一話:試練前夜
創世の神イースが生み出したとされる世界、エルグランド。
その一角、イオス大陸より遥か南西――どこまでも青く続く海の、その果てに浮かぶエテルナ島。
白亜の神殿が、沈みゆく陽に溶けるように輝いていた。空を渡る白い鳥たちが、風に乗って小さく啼く。
神の加護が息づくこの島で、明日、ノア・ライトエースは試練に挑む。
「ノア、二年間よく頑張ったな。俺が教えられるのはここまでだ。あとは、お前の実力次第だ」
壮年の騎士が静かに告げた。その言葉を噛みしめながら、ノアは深く頭を下げる。
彼女は士官学校をわずか十五歳で卒業後、聖騎士の称号を得るべく、このエテルナ島に渡った。ストーリア王国で神官長イスズ・エルガの目に留まり、その素質を見出されたことがすべての始まりだった。
聖騎士に求められるのは、ただ剣が振れるだけではない。
魔力の高さ、そして揺るぎない志。
そして何より――困難に立ち向かう“心の強さ”が問われる。
神の加護を受けるにふさわしい者でなければ、試練の門をくぐることすら許されない。
壮年の聖騎士に師事し、二年間の厳しい修行を積んだ末に、ついに明日、試練を受ける日を迎えるのだ。
しかし、その喜びの裏には拭えない不安があった。
この地で幾人もの志願者が試練に挑み、その多くが乗り越えることができず戻ってきた。ある者は絶望に打ちひしがれ、ある者は肉体に深い傷を負って。
だが、戻ってくる者はまだいい。語られる噂の中には、試練を乗り越えられなかった者が二度と戻らなかった――命を落とした者すらいたという話もあった。
それがどこまで真実なのかは誰にも分からない。ただ、試練が命を賭けるほどのものであることは確かだった。
だからこそ、それに挑む者には、恐怖に屈さぬ心の強さが求められていた。
夕刻、村の外れ。
剣を振るノアの腕に、潮風がまとわりついた。しっとりとした空気が、熱を奪っていく。
不安は、剣を振るたびに積もっていった。振り払いたくて、何度も構え直す。それでも、胸の奥のざわめきは消えなかった。
「ノア」
低い声に振り向くと、長老がそこにいた。
いつもと変わらぬ穏やかな眼差しに、なぜだか堪えきれず、ノアはぽつりと零す。
「……私は、本当に試練を乗り越えられるでしょうか」
答えを待つ間、心音がやけに耳に響いた。
こんなに不安でいっぱいで――こんな私が、本当に聖騎士になれるのだろうか
心のどこかで、そんな声がささやく、けれど、問いを口にしたときには、もう引き返すことはできなかった。
長老は、しばし黙ってノアを見つめ、それから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「誰しも、不安を抱えて歩むものじゃ。……恐れを知らぬ者など、おらん。だがな、ノア。恐れを知ったうえで、それでも前に進む者こそが、真に強い者なのじゃよ」
ノアははっとして、胸に手を当てた。
そんな空気を打ち破るように――
「おーおー、また後ろ向きなこと言ってんなー?」
不意に、肩を軽く小突かれる。
驚いて振り返ると、金髪を無造作に逆立てた青年――ネイキッド・シーマが、にやにやと笑っていた。
無遠慮で、底抜けに明るい。けれど、その笑顔に、何度救われたか知れない。
「お前、あんだけ俺とやり合って、まだ不安とか言うかよ?」
からかうような口調。でも、瞳は真っ直ぐだった。
そんなネイキッドに、長老が苦笑しながら杖でぺしりと肩を叩く。
「なーにを言うか。互角も何も、押されとったであろう、お主のほうが」
「う、うるせー! 今はノアを励ますターンだろーが!」
わざとらしく反論するネイキッドに、ノアは思わず、小さく笑った。
その笑みを見逃さず、ネイキッドがにやりと目を細める。
「あっ、てめっ、笑ってんじゃねぇー!」
無造作にノアの銀髪をぐしゃぐしゃに撫でつけてくる。
手を振り払おうとするけれど、なんだかおかしくて、ノアはもう、笑うしかなかった。
――不安は、消えたわけじゃない。けれど、それでも。
彼らがいてくれる。そのことが、どれほど心強いか。
「ありがとう」
長老はその様子を見守りながら、微笑んだ。
「案ずるな。お主ならばきっと大丈夫じゃ。明日に備えて、今日は早めに休むと良い」
そうして、静かに自分の家へと歩き出した。
ネイキッドはふいっと視線を逸らし、
「ま、試練くらい、ちゃちゃっと乗り越えろよな」
と、ぶっきらぼうに言って、走り去った。
その背中を見送りながら、ノアは、思わず苦笑した。
からかうような口調。でも、その瞳は、いつだって真っ直ぐだった。
ノアはそっと剣に手を添え、冷たい鍔に触れながら、胸の奥に小さな火を灯す。
焦らず、怯まず。ただ、静かに、明日を迎えるために。
剣を鞘に収め、ノアはゆっくりと踵を返した。
村を囲む小道を歩きながら、夜空を仰ぐ。
潮の香りを含んだ夜の風が、静かに頬を撫で、優しく彼女を包み込む。 星々が、かすかな光で彼女の足元を照らしている。
やがて、小さな石造りの建物にたどり着く。ここが、修行のために滞在を許された、彼女の部屋だ。扉を開け、そっと中へ入る。
石造りの壁、簡素な寝台、机と椅子。飾り気のない室内は、どこか落ち着く匂いがした。
ノアは剣を寝台の傍らに置き、鎧も外すと、備え付けの水瓶に手を伸ばした。タオルを浸し、軽く絞る。
額、手、首筋――剣を振った一日の汗を、そっと拭い落とす。小さな動作ひとつひとつが、明日への支度のように思えた。
ノアは窓辺に寄り、静かに外を見つめる。夜の世界が、ゆっくりと深まっていた。
小さな寝台の傍らに剣を置き、そっと窓を開ける。外では、波の音が絶え間なく続いていた。
すべてが静かで、広く、そして――どこか心細い。
ノアはそっと目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。
(創世の神イースよ――どうか、私に、歩む力を)
それだけ。長い祈りではない。けれど、心の底からの祈りだった。
神の加護を求めるためではない。誰かに頼るためでもない。
ただ、自分自身が、自分を信じて歩くために。
小さく息を吐き、小さな寝台に身を横たえ、薄い毛布をかける。
ひんやりとした石造りの壁が、どこか心を落ち着かせた。
――大丈夫
ノアは、そっと目を閉じる。恐れも、不安も、すべて抱えたまま。
それでも、心の奥には小さな灯があった。だからもう、迷わない。
夜の静けさに包まれながら、少女はすぐに、眠りへと落ちていった。
2025/04/27
改稿