見てきた。ならば私も、自分の立場と向き合わなければならないと思いました」
そのとき、低く重みのある声が場に響いた。
「ならば、イストを連れていくといい」
王国騎士団長、ユーノスが口を開いた。
「殿下が行く以上、近衛の剣を傍に置かぬわけにはいかぬ。イスト・スタウトは、王子の護衛としても、聖騎士の支援者としても申し分ない」
イストは振り返り、無言で跪いた。
「……承知いたしました。ならば、私もお供させていただきます」
短く一礼し、硬い声で宣言する。
「王子殿下の護衛として、聖騎士殿の補佐として――その使命を、この剣に誓わせていただきます」
レクサスはイストに礼を返し、ノアと視線を交わす。
ことばはなかった。けれど、その目に宿るものは、確かに通じていた。
王は場を見渡し、厳かに告げる。
「よかろう。アストラへの調査派遣をもって、王国は新たな局面に入る。この任、そなたたちに託そう。光の行方を見失うことのなきよう――心して進め」
空気が静かに落ち着いていく中、王はひとつ息をついた。そして、王子を見やった。
「……レクサス」
その声には、父としての柔らかさがあった。
「お前が選んだ道だ。ならば、誇れ。自らの意志で歩む者の背は、きっと誰かを導く光になるだろう」
「……はい、父上」
その返答に、王はただ静かに頷いた。
そして、ユーノスがノアへと歩み寄る。
無言のまま、彼女の肩にそっと手を置いた。
「……頼んだぞ。無理に強くあろうとせずともいい。ただ、お前のままで――信じるものを守ればいい」
ノアは目を伏せ、そっと頭を下げた。
「……はい。行ってまいります、父さま」
そのやりとりを見届けたアリスト王が、ふと静かに目を伏せるように言った。
「……さて、王子と聖騎士が国を離れるとなれば、それだけでも痛手だ。加えて、近衛隊長までもが戦列を離れるのだ。――王都の守りは、随分と薄くなるな」
それは冗談ではなかった。
まさしく、王国の“最高戦力”が動くということ。
それを口にしたうえで、王は隣に立つ男に視線を向ける。
「ユーノス、任せてよいか」
問われた男は、一歩、前へ出た。
ストーリア王国近衛騎士団長、ユーノス。
厳格なるその表情に、揺らぎはなかった。
「――お任せください。
王都と陛下の御身、王妃様も含め、私がこの剣に懸けてお守りいたします」
「近衛騎士団長として。そして……ひとりの父として」
王はふっと目を細めた。
「……あの頃と変わらんな、君は」
かつて共に戦場に立った“戦友”への、信頼と微笑み。
それは今、国を支える柱同士の静かな誓いとなった。
こうして――
竜の血を継ぐ少女と、王子と、忠義の剣たちは、世界の危機へと静かに歩を進める。
それぞれの父の想いを背に、旅立ちの風が、王都の空を吹き抜けていった。
――そして、その頃。
エテルナの夜。草木は淡く揺れ、空には白く霞む月がかかっていた。
裏庭の一角に腰を下ろしていた男が、ふっと顔をしかめる。
足元に淡い金色の転環陣が浮かび上がる。それはイスズ・エルガの「勝手口」と呼ばれる転移魔法だ。
けれど――ルーテシア人のネイキッド・シーマにとっては、どうにも相性が悪い。
体質的に目が回り、吐き気を催す。だからこそ、顔をしかめた。
「……げっ、またかよ……」
「やあやあ、ネイキッドくん。ちょいとストーリアまでお呼びだよ?」
「……拒否権、ねぇのかよ……」
ぼやく暇もなく、金色の光が彼の足元をさらう。
「うわ、ちょ、待っ……!」
視界が歪み、感覚がぐらりとひっくり返る。
そして――
「おえぇえ……ッッ!!!」
次に目を開けたとき、彼はストーリアの大聖堂の塔の一室に転がっていた。
床に手をつき、顔をしかめながら、ぐるぐると回る天井を恨めしげに見上げる。
「てめえ……ッ……少しは人を選べっての……!」
イスズは楽しそうに笑いながら、懐から何かを取り出した。
「はいはい、文句はあとで。ほら――これ、持ってきたから」
「……なんだよ、これ」
渡されたのは、金の鱗そのものを使った護符だった。
鱗は人の手のひらほどの大きさで、虹色の光を淡く帯びる。
その表面には、イスズの手で編み込まれた魔力調整の装飾が走り、竜の力を制御するための符文が刻まれている。
「アタシ本体の鱗で魔力を整える護符を作っておいた。これがあれば、転移時のめまいもだいぶ抑えられるはずだよ」
「は……? おまっ、呼び寄せる前に寄越せよ!!!」
イスズは肩をすくめて笑う。
「ははは。まあ、ちょっと酔ってもらわないと目が覚めないかと思ってさ」
ネイキッドは護符を手にしたまま、小さくため息をつく。
「ったく……ほんと、頼りになるんだかならないんだか……備えろって言われてたけど、こう来るかよ。姐さん」
「これが“備える”ってことさ。ノアが動くなら、あんたも“待つ”側じゃいられない。頼むよ、ネイキッド」
風が、塔の小窓をかすかに揺らした。
ネイキッドは口元をわずかに緩め、肩をすくめた。
「……へいへい。分かってるさ。……ノアを支えて、この戦いも――全部受け止めてやんよ」
新たな旅立ちを告げる風が、夜の神殿をそっと吹き抜けていった。
短編:家出少年が竜に拾われて三年後、聖騎士候補と斬り合った話
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にてネイキッドはイスズの正体知ってます。